雨。一日中降って深夜に止む。
慶應義塾大学教養研究センター編著「生命を見る・観る・診る」を読む。
十年前に出た本書は今読んでもわかりやすい「科学の紹介」。
「錯視」を扱った章ではさらに楽しめる仕組み。
学校で教わる「理科」のつまらなさをあらためて思った次第。
最新でなくとも「研究の楽しさ」を伝える内容がないとどうにも。
もちろんそのためには教師と教科書のレベルを上げる必要があり。
さまざまな映像をもっと活用すべきなのは確か。
「世界の不思議」とそれらをめぐる楽しさをもっと。
いくらでも工夫の余地はありそうなのだけれど。
まずは教科書をもっと分厚くして中学・高校それぞれ3年間ずっと使えるのものにしたい。
そこに好奇心をそそる研究内容の紹介を増やして。
科学者のエピソードや「論文捏造」などについても同様に。
「人としての生臭さ」を教えることも出来るのだから。
「自由学芸=リベラル・アーツ」がそもそも
「文法学・修辞学・論理学・算術・幾何・天文学・音楽」だったことを思い出したいもの。
現代の分類で言えば「国語・数学・理科・音楽」になるのか。
もっとも「理科」は「生物・化学・物理・地学」をさらにあれこれと。
「学ぶことの面白さ」をどこかで伝えなければ「つまらない暗記」に終わるのみ。
その上で「あとはご自由に」という「余裕」がないのは貧しいだろう。
「英語・社会・音楽・美術・保健・体育」についてももちろんのこと。
おそらく一番重要なのは教師の「情熱」。
それはやたらに「暑苦しい『情熱』」ではなく
教師自身が「いかにも素敵な人」であることが重要かも。
残念ながら現在「教師志望」の学生には悉くと言いたくなるほど「魅力がない」。
もっともたまたま「人材の貧しい地域」を知っているだけかもしれないとはいえ。
まあどこの「世界」でも「ピンからキリまで」あるのだからそれも「贅沢」か。
少なくとも「ダメな人」に教えてもらいたくはないもの。
ところで「素敵な人」ってなに?
常に好奇心旺盛で「世界の不思議さ」に興味がある人だと言っておく。
慶應義塾大学教養研究センター編著「生命を見る・観る・診る」を読む。
十年前に出た本書は今読んでもわかりやすい「科学の紹介」。
「錯視」を扱った章ではさらに楽しめる仕組み。
学校で教わる「理科」のつまらなさをあらためて思った次第。
最新でなくとも「研究の楽しさ」を伝える内容がないとどうにも。
もちろんそのためには教師と教科書のレベルを上げる必要があり。
さまざまな映像をもっと活用すべきなのは確か。
「世界の不思議」とそれらをめぐる楽しさをもっと。
いくらでも工夫の余地はありそうなのだけれど。
まずは教科書をもっと分厚くして中学・高校それぞれ3年間ずっと使えるのものにしたい。
そこに好奇心をそそる研究内容の紹介を増やして。
科学者のエピソードや「論文捏造」などについても同様に。
「人としての生臭さ」を教えることも出来るのだから。
「自由学芸=リベラル・アーツ」がそもそも
「文法学・修辞学・論理学・算術・幾何・天文学・音楽」だったことを思い出したいもの。
現代の分類で言えば「国語・数学・理科・音楽」になるのか。
もっとも「理科」は「生物・化学・物理・地学」をさらにあれこれと。
「学ぶことの面白さ」をどこかで伝えなければ「つまらない暗記」に終わるのみ。
その上で「あとはご自由に」という「余裕」がないのは貧しいだろう。
「英語・社会・音楽・美術・保健・体育」についてももちろんのこと。
おそらく一番重要なのは教師の「情熱」。
それはやたらに「暑苦しい『情熱』」ではなく
教師自身が「いかにも素敵な人」であることが重要かも。
残念ながら現在「教師志望」の学生には悉くと言いたくなるほど「魅力がない」。
もっともたまたま「人材の貧しい地域」を知っているだけかもしれないとはいえ。
まあどこの「世界」でも「ピンからキリまで」あるのだからそれも「贅沢」か。
少なくとも「ダメな人」に教えてもらいたくはないもの。
ところで「素敵な人」ってなに?
常に好奇心旺盛で「世界の不思議さ」に興味がある人だと言っておく。