自動車学校

2019年08月30日 | テレビ
今夜、ドキュメント72時間「沖縄・自動車学校 免許の先に見る夢は」を観た。
これからの生活のために大型免許を取る人、生活の範囲を広げたいために免許取る人。
老後のために大型免許証をとりたい62歳の人。
子どもが4人になったので移動するために免許がいる人。
夜間高校を卒業して、通勤のためにも免許が欲しい女性。
いろいろな人がいた。

私も運転免許証を取るには苦労しました。
私が車の運転免許証を取ったのは35歳です。
私は若いときには、車の運転は一生しないと決めていた。
「おれが運転する車で、事故を起こして人を殺すことはしたくない」と思っていたからです。
高校の友人たちの中には、高校生のときに運転免許を取る者もいた。
私が育った茨城のI町では、車がなかったらどこにも行けなかった。
私は東京で暮らすから、車は関係ないと考えていた。
しかし、私は30歳ぐらいから埼玉で暮らしている。
私が34歳のときに、勤めていた会社が景気が悪くなり転職した。
(私が40歳の頃、その会社を訪ねたらなかった)
転職した川添電子の社長が、会社で金を出すから運転免許証を取れという。
私も埼玉で生活するには、車の免許証があってもいいかな、と思った。
会社といっても、社長と専務と社員が男1、女1、パートが5人という小さいものだった。
その会社での昼休みはなかった。
弁当を20分ぐらいで食べて、あとは午後の仕事の準備だった。
パートさんが午後1時から作業ができるように、社員が作業場に部品や工具を揃え準備した。
社員40人ぐらいの会社から転職してきた私は、そういうことに吃驚した。
その会社に希望を持って就職した私ですが、半年勤めて絶望を感じた。
社長命令で私は午後、会社を抜けて自動車教習所に通った。
3ヶ月ほどで運転免許証は取れた。
運動神経のない私は、仮免も卒検も1度づつ落ちた。
免許が取れる頃私は、転職を考えていた。
求人チラシに、ある会社の求人があった。
高田馬場に親会社がある、所沢の甲陽電子製作所というところです。
その頃私は所沢の公団住宅に住んでいた。
その会社に、応募したいと電話をかけると面接してくれることになった。
それが、所沢の西武デパートのレストラン街にある店で夜7時からということだった。
そのとき、面接者と私は生ビールを飲んで面接した。
あんな面接はこれまで初めてでしたね。
面接してくれた人は興味深い人でした。
仕事以外のいろんな話をした。
なんとかその会社に採用ということになり、私は川添電子を辞めることにした。
社長は、自動車学校の費用は返せと私にいった。
私は、その金は返した。
その会社も2年後に訪ねたらなかった。
私は、そんな会社ばかりに転職しています。
バカですね。

私は、車の免許は取ってよかったと思っている。
免許があったので軽井沢で暮らすこともできた。
これからも事故を起こさないように、安全運転に心がけたいと思います。


コメント (2)
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