川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

ボツになった原稿2000

2008-05-03 23:08:35 | 川のこと、水のこと、生き物のこと
原稿を書いてボツになるということは、時々あって……とはいっても、これまでに2度、かな。
これはそのうちのひとつです。

2000年にアウトドアという雑誌に依頼され書いたものの……

担当編集者が素晴らしいと言って持ち帰る。

先輩がこういうところを直してほしいと言っている、と連絡。

修正した原稿に、担当編集者は、素晴らしいといって持ち帰る。

編集長がこういうところを直してほしいと言っている、と連絡。

というふうに延々と作業が続いて、「もういいです、ボツにしてください」となったもの。
川端史上に残る、ガキの使い系編集者でした。

ちなみに、参考文献としては、やはり、これかな?
緑のマンハッタン―「環境」をめぐるニューヨーク生活(ライフ)緑のマンハッタン―「環境」をめぐるニューヨーク生活(ライフ)
価格:¥ 1,800(税込)
発売日:2000-03

自然ってなに? 自称ネイチャーライターの脱ネイチャーライティング宣言


自称ネイチャーライターの戸惑い
自分の著作のうち、生き物について書いたものを「ネイチャーライティング」と称してきた。もちろん、ソローのように森にどっぷり浸りこんだり、ミューアのようにひたすら山歩きしたりといった生活をしているわけではない。日本の都市部に住み、一度は自然と「切れて」したまった人間が、今あえて自然と人間がダイナミックにかかわる現場(時には「紛争」の現場ですらある)にでかけていって、人と自然や野生生物との間にあるものについて考える、そういう意味でのネイチャーライティングだ。

ただ、ひとつ困ったことがある。実は、「自然」について書きつつ、ぼくにはある重大なことが理解できないのだ。
自然 【ネイチャー】っていったい何?

あまりにも基本的で恥ずかしいのだが、ぼくは長い間、その回答を得られずにきた。
広辞苑の第五版はなんのためらいもなく、「人工・人為になったものとしての文化に対し、人力によって変更・形成・規整されることなく、おのずからなる生成・展開によって成りいでた状態・・」と教えてくれる。
なんと素朴なことか。ぼくが「自然とは」と思い悩むのは、「人工・人為」が及んでいない場所が、いまやこの地球上に事実上ないからなのだから。


南極海よ、おまえもか
だいたい、ぼくの最初の著作『クジラを捕って、考えた』の中で詳述した半年にわたる南極海生活(92年11月から93年4月まで)にしてからそうだった。

南極海は世界でもっとも人里はなれた海であり、人間の活動の影響など絶無だと思いたかった。しかし、それは甘いのである。今世紀に入ってからの捕鯨のせいで、シロナガスクジラなど大型鯨類は、いまだ数を回復していない。採餌量の大きな彼らは、生態系の鍵を握る生き物であり、その消長は生態系そのものの構造変化に結びつく。シロナガスなどの激減を受けて、とりあえず、目に見える変化として、ミンククジラ、カニクイアザラシ、アデリーペンギンといった比較的小型のオキアミ食の生き物たちが、爆発的に増えたと言われている。捕鯨推進派が、「シロナガスを回復させるにはミンクを間引かなければ」というのは生態学の常識を無視した眉唾発言だとしても、とにかく、「人工・人為」によって、この海の生態系が崩れたことは間違いない。何年か前には、人工的な毒物である有機塩素が、調査捕鯨で捕獲されたミンククジラの脂肪から検出されて驚かされた。南極海が、もはや、辞書的な意味において「自然」を維持していないのは明白なのである。


飛べない鳥が教えてくれたこと
ニュージーランドやオーストラリアをフィールドにするようになって、自然と人工の境界の「崩壊」をさらに強く感じるようになった。

初めてニュージーランドを訪れたのは、ペンギンの取材をするためだった。南島第二の都市ダニーデン近郊、オタゴ半島に、一属一種の希少なキガシラペンギンが棲んでいる。その生息地がひどい。元々は森林の中に巣を作って繁殖する鳥だったのに、今では牧場の片隅の草むらにかろうじて営巣している。森のペンギンという、ロマンティックなイメージは完全に打ち砕かれた。ニュージーランドという日本に似た島国は、まずはマオリ族によって、19世紀以降はヨーロッパからの移民によって、自然が徹底的に改変された(つまり、自然を失った)土地であることを実感した。

この時の取材が縁になって、以後、カカポ、タカヘ、キーウィといった、飛べない鳥の取材へと進んでいく。特にカカポが印象深い。現在、残っているのは六十数羽で、世界でもっとも絶滅に近い野生生物のひとつだ。元々はニュージーランド中にいたらしいが、最後の個体群は南島の南に位置するスチュアート島で発見された。導入されて野生化したネコやテンにやられて、絶滅寸前までいった時点で全羽捕獲され、導入種のいない沖合いの島々に送られた。多くの個体に発信機が取り付けられていて、常時、追跡可能であるだけでなく、抱卵の様子をモニターして、危険があれば人間が人工孵化させる。各個体はいたって普通に半野生として生活しているのだが、ここでは自然だけではなく「野生」の意味さえ揺らいでいる。

一方、本土で起きていることは、目を覆わんばかりだ。コウモリ以外の哺乳類が存在せず、飛べない鳥の楽園だったこの島の森で、目下のところ最大の「敵」は、19世紀にオーストラリアから毛皮獣として導入された有袋類ポッサムだ。少なくとも2000万頭はいると言われており、新芽を食べて木々を枯らす森林の破壊者として厄介者扱いされている。政府が毒薬をヘリコプターから森にまいて、毒殺大作戦を展開しているほどだ。
ポッサムは、一応、野生生物だ。原産地では希少になって、保護されている。しかしニュージーランドでは、憎しみの対象であり、動物福祉団体やアニマルライツ団体ですら「ポッサムが不憫だ」とは言い出さない。なぜなら、ポッサムがここでは「人間が持ち込んだもの」であり、「自然」ではないからだ。


アボリジニの見た自然
お隣のオーストラリアも同様。ただ、ずっと根が深い。2万年以上にアボリジニに祖先がこの島大陸にやってきた時、大地は今よりも緑に覆われていた。しかし彼らは、狩のために火を放ち森や草原を焼き払い、結果、砂漠化が進行した。つまり、この大陸にもはや「自然」は存在しない。

4度目の渡豪で、西オーストラリアの海洋アボリジニの共同体ワン・アーム・ポイントを訪ね、ぼくはまたもや衝撃を受けた。彼らのなまりの強い英語を聞き取るのに苦労しつつ、感じ取ったのは、彼らが使う”nature”という言葉が、ぼくが思っているものとかなりずれているということだ。彼らにとって、この言葉は無尽蔵の恵みを意味する。海で猟(漁)をする彼らにとって、ジュゴンやアオウミガメといった食料資源は、超越的な存在からの贈り物であり、いくら享受してもかまわない。

彼らは政府から支給される生活保障で牛肉やビールやコカコーラを買い、足りない部分を、絶滅が危惧されるジュゴンやウミガメの肉でしのぐ。年間のジュゴン捕獲頭数は、付近のジュゴン生息数と比べて過多で、遠からず彼らはジュゴンの地域個体群を壊滅させるだろう。それでもこれまでのところ、「近代兵器」であるモーターボートを使って探索距離を伸ばすことで捕獲を維持しており、天からの「恵み」が枯渇しようとしていることを認めようとしない。なぜなら、それは無制限の「自然」【ネイチャー】なのだから。

この共同体から南に1000キロほどのところにあるペロン半島では、壊滅状態に陥った固有生態系の保護のために、導入種であるキツネの大毒殺作戦が展開されている。「本来の『自然』【ネイチャー】を回復するため」と銘打たれているが、ここで使われている「自然」【ネイチャー】は、アボリジニたちの用例とは、明らかに違う。ひとつの言葉をめぐって、様々な想念が交錯しているのである。


「自然」【ネイチャー】とは何だろう
「都市生活者のネイチャーライティング」の仕事で旅をするようになってからまだ9年ほどしか過ぎていない。前述した南極海、ニュージーランド、オーストラリアのほか、マダガスカル、マレー半島諸国、中国、ボルネオ、ハワイ諸島、北米各地、コスタリカ、チリ、アルゼンチン、フォークランド諸島、といった国や地域をそれぞれその時々の目的とともに訪れた程度。

 起こっていることはどこでも同じだった。人間の活動と、そこで「自然」とされているものとの境界線は、事実上は消滅している。島環境であればほぼ100パーセント、人間が持ち込んだ導入生物に侵食されて、もともとの生態系は大きな(たいていの場合壊滅的な)変動を蒙っている。地球上のすべてが、もはや「人工・人為」と無関係ではありえないことは自明のように思える。

 こんな状況下で、ぼくたちが「自然」という言葉を使い続けるなぜなのだろう。むしろそのことが興味深く思われるのだ。

元々、ぼくたちは、どのような意味で、この言葉を使ってきたのだろうか。広辞苑によれば『枕草子』の昔から存在した言葉だが、ただ、その時の語義は「あるがまま」を意味する広い意味で、現在の用例とはずれている。おそらく、現代的な「自然」は、明治時代に英語の”nature”の訳語として充てられて定着したものだろう。
ならば英語の”nature”の歴史をたどりたい。こんな時便利なのが、OED(Oxford English Dictionary)だ。フルセット揃えれば書棚をまるまる占領するこの百科事典的な辞書には、英語の歴史がぎっしり詰まっている。CD-ROM第二版によれば、”nature”の歴史は13世紀末の古英語にまで遡る。もっとも、語義は、「物事の本質」だ。数々の用例からみて、神から与えられた本性という意味で使われることが多かったようだ。一方、日本語の「自然」のオリジナルとしての”nature”、「森羅万象。人間による文明との対比で」が生まれてくるのは、17世紀いわゆる「科学革命」の最中のことだった。

これが実に象徴的に思える。中世の神学的な世界観から離れ、ものごと対象化して解明する個別科学【サイエンス】は、この世界を畏怖し敬うべき対象から、征服可能なものへと変えたのだから。
ふと思い出すのが、ぼくが滞在した海洋アボリジニの共同体だ。彼らの生活は多くの点で近代化されているとはいえ、祖先から伝わる独特の世界観は今も生きている。英語の”nature”は、部族が信じる、与え、奪う、畏怖すべき超越的な存在に接続されていた。しかし、にもかかわらず、近代的な武装で挑む彼らは、知らないうちに超越的だったはずの存在に、深い爪あとを刻みつけることになる。これは現代の世界の歪がもたらしたひとつの不幸な例。
一方、過去3世紀にわたって、西欧や日本のような「文明国」が行ってきたことはもっと大きな不幸を導いた。文明の対極にある征服すべき自然を切り開き、人間の版図へと変えていく。相手は手ごわかったが、それでも20世紀、ふと気づくと、人間と拮抗しえる自然は失われていた。かつて対極にあったものは、すべて支配化に、少なくとも影響下にあった。

この時に「自然」は死んだのだ。そもそもが、近代社会が版図を拡大していく際に仮設された作業上の概念だったと思ってよい。だからその意味での「自然」は、二度と復活しない。今後、環境保護活動の進展で、緑あふれる地球が再生されたとしても、それは「自然」ではなく、人によって構築され、管理される人工物だ。


脱ネイチャーライティング宣言
今、ぼくたちが、ありもしない人工/自然の区別にこだわり、「手付かずの自然」の幻想を堅持しようとしているように思える。理由として、ぼくは、ただひとつだけ、仮説を持っている。

つまり、人間が自分たちのことを特別だと思いたいからではないだろうか。かつては神に選ばれた存在として「特別」だったかもしれないが、それを失った近代では自然をねじ伏せ、支配する者としての自己イメージが身に付いた。もともとその考えと親和性のあるキリスト教諸国だけではなく、ぼくたち日本人も例外ではなかった。自分たちの優位をたえず確認するためには、外部性を持った存在としての自然が不可欠だからだ。
ぼく自身腑に落ちる説明なのだが、いかがだろうか。もし、近々、「自然」の中へ繰り出す機会があったら、ぜひ考えてみてほしい。

そして、これまでネイチャーライティングを書いてきた自称ネイチャーライターの話に戻らせてほしい。
こういったことを考え始めてしまった以上、ぼくは以後、ネイチャーライティングを放棄しようと思っている。もちろんこれまでとおり、「自然」と呼ばれるものの中に身を置いたり、考えたりしたことを書き続けることは間違いない。ただ、それを「自然」について書いたものとは、自分では考えないという意味で。

「自然」ではないとすると何か。正直言って、その言葉をぼくは発明も発見もしていない。たぶん文章の中で、「自然」の意味を多少ずらしつつ使うことになるだろう。ただ、「自然」が内包する、自然/人工の区分から自由になった時、より大きな自然理解(さっそく意味をずらして使ってます)をできると信じている。
例えば、最近、ぼくはこれまで行ってきたような「自然」を求めてのフィールドトリップをほとんどしていない。我が内なる自然と相対するのに精一杯で、そのための時間がとれないからだ。ここでいう「自然」とは、ことしの9月に生まれたばかりのヒト科動物のメスと、妹の誕生に興奮し、また嫉妬もしている2歳10ヶ月の幼いオスにほかならない。

ぼくたちはつくづく野生生物だ。自然と切り離された文明という区分の中に自らを押し込めると見えなくなってしまうが、出産や育児といった特別な瞬間には気づかされる。

もちろんこれはただの一例。人間が支配する側でも、支配される側でもなく、ごく自然自然の一部であると思えるような自然観の中で、ぼくは生きたい。都市環境の中で生活しながらも、自らの体の中に息づく自然や野生をたえず意識していたいのだ。

そんなことを考えていると、新宿の高層ビル街さえ、シロアリが作る蟻塚と比べてどこが違うのかわからなくなる。自分の都合で環境に働きかけ、環境を改変した結果、出来上がったものとして、まったく同じではないか。
ぼくの「脱ネイチャーライティング宣言」は、自然と人間の世界の区分を超えて、ぜんぶ自然なんだ、というところへとつながっていきそうだ。環境問題についてはぼくたち自身のサバイバル問題として、自然保護についてはぼくたちもその一部である自然への共感と当事者意識を通じて回路を開くことができるはずだ。