Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

国・国民

2008年06月07日 14時16分00秒 | Weblog
 この前紀伊国屋ブラブラしていて、おもしろそうな本ないかなあ、なんてみていたら、なぜかImagined Communitiesが棚積みされていてペラペラめくったら面白そうだけど、めんどくさそうなのでやめた。いや、「想像の共同体」って言葉は聞いたことあったけど、岸田秀氏の共同幻想みたいなもんかいな、と思っていた。ネットみると、おもしろうだね。

全般的にはこの方のまとめ
想像の共同体
ベネディクト・アンダーソン


内容的な論説としては、この方の
想像の共同体 (そうぞうのきょうどうたい)
の論述が役に立つ。

この人のは相性が悪いのかいつも、なんじゃらほい?という感じ。

で、おおざっぱには、これBenedict Anderson's Theory of Nationalism and Imagined Communities
 要するに、宗教的共同体が衰退して、将来と過去が永遠の現在に神によってすでに刻まれているような時間観念から、こっちでは○○さんがしかじかのことをしていると同時に、ときたま、あっちでは△△さんが他のことしている、というように匿名な人々が同時・等質進行しているような時間了解が、共通の土俵で同時進行しているような共同体の表象を可能にし、とともに、新聞、出版物などがワカワカランチンの古典語や方言ではなく、普通の標準語を流布させて、国・国民という概念が構築されていった、ということらしい。
 で、なぜ想像された、ていう言い方をするかっちゅうと、、現実には会ったことも、交渉したこともない奴らまで、現実の不平等にもかかわらず、何らかの深いつながりがある同じ同胞として思料するから、というわけらしい。Imagined communities(wiki)

マルクス系の論者からは、ウニャウニャ、国・国民ちゅうのは、ブルジョアが搾取・不平等をひた隠しにするための道具じゃあああ!!と批判している。
Reimagined Communities

 で、アンダーソンの代わりに買ったのが、Nationalism: A Very Short Introduction
 こちらはアンダーソン以降の議論もふまえている。
 
 やれグローバリゼーションだ、やれボーダーレスだ、やれ世界市民だと叫ばれ、国際的な貿易で人々の交流が盛んになる一方では、むしろ現在では民族対立が激化している。たんに国・国民が近代イデオロギーによる人工的構築物だと、といって能事足れり、というわけにはいかない。
 
 なぜ、国・国民といったものに人は固着するのか?

 ひとつには同一の言語や類似の服飾・食事慣習など親近感(familiarity)があるからだが、重要なのは、国・国民のイメージが、家族のイメージと重なるものがある点だ。国とはよくいったものだが、英語でもhomeland,motherland, fatherland, founding fatherなど、家族のイメージとダブらせるものが多い。

 父権主義的、あるいは母権主義的なものなどなどいろいろなイメージを投影できるが、基本的には切っても切れない絆をもとに、対峙緊張をはらみながらも、”われわれ”を生成・維持・継続させ、そこからそこへ還って行く場所、、世代を超えて守っていかなくてはいけない大事な関係、そして、また自分の人生に重要な意義をもつもの、それがが領土・土地と結ぶいて国・国民といった表象の重要な一部になっている。
 靖国やアーリントン、あるいは無名戦士の墓などや、あるいは国にまつわる物語・神話がそうした発想を強化する。米国の独立宣言でさえ神さまがかかわっている(・・・ endowed by their Creator)ことも想起すべきである。

 国や国民という概念が歴史的社会的人工的構築物だとして、それが人々にとって現実に重要な意味・機能を帯びていることを無視・蔑視すべきではない。一切は空だ、一切は依他起生だ、と認識したところで、それが消滅してしまうわけでもなく、単純に否定されるべきものでもないのと同様だ。

 ところで、英語でナショナリズムというとき、しばしば、「われわれ」を固定的に把握し、それ以外の者に対して排他的な態度とる発想だとして否定的にとらえられているのに対して、パトリオティズム(愛国主義)というとき、「われわれ」やその目標、あるい対内的にも対外的にも柔軟で妥協を前提とするものして中立ないし肯定的にとらえられている、ということは知っておいてよいかもしれない。
 その区別も評価も妥当だと思う。

 



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