川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

きょうは……

2006-05-19 07:25:35 | 日々のわざ
午前中PTA総会があったり、午後は打ち合わせがあったり、ばたばたする。
なんだか、原稿は進まないなあ。
仕方ないか。

追記
と思って、学校に行ったら総会は午後だと知らされた。
あわわ……ってなもので、帰ってきた。
さて予定を調整できるだろうか。まいった。


乾くまで、飲むな!(ひょっとしてぼくは低ナトリウム血症だったのか?? 水も飲みすぎはヤバいのか)

2006-05-18 08:20:08 | 喫煙問題、疫学など……ざっくり医療分野
まったく関係ない検索をしていて、ふと、マラソン中の「低ナトリウム血症」の論文に行き当たった。
今から一年くらい前の論文なのだが、すごく衝撃的なことが書いてある。

スポーツをする時、脱水症状になる前に水を飲め、とよく聞く。
それはそれで、説得力を感じるし、素朴に信じていた。でも、違うかもしれないのだな。
水を飲みすぎると、血中のナトリウムイオンの濃度が下がり、低ナトリウム血症になる。
場合によっては、それで死ぬこともある。
というか、研究がなされたレース(ボストンマラソン)では、28歳の女性ランナーが低ナトリウム血症で亡くなっている……。

おまけに、ぼくもあるこっ恥ずかしい理由で、「低ナトリウム血症」なのかも、と気付いた。

まずは、原論文。
NEJM -- Hyponatremia among Runners in the Boston Marathon.
そして、日本語での解説。
ボストンマラソン走者における低ナトリウム血症.
さらにこっちも参考にすると、分かりやすい。
内科開業医のお勉強日記 : マラソン競技の低ナトリウム血症 : のどが渇く前に飲む > のどが渇いたら飲むへ.

簡単に言ってしまうと、レース中に大量の水を補給した人に、低ナトリウム血症になっている人が多かったという話。
採血した488例のうち62例が異常値で、うち3例は「危機的な数値」だったとのこと。

ランナーの大多数が、3リットル以上の水を飲んでいたということで、これはたぶん今のセオリーである「乾く前に飲め」という「常識」に従ったからだろう。

今この瞬間のスポーツナビのコンテンツでこんなものがある。
スポーツナビ | ウォーターローディング.

つまり、旧来の「乾く前に飲め」路線が、今も継承されているということ。
ちなみに、ここでは、スポーツドリンクのような「イオン飲料」を推奨しているのだけれど、NEJMの論文では、スポーツ飲料を補給した人も、水を飲んだ人も、大した差はなかったようで、「飲み過ぎはやっぱりダメよ」ということになる。

で、そこからぼくの個人的問題なのだけれど、ぼくは水をたくさん飲む。
なぜかというと、座り仕事のせいもあって、これまで何度も前立腺炎を煩ったから。
泌尿器科医は、水を飲め、と強調した。

また、尿酸値も高いから。
内科医は、水を飲め、とやはり強調した。

どれくらいと問うと、飲めるだけ、と言われたし、目標二リットル以上(一日)と言われたこともあった。

で、ぼくは執筆中、のべつまくなしにお茶を飲むようになった。
気が付いたら、一日にはっきり把握しているだけで3リットル飲む日すらあった。
これはポットとペットボトルとかではっきり量が把握できる分量で、そのほかにちょっと出先で出されたお茶とか、食事の時の水とかを入れると、4リットルに迫っていたかもしれない。

とすると、低ナトリウム血症って、ありえるんじゃないかと思えてきた。

低ナトリウム血症になると、どんなことが起きるのか。
自覚症状はどんなふうか。
ぐぐってみたのだけれど、なかなかよく分かるところがない。
みつけたのはこちら。

熊本県薬剤師会・電解質異常.

低ナトリウム血症のところだけを抜き書きすると……

・消化器症状:
悪心、嘔吐、食欲不振

・精神症状:
無力感、倦怠感、意識障害、傾眠

・神経症状:
痙攣、病的反射

ということなのだが、あるよあるよ。
倦怠感! そして、指先の震え。
特に、GW前のだるさといったらなかった。
その頃、急に暑くなったせいで、それまでよりもたくさんお茶を飲んだ。はっきり覚えている。
たくさんお茶を飲んだ後、夕方くらいになると指先が震えて困ったものだ。ついでにいうと、眠たかった(単に睡眠不足?)。

実は今も三リットル近く飲んでいて、倦怠感がある。

そこで、昨日一日、節制(?)して、二リットルくらいに抑えた。
快調に感じる。メンタルにも、身体的にもすごく爽快。指も震えない。
ほんとにそうだったのかわからないが、とにかく、飲み過ぎ厳禁、っていうのがリアリティある。

それにしても、この研究、どう評価されてるんだろうか。
水の飲み過ぎによる、低ナトリウム血症。
なんらかの事情で、たくさん水を飲まなきゃならない人(アスリートとか、尿酸値高いとか)。
一応、気にかけておいた方がよいと思われます。

それと、村上(春樹)さんにも、教えてあげなきゃ。
「たっぷり水を飲んでゆっくり歩く」って、低ナトリウム血症になるかもって(出典「アフターダーク」)。




CL決勝、十分だけ(踊るロナウジーニョ)

2006-05-18 06:30:36 | サッカーとか、スポーツ一般
寝過ごした。
目覚ましかけておいたんだけどなあ。
テレビつけたら、「衛星の回線が乱れております」とかいうことで、アナウンサーがラジオみたいに実況していた。
デコ、ラーション、デコ、エトー!って、人の名前を呼ぶだけ。
映像が復帰したのはラスト十分。
バルセロナの華麗なボール回しを堪能致しました、としかいえませんでした。
あと、踊るロナウジーニョをみて、朝から明るい気分。
ところで、ベンゲル、日本に来るんですか?



息子がハリポタを読み始める

2006-05-17 18:44:51 | 日々のわざ
別に「謎のプリンス」が出たからというわけではないのだが、息子が「賢者の石」を読み始めた。
一年前、まだ二年生だった時には、最初の一章も読み通せなかったのに、今回は勢いに乗って一日で三分の一以上読んでしまった。学校で「朝読書」の日だったというのものあるのだが、家に帰ってからもずっと集中して読んでいた。どうやら本物らしい。
とにかく、ハリポタ様のおかげで、読書の世界の入り口に立ったみたいだ。
文字で書かれた物語を、頭の中に再現して楽しむというのは、アニメやコミックをみるのとはまた別の回路。「発達」ってすごいなあと素朴に思う。
ハリポタもすごいけど。
ちなみに、ハリーについて以前 こんなことを書いたことがある。


Mac Bookに(少しは)心が揺らぐ

2006-05-17 06:20:44 | Macだし、親指シフトだし
出ましたね、iBookの後継機。
ちゃんとCore Duoなのがえらい。
黒いシャープなボディのやつがあったり、なかなかうまいです。
やっぱり、ドイツに持っていこうか、とぐらりときたり。
いろいろな環境でキーボードを叩くと想定されるので、液晶が明るいのはとても魅力的。

でもなあ、今のアプリ走らせると全部ロゼッタ経由ですよ。
速いマシンを買ったはいいが、エミュレーションで走らせる、なんてちょっといやなかんじ。

そろそろJedit4をやめて、JeditXに乗り換えるべきなのだろうかとも思うのだけれど、なかなかふんぎれないんですよね。

JeditXもとっくに購入済みで、Wordの書類を開く時なんかには活用してます。でもね、ぼくのニーズには無意味なくらいにWYSWYGにこだわってしまっていて、逆に使いにくいんです。たとえばJedit4には、画面はゴシックで表示させておいてプリントアウトは明朝で、みたいなことが簡単に出来たのだけれど、Xではマクロを書かなきゃだめ。
それ以上に致命的なのは、 「4」の方ではどんなフォントでも機能した「一行の文字数」の設定が、「X」では等幅文字にしなきゃ機能しない。あたりまえのことなんだけど、「正し」すぎて使いにくい。

ああっ、Jeditの話ではありませんでした。
Mac Book、いいなあと思いつつ、それほどでもないです。
という話。


産経新聞に「キャプテン翼」についてのエッセイ

2006-05-16 08:40:53 | 自分の書いたもの
Sankei Web 読書 【思い出図書館】作家・川端裕人 『キャプテン翼』 高橋陽一著(05/15 05:00).

まだ現物は確認していないのですが、ネットにアップされてました。
ほとんど「銀河のワールドカップ」の宣伝させていただいちゃってるんですがね。
キャプテン翼は、「ジュニアユース編」が一番燃えました。
エル・シド・ピエール対岬君とか、素敵でした。

で、ちなみに、「銀河のワールドカップ」は、ミサキ公園から始まります。
公園や路上のストリートサッカーから物語が始まるのは、サッカー物語の王道です。外しちゃならんです。

さらに言うと、岬君は交通事故多すぎです。
でも、仕方ないのです。当時は、「交通戦争」と言われた時代だったのです。ほんとに、みんなよく車に轢かれていたんだから。(我ながら、やや意味不明)


PTAという「権利」をめぐっていただいコメントなど

2006-05-16 06:36:54 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
つい一昨日のエントリ 「権利じゃないのか。PTAの活動って」についてのまとめ、です。たくさん興味深いコメントをいただけたので、あらためて、ということで。
まず、なぜああいうエントリを書いたかというと、PTAの活動があまりに「義務」的な発想で言及されることが多いので、つい、原点に立ち戻って「確認」したかったんですよね。

実はこれまでの体験では、「原点に立ち戻る」発言は、面倒くさがられたり、問題視されたり、拒絶反応が起きることが多いです。たとえば「PTAって任意参加が基本なんだから、やめられるようにしたほうがいい(入学時に意志を聞いた方がいい)」とか「そもそも、なんで必要なのかって考え抜かないと、活動の焦点がぶれるのではないか」とか、そういう話題は「そりゃそうかもしれないがけど、実際は……」というような感想をかなり感情のこもった形でいただくことが多い。

ぼくのほうにも反省点はあって、上のような言い方って、ネガティヴなコメントじゃないですか。現状を否定しているわけですからね。
だから、ポジティヴ方面の言葉遣いから、同様のことを問うていくにはどうすればいいかな、という問題意識があるんですよね。
「おかしいから、変えよう」じゃなくて、「もっとよくするために、変えよう」との違いというか。

さてさて、いろいろいただいたコメント。

やはり、PTAにかんしては、昔の言葉でいうと「ルサンチマン」が溜まっている方が多いみたいな気がしました。

たとえば、おんぶおばけさんに紹介頂いたサイトの中にある「PTAの書棚」は、ぱっと目を通しただけでも、壮絶です。とても頑張った会長さんなのですが、退任する時には無力感にとらわれておられます。

コメントいただいたみなさんも「怒濤」のおんぶおばけさんだけでなく、「プライドをずたずた」にされたとか、行使できると思った権利はすべてねじ伏せられたとか、あの冷静でクリアなMinato Nakazawa / 中澤港君ですら、「いろいろな思いが交錯し、整理しにくい」という。

「やるな、PTA」ってかんじですね。

結論としては、権利、権利といっても、それを行使しようと思ったらくっついてくる諸々のことがたくさんあったりして、実に大変。営利を追及する民間の会社だったら、ありえないほどの不効率が蓄積されていたり、お役所だったら逆にありえないほどの非民主的な構造ができちゃって穴ぼこに落ち込んだみたいに動けなくなっているケースが多いのかな。
そして、それは親にしてみれば、しばらく「我慢」していれば、卒業できるものだから、抜本的な改革など手をつけないで先送る。

だから、ぼくが書いたエントリを空々しい気分で読んだ方も結構、いらっしゃるでしょうね。
でも、それはそれ。
今後もゆるりと考えて参ります。
ぼくも何かを変えようとして結局は無力感にさいなまれ、なんにも出来ずに終わる「玉砕パターン」におちいる可能性は高くみれば99パーセント。
でも、仲間を徐々に広げつつ(身の回りの仲間も、ブログなどを通して広がる全国的なゆるい仲間も)、「今のまま」のPTAを息子や娘の世代に手渡さずに済むようにしたいなあと思うのです。

あと、中澤君が書いていた事の中で、PTAの活動と、自分の子供の福祉のトレードオフって大事ですよね。
自分が役員をやって、それで子供をかまってあげられないとしたら、それは本末転倒。
自分しかケアできない一番みじかな存在を犠牲にしてまでやることではないはずなのです。本来は。
だから、自分の子供のことで目一杯(配偶者の理解がない、とか、仕事がとんでもなくハード、とか……)な人が、無理をせずに「権利を行使しない」ことが、ごくごくあたりまえのこととして理解されるようになればいいなあ、と。

最後に、猫さんの指摘はとても大事で、

「違う視点をクローズアップするためのレトリックとして「義務じゃない、権利なんだ」ってのがあり得る。その権利としての側面をわかりやすく見せてあげるとか、わかりやすく伝えてあげるとか、そうしないとだめなんじゃないかなあ。「義務じゃない、権利なんだ」もそろそろだいぶ手垢にまみれているので、その更にもう一歩先の表現方法を見出さないとしんどくなってきてるのかもしれない」

というのは本当です。
せっかく、文章稼業なので、これはおいおいやっていきますよ。
でもね、ぼくの現状認識では、今は「違う視点」をクローズアップするというのは大事なんですよ。


つい観てしまったセレソンの発表

2006-05-15 14:32:47 | サッカーとか、スポーツ一般
あらためて納得したのだけれど、セレソンってブラジル代表という意味で使われることが多いにもかかわらず、原義としては「代表」。だから、ジーコが母国語で本日の発表をすると、日本代表のことがセレソンになる。

で、セレソン。

久保がおちて巻が入るというのはサプライズではあるけれど、合理的な選択でもある。久保がトップパフォーマンスで本大会に臨んでくれる可能性はかぎりなく少ない気がするわけで、これじゃ23人のうちの一人枠を使うのは賭でしかない。

だから、ぼくとしては、松井が落ちたことの方がショック。
でも、これも合理的といえば合理的判断なんだよなあ。
遠藤よりも松井、という気分があるのは、やはり、あの華麗な技がみたいってところが大きいからだし、また、フランス二部からたたきあげた、リスクテイカーなところも好きだったし。たったそれだけのことだから。
でも、中田浩二のようなボランチもできるユーテリティプレイヤーをDFで入れたのだから、遠藤のかわりに松井というのもアリだと思うんだけどなあ、とくどいです。

これで走り出しますね。
ケガさえなければ、これがワールドカップに臨む最終メンバー。
我々のセレソン。
誇りを持って送り出しましょうか。

「目を閉じると見えてくるもの」と新刊展望

2006-05-15 11:15:34 | 自分の書いたもの
小説すばるの6月号に、ブラインドサッカーの体験エッセーを書きました。
所沢とこちゃんず、と多摩はっさーずの合同練習で、ドリブル・シュート練習などやったり。
なかなか面白いエッセイになったと自負しています。

それと、日販が出しているPR誌の「新刊展望」で、垣根涼介さんとの対談が出ています。これは書店にいくと入手できるのかな。いまひとつよく分かっていませんが。


実在論についてのメモ

2006-05-14 20:37:44 | トンデモな人やコト
じつざい‐ろん【実在論】
(realism)
*認識主観から独立な客観的実在を認め、何らかの仕方および程度においてそれは認識され得るとする哲学上の立場。極端な観念論以外のすべての哲学的立場がこれに入る。*観念論。
→素朴実在論。

これ広辞苑による説明なのだけれど、意外にしっくりくる。
社会構成主義って、ぼくの理解ではここでいう「極端な観念論」方面に振れている。特に「理論は人間の創造物」などと述べる時。また、その考えを物理学など、コアなサイエンスにまで適用しようとする時。
かの過激なファイヤアーベントは具体的にはなんていっていたか。読み直してみようかと考え中。

最近、ちまたには、社会構成主義的な言説を述べる人が多い。
つい最近ネットにをぐぐっていても多く見つけたし、リアルライフでも立て続けに出会った。ちなみに、リアルで会った人たちは、「99.9パーセントは仮説」の読者だったり。

当然、実在論は否定してかかられる。

ただ、一見、実在論を否定しているような人でも、実はそうじゃないことがよくある。
もちろん専門領域の哲学者や科学論者はそのあたりきちんと考え抜いている(と期待される)わけだが、最近の「出会った」人々はにわか「科学論」論者とでもいうべき人々たった。

多くの場合、彼らが否定しているのは、実在論の中でもいちばんナイーヴな、「素朴実在論」といわれるものだ。

そぼく‐じつざいろん【素朴実在論】
〔哲〕(naive realism) 外界が意識から独立に存在していると見、意識内容はそれの模写と考える立場。
もしゃ‐せつ【模写説】
〔哲〕(Abbildtheorieドイツ・copy theoryイギリス) 認識は実在の忠実な模写・反映であるとする認識論上の立場。素朴実在論・唯物論などは、この見地に立つ。

ぼくはこの立場には立っていない。
素朴実在論が維持できないと感じていることは、社会構成主義者と同じだ。
しかし、実在論を擁護すると、自動的に素朴実在論を擁護していると思われがちで、居心地がわるい。

「認識は実在の忠実な模写・反映」だなんて今考えている人は、いるにしてもよほど、その方面の思索をしたことがない人だろう。この考えが維持するのがきわめて困難なのは、むしろ、「常識」なのだ。

そこから、先、「極端な観念論」にまで振れるか、それとも、どこかで、我々の認識活動が「実在なるもの」をなんとなく反映しえる回路はあるらしいと認めるか、なのだけれど、それは程度の問題であり、必ずしも「極端」に振れる必要はない、とぼくは信じている。
そして、最初は「極端」に振れていると思われた人が、話をするうちに、「構成」だの「創造」だの、といった言葉を使うわりには、意外にも、現実世界の実在性は認めていたり、どういうやり方でか自然法則というものがざっくりとはあって、それに近いものを我々が手にすることができるらしいと認めていたりすることが多々ある。

結果的に、実在か非実在かのグラーデションの中で、ぼくとそれほど変わらない位置にいると感じることもある。いや、それどころか、自分の方が相対主義者寄りだとすら感じることさえある。

なんなんだろう。この状況。

なんてここまで書いたら、トラバに気付いた。
モジモジ君の日記。みたいな。 - 構成主義と非実在論は別のものです.
この方の論点には、重要な指摘がある。
たしかに、おっしゃる通り、構成主義と非実在論は、きわめて親和性が高いとはいえ、別物だ。
強い構成主義をとる時は、非実在論を採用しないとつじつまが合わなくなるとうだけの話。

ぼくが実在論・非実在論にこだわったのは、単に「非実在論がもれなくついてくる」はずの「強い構成主義」のように聞こえる言説を弄しつつ、非実在論を引き受ける苛烈な決意を表明しえていない議論に違和感を抱いたからだと気付いた。

ファイヤアーベントは、もっと覚悟して、持論を展開したのではないか。

ほんと、知的なファッションとして、非実在や構成を述べることはとても簡単で、一見、格好良く見えるらしいからやっかいだ。

義務じゃなくて、権利じゃないのか。PTAの活動って。

2006-05-14 06:29:38 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
義務だ義務だと思われがちなPTA活動だけれど、そもそもボランティアベースで皆活動しているのであって、義務の意識が強くなると困る。
一部の「義務が大好き」な人を除いて、ちょっと不幸な人が続出する。
でも、これって違うんじゃないか。
元から思っているのだけれど、最近さらに強く思っている。

委員会活動の副委員長という、これまでよりもほんの少し「中枢」に近い、ガチッと決まった仕事をしているからかもしれない。
だって、これ、引き受けたらには義務だけれど、それ以前の問題として、楽しいよ。自分で引き受けたものであり、風通しのよい議論ができ、決められた範囲内であれクリエイティヴな工夫が認められるなら、大抵のことは楽しい。義務だとしても、嫌な義務にはなり得ない。

さて、不幸な人が続出するというのは、いろいろなケースがある思うけれど、一番多く想定されるのは、クラスでの「役決め」の際、やりたくないのに押しつけられたり、何年も何もやらずにいると「やらないのはおかしい」などと言わたり、というような現象。

もしも、PTAが、ボランティアではなくて、アプリオリに国民の(保護者の)義務だとしたら、これは正論であって、反論できない。
とはいえ、原則ボランティアなのだから、やはり、おかしいのだ。やりたくない人はやらなくていいはずだし、そもそも、PTAに入会したくない人は入会しなくていいはず。

にもかかわらず、こういう言説が横行するのは(身の回りでも報告あり。またネット上でもよく見られます)、PTAというのが単なるボランティア団体とはいえないものになってしっかり日本の教育の現場に組み込まれているからだろう。
教育の側面サポートには不可欠だと多くの人が思っているし、最近では学校と地域をつなぐものとしてさらに重要視されている。
つまり、多くの局面で必要とされており、実際に機能しており、また「子どものこと」「教育」というような聖域マターであるPTAは、本来のボランティア活動を超えて、「義務」の面が強調されてしまうところがあるのだ、ということ。

そこで、なのだけれど、提案というか、思いつきというか……。

PTA活動を義務ではなくて、子どもの教育の現場に直接かかわることができる「権利」と読み替えられないだろうか。
いや、実際にこれは権利なのだとぼくは確信しているのだけれど。

さて、なぜ、そんなふうに考えるようになったからというと……ぼくが男性だからかもしれない。

たまたま、こんな仕事をしている。
昼間、暇とは言えないが、時間の融通はつけられるから、PTA活動にもかかわることができる。
多くの会社務めの男性は、こんなことはできまい。
特権である。
会長をつとめる男性は多いけれど、そういう特別なポジションではなく、ヒラ委員であるとか(役員選出委員会をやった)、副委員長であるとか(家庭教育委員会を目下つとめ中)、PTAの中で実働する部隊でわいわいがやがや何かを「なしとげる」のは、今の世の中の男性の社会的な立場ではなかなか難しい。
実際に楽しいだけではないにしても、楽しくて仕方ないもの事実なわけで、こんな素敵なことを逸している多くの男性に対して、ぼくは恵まれている。
などと本気で思う。

で、ぼくは決して、ほかの男性に対して、「PTA活動をしないのはおかしい」とか「いつまでも逃げられると思わないでよ」などとは考えたことがない。
そんなの当たり前だ。なぜなら、ぼくは自らの権利を行使できることに歓びを見いだしているのであって、自分が権利を行使することでほかの人の権利を疎外している可能性すらあると感じることがあるのだから。

PTA活動は義務ではなく、権利。
もちろん、引き受けた瞬間に義務は発生するけれど、それは自分が自発的にかかわることに決めたから。

そう考えればすっきりする。

そこで、女性はどうなんだろう。

もともとPTAはGHQの号令で始まったものだけれど、その時、「あてにされていた」のは、当時ほとんど外で働くことがなかった主婦だ。
以来、七十年近く、一貫して「主婦」がPTAの活動の担い手として、「あてにされ」続けてきた。

でも、すでに「あてにできる」時代でもなかろう。
うちの小学校の場合、低学年の250人のうち、学童保育の登録児童はおよそ100人。半分とはいかないけれど、四割方は平日に三日以上働いている(学童保育の登録基準)。
純粋な「専業主婦」はむしろ少なく、まったく仕事をしていな主婦は、小さな子どもがいたり、介護しなければならない肉親がいたり、本人の健康がすぐれなかったり、ということが多い。

とすると、何が言えるかというと……。
今の時代、女性でも、PTAの活動に参加したくても参加できない人はとても多いのだ。ということ。

参加できる女性は、男性ほどとはいわずとも、やはり恵まれた人たちなのだ。

PTAで、大切な自分の子どものみならず、多くの同時代の子どもたちの「育ち」にかかわることができる。それができない立場の人がたくさんいる以上、「できる」立場の人たちは、やはり特権的な場所にいるのだと自覚すべきだ。
たとえば既存の運営の仕方(例えば、平日昼間にほとんどの集まりを持つことや、さまざまなかつての「主婦」のあてにした制度設計を維持することなど…)を維持することによって、自分の特権を囲い込んでいる可能性すらあることを自覚すべきだ。

だから、あえて言ってしまおう。

PTAって、義務なんじゃなくて、権利なんじゃないの。
活動できる人って、権利を行使できる幸せな人たちじゃないの、と。

よって、出来ない人を追いつめるのやめましょう。
やりたくない人は、ずーっとやらずに済ましてもよいってことにしましょう。

そのかわりにお互いの事情を理解した上での、リスペクトが大事じゃないでしょうか。
ボランティアにおいての、最大の共通通貨は「敬意」であるがゆえ。
がんばっている人には敬意と感謝を。
その反面、なんらかの事情で「やらない」ことを選んだ人に、どのような形であれ物理的、心理的制裁が下ることがないように。

え?
それじゃ、なり手がいなくなるからヤバい?

決してそんなことはないです。
今、心配したあなた。一緒にやりましょうよ。
ぼくは、まわりが許してくれる限り(玉砕しない限り?)、やりますからね。

いや、そういうやつにPTAを独占されたら困る?
それも大丈夫。
それで困ると思う人が一定数いるようなら、きっとそこから新しい役員や委員が出てきます。
そもそも、そう感じているあなたが候補です。
だって、権利なんですから、あなたが行使すればいいのです。

以上です。
アジテーション成分を含みつつ、上記の論旨、ぼくは本気でそう感じています。





謎の生命体@庭のバケツ

2006-05-13 07:35:23 | 川のこと、水のこと、生き物のこと
NazoNazxo庭に放置しておいたバケツに雨水が溜まっており、ボウフラの温床になっていた。水を捨てようと思ったら、こういうのがいた。鞭毛があって、それも入れれば体長2センチから4センチくらいにもなる。「本体」は1センチからそこらなのだけれど。なんなんだこいつ。ご存じの方ご教示を。