こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第16主日(マタイ13:24-43)忍耐によって、良い実を結ぼう

2014-07-20 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/140720.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
14/07/20(No.719)
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年間第16主日
(マタイ13:24-43)
忍耐によって、良い実を結ぼう
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「僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言(った)」(13・28)。たとえ話の中で主人に毒麦を取り除くことを提案した僕は、主人が当然この意見に賛成してくれるものだと考えていました。けれども主人の思いは違っていました。

悪の芽をすぐに摘み取るべきだと進言する場面は、イエスと弟子たちの間でも見られました。「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』」(ルカ9・54)。しかしイエスは二人の弟子を戒められました。

たとえ話の主人も、たとえを通して父なる神の思いを語るイエスも、最後まで悪の芽を忍耐しようとします。最後まで忍耐することがご自分の宣教活動の強さであるとおっしゃりたいのでしょう。今週は、「イエスは忍耐によって宣教を完成させる」とまとめたいと思います。

学生の夏休みが始まりました。小学生には「夏休み中は侍者の当番の日だけではなく、ミサのある日は毎日来なさい」と強く勧めました。ドッヂボール大会の抽選は強運を引き当て、これ以上ない組み合わせに入りましたが、それでも全敗する危険はあります。全敗すれば、歩いて若松東小学校脇の愛らんどプールに行って終わりになるでしょう。

けれども、全敗していてもミサに欠かさずやって来るなら、わたしは心を打たれて、大村市民プールに連れて行くこともあるでしょう。そのためだけではないけれども、忍耐する強さを養うために、欠かさず来なさいと言いました。保護者の方も協力をお願いしたいと思います。

福音朗読に戻りましょう。「毒麦」のたとえを朗読しましたが、ある人々はこのたとえを生ぬるい活動の弁明だと考えていました。つまりイエスの宣教活動は、ある人々にとっては煮え切らないもの、生ぬるいものと映っていたのです。弟子のヤコブとヨハネの反応は、その1つの例でした。

けれども、イエスがあいまいな態度を取っているわけではないことは、違う場面の言葉で知ることができます。イエスが裏切られ、逮捕される場面で、「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」(マタイ26・53)と弟子たちを戒めたことでも分かります。

イエスの宣教活動の受け止め方が二分してしまう原因は何でしょうか。それはわたしたちにあると思います。イエスを少しの疑いもなく神から来られた方、救い主と信じるなら、イエスの宣教の姿勢に疑問を持つことはないでしょう。

もしどこかで、単に偉大な人に過ぎないと考えているのであれば、人は間違う可能性があるので、イエスの宣教活動に疑問が生じるかもしれません。問題は、わたしたちがどれだけ疑いを持たずにイエスを救い主と信じきることができるかではないでしょうか。

けれどもイエスの計らいに一切の疑いを持たないというのは、簡単なことではありません。ふだんの生活で耳に入ってくる事件や事故のニュースは、神がきっと計らってくださると信じるのを難しくさせます。

世界は今も紛争が絶えません。イスラエルとパレスチナ自治政府の暴力の応酬を心配して、教皇さまも動きました。でもいまだに収まりません。先日はウクライナ東部で民間機が撃墜され、乗客284人とパイロット他乗務員15人全員の命が失われました。イエスがだれかを動かして、また国家を動かして、暴力を止めさせることはできないのでしょうか。

悲しいニュースを聞いて、それでもイエスを救い主と信じる。それはまずは司祭・修道者の召命を受けた者が担うべき使命だと思います。司祭・修道者は、イエスを信じるということでしか、自分の価値を証明することができないからです。

司祭・修道者はイエスにしか拠り所が無いのですから、もう一度自分を奮い立たせて、「悲しい出来事の中にあっても、わたしは神の計らいを信じる」と声を上げたいと思います。もしわたしたちの声が理解されなくても、神の計らいは変わりません。

だれかが、神の計らいを少しも疑いなく信じるなら、社会の状況は変わると思います。イエスは、神がご自分をいけにえとしてこの世を救ってくださることを少しも疑わずに十字架にはりつけにされました。表面的には、みじめな最期でした。けれども神の計画は、イエスの死に至るまでの従順と忍耐によって完成したのです。

宣教は、忍耐によって完成するのだと思います。イエスの忍耐がわたしたちの忍耐の物差しです。さまざまな活動の中に毒麦が紛れ込みます。身近な人の集まりの中にも毒麦が蒔かれることでしょう。それでも、忍耐して良い麦の実を神に差しだしましょう。こうした忍耐の積み重ねが、いつか社会から毒麦を刈り取ることになるのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(マタイ13:44-52)
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ちょっとひとやすみ
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▼浜串小教区内を移動していて、日中も濃い霧がかかっている日に当たることがある。珍しいと思い、場所を決めて撮影しようと考えた。だが撮影のタイミングを失ってしまった。「あ、霧だ」と思った時にすぐに車を降りて撮影すればよかったのだが、引き返してみると全体が霧に包まれ、撮影に向かない状態になっていた。
▼霧ははっきり形のあるものではないから、陸地と海がはっきり見えて、しかも霧が確実に迫ってきているという複数の好条件を見たなら、それはすべてを横に置いてすぐさま撮影すべきだった。10分もたたないのに、思い返してその場所に戻ってみると景色は一変していたのである。残念だった。
▼そこから考えると、気象の変化はものすごく速いのだと感じる。10分で、景色がすっかり変わる。すると10分で、晴れから大雨になることもあり得るわけだ。それは人間の歩く速度ではなく、車の速度だと思ったほうがよい。だから、歩いて天気の急変を避けることはできないと考えるべきだろう。
▼納得はしていないが、かろうじて霧がかかり始めた状態と、霧に覆われた状態を同じ場所から撮影できた写真が撮れたので、facebookに掲載している(「中田こうじ」で検索)。「ちょっとひとやすみ」には、福見教会地区が霧にかかった状態をアップした。
▼福見の集落には、切り立った崖になっている岬がある。ここを霧が駆け上がることがある。すごいなぁ、と思うのだが、いつも写真を撮るのを忘れてしまう。見惚れて忘れるほど、すごいのだ。この集落の人たちは、あの崖を登る霧を見て、写真は撮らないのだろうか。もし写真があればぜひ掲載したいものである。

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今週の1枚
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第326回目。福見教会周辺を覆う霧。午後5時。きっと梅雨が明けるのだろう。

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