こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第23主日(マルコ7:31-37)わたしたちすべてを父なる神に開くイエス

2012-09-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/09/09(No.609)
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年間第23主日
(マルコ7:31-37)
わたしたちすべてを父なる神に開くイエス
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視覚障害を持っている方に情報を提供する団体が九州から集まり、研修する目的で先週は宮崎に行ってまいりました。集まってきた団体は、おもに点字図書館とか、ライトハウス(この場合のライトは、明るくするほうのライトです)という名前の付く団体でした。わたしが関わっているマリア文庫はその他もろもろの団体なのですが、皆さんしっかり研修で収穫を得てきましたし、わたしは理事会にも出席してきまして中身のある会合でした。

金曜日は12時ですべての研修内容が終了したので、マリア文庫の会員は宮崎でわたしたちと共に活動している会員の案内で昼食をご一緒させてもらい、さらに青島という場所を観光してきました。唯一、研修とは別の気分転換になりました。

さて、福音の学びを得ることにしましょう。イエスのもとに、耳が聞こえず舌の回らない人が連れて来られました。イエスは人々の真剣な思いに応えて、病をいやしてくださいました。3つのことについて触れたいと思います。

1つ目はイエスは病をいやす際に、とても細かい動作をされたということ。2つ目は、イエスが奇跡によってもたらしたことは、病からの回復だけではないということ。3つ目は、イエスがだれであるか、人々から理解されなかったということです。

イエスは、耳が聞こえず舌の回らない人に、細かい動作を行いました。「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。」(7・33-34)

本来イエスが奇跡を行うのに、これらの動作は必要なかったはずです。それでもこのような細かい動作をされたのは、その人の重荷を、すべてイエスが引き受けてくださるという思いがあったのではないでしょうか。イエスはすべての人の重荷や苦しみを、一つひとつ身に受けてくださいます。

次に、イエスが奇跡によってもたらしたことは何か、ということですが、イエスの細かい動作の中にヒントがあると思います。実はイエスの細かい動作の中に、一見病の治癒とは無関係な動作が入っていました。それは、「天を仰いで深く息をつき」というものです。

この動作は、人を父なる神に結び合わせようとするものです。天を仰ぐ動作は神への祈りで、深く息をつくのは解放してあげたいという切なる願いの表れでしょう。イエスはこの「天を仰いで深く息をつく」動作で、単に病からこの人を解放するだけではなくて、人間全体を、喜びへと解放してくださったのです。イエスという方は、ただ病気を治す人ではなく、人を父なる神へと向かわせ、喜びへと解放する方なのです。

最後に、イエスはこの出来事を目撃した人々に、「だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた」(7・36)とあります。わたしは、イエスが人々をそれほど信用しておられなかったのだろうと考えました。

結果的に人々は、イエスが行った奇跡だけに目を奪われてしまい、神を賛美することはできませんでした。イエスはあらかじめ、そのことをご存じだったのでしょう。それで、人々に口止めをされたのでした。わたしたちは、人々のようになってはいけません。イエスの奇跡に触れる時、神を賛美する者でありたいと思います。

イエスは「エッファタ」「開け」と言われました。その叫びは、「耳が聞こえず舌の回らない人」のためだけではありません。わたしたちすべての心に、「開け」と呼び掛けているのです。イエスのさまざまな教えや導きにもかかわらず、わたしたちの耳はイエスの言葉がよく聞こえていません。イエスの招きがあっているのに、わたしたちの舌は神を賛美するためによく回らないのです。

そんなわたしたちに、イエスは今も「エッファタ」「開け」と叫んでおられるのではないでしょうか。生活のすべてで、わたしたちはイエスの呼び掛けに耳を傾け、舌を使って賛美する必要があるのです。朝昼晩と食事をする時、イエスは「開け」と言っているのにわたしたちの舌は食事に先立って神を賛美しているでしょうか。

一日の始まり、また一日の終わり。イエスは「開け」と言っているのに、わたしの舌は神を賛美して一日を始め、賛美のうちに一日を終えているでしょうか。こうしてイエスは、わたしたちすべてに、「開け」と言って心を神に向けるように促しているのです。

わたしたち一人ひとりが、イエスによって心を開かれ、神を賛美する者となれるように祈りましょう。人と人との語らいも、心を開いて神を賛美する語らいとすることが可能です。いつも誰にでも、イエスが「開け」と言っておられることに気づき、神に結び合わされることができますように、今日のミサの中で祈り求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(マルコ8:27-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼宮崎での研修会の途中、金曜日の朝に南宮崎教会を訪ね、ミサをささげさせてもらった。ザベリオ宣教会の神父さまが迎えてくださり、わたしと2人きりでミサをささげた。前もって研修の参加者に、「朝のミサに、宮崎で参加しましょう」と誘ったのだが、全員「朝起きる自信がありません」と断られ、1人で南宮崎教会に行ったのだった。
▼実は南宮崎教会の信徒の方が来てくださっているのではないかと淡い期待を持って出かけたのだが、実際には司祭が1人で待っておられたのだった。「あー、誰もいないか」簡単な説教を準備していたのだが、説教もする必要ないかなぁと思ったが、一応考えてみたことを披露した。
▼福音の箇所は、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という内容を含んだ箇所だ。わたしは、「新しいぶどう酒は聖霊だと思います。この聖霊を、生活の中に保ち続けるために、わたしたちはつねに新しい革袋であるべきです。古い革袋ではいつか破れてしまい、新しいぶどう酒である聖霊は流れて失ってしまうかもしれないからです。」だいたいこんなことを話したのだった。
▼話し終えた頃にこの教会の司祭が、「わたしに一つだけ付け加えさせてください」と申し出てきた。初めての体験だった。この司祭はこう言った。「ぶどう酒は、保つだけではなく、皆に分け与えてあげるのがよいと思います。聖霊がぶどう酒、それはよいアイディアです。聖霊であるなら、多くの人が喜ぶはずです。多くの人に、分けてあげるなら、多くの人が聖霊に満たされます。いかがですか。」ごもっともだと思った。
▼後で聞いた話。研修が終わってわたしたちが案内してもらった宮崎在住のマリア文庫の会員さんは、何ともう一つの宮崎市内のカトリック教会に所属している信徒だった。しかも、この日の朝、所属の教会に行ってミサに参加したという。さらに偶然は重なる。その、もう1つのカトリック教会の現在の主任司祭は、わたしの2年先輩のY神父さまだった。
▼そこまで把握していれば、南宮崎教会に行かずに、もう1つの教会に行ったのにと悔しかったが、明らかに宿泊先から近かったのは南宮崎教会だった。残念と言えば残念だが、貴重な経験をしたわけだし、今回は痛み分けということだろう。

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新企画今週の1枚
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第216回目。研修の様子ではなく、ケータイで撮影した青島の写真のうちの1枚。

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コメント
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