Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

真理の哲学

2008年04月27日 03時47分14秒 | Weblog
以前、真理論の投稿で取り上げた池田信夫氏が紹介している本。
図書館に頼んでおいた奴がきた。
真理の哲学
 池田氏の書きぶりから余り期待していなかったが、予想外にしっかりした本である。
ニーチェーの視点主義を中心に、フッサール、メルロポンティ、フーコーの思想などがきわめて明解に解説されている。とくにフッサールの思想の解説は目から鱗だ。

 特定の視点からの眺望を絶対化し、それを真理と思いこんでしまう視点主義(10)に対して、そうした真理や価値が形成される構造やメカニズムについての分析を「超越論的パースペクティヴィズムと称し、上記の思想家たちからその観点を読み取っていくのである。

 ニーチェによれば、すべの価値は眺望を固定化する病の成果にすぎない。(17)
「隣人愛」や「禁欲」などの価値あるものが否定されるのがニヒリズムだが、ニーチェは気分としてのニヒリズムだけではなく、そうした価値を根拠となる「神」や「善のイデア」、現実世界のの根拠になるような世界を想定する世界観を否定した。(19)
 そして、弱者、敗者がなんとか優位に立とうとして、悪い敵をくくりだして、その反対物として善人=自分をおくのがルサンチマンの構図だ。(20)

 ニヒリズムの帰結として「永遠回帰」の思想がでてくる。ニヒリズムにおいて、善い悪いの尺度がないから、よりよくも悪くもならない。いつまでも同じことが続くのである。

1)今日何をしても結局何もかわらないから、現在の行為が意味を失う。
2)苦しい毎日も繰り返され、それが終わる、という可能性さえ奪う。
3)芸術作品にふれた感動も、繰り返されれば、飽きてしまう。永遠回帰はこうした喜びも奪う、(24)
と著者は「永遠回帰」を解釈している。

「力への意志」はなんらかの主体に帰属するものではなく、「可能なかぎりその及ぶ範囲、強度、質を最大化しようとしているのが、「力」への意志だ」という。そのイメージとして、カビの繁殖状態を範型にすればよい、という。(28)赤、緑、白などのカビはそれぞれ最大限自分の領土を拡げようとして、力が拮抗したところが境界線になる。

 価値に関する眺望的固定病の根底にもこのような諸力の拮抗と均衡という力への意志が働いており、それを「解釈」とよぶ。自然の事実や、「原子」などの基本概念も解釈の産物であり、また、自我さえも解釈である。(32)
もっとも、ここで「「自我」の根底ににある「自己」とは区別される。「自我」は生まれたときから死ぬときまで同一で、意志・思考・行為・責任の主体もしくは原因(35)であるが、自己はあるものAがその同じAに関係するという関係の一態様にすぎない。サーモスタットが一瞬働いて冷却装置を停止して、自己制御・自己関係するように、それはわずかな時間しか続かない「関係」であるが、それも自己関係化である(36)

 例えば、社会的地位のある銀行家が心中では地位や家族を守るのか、すべてすてて秘書との行為を成就するかは、様々な力への意志が拮抗したに違いないが、何かのきっかけで一つの衝動が優位を占めたとき、銀行家は出奔する。それを「自我」に起因する決断・意志と思い、また、誘惑に打ち勝つ自我という眺望を想定し固定化したがるが、内実は力への意志の拮抗に決着がついたにすぎない。(38)そして、諸力の拮抗、均衡という流動性において、関係の一態様として自己が絶えず生まれは消えながら、家庭を愛した銀行家から恋に生きる男に自己変貌した、というのである。(39)(ここは文章の意味がつかみにくかったので私の解釈がはいっている)。
一九八〇年代ドイツで盛んであった自己関係性にかかわる議論は根源に実体的自我をが想定し、自己を派生的と見ていた点で、実態を錯視している、とする(41)

・・・てなような枠組みをフッサールやポンティ、フーコーにも見いだしていくのである。で、それぞれの思想の解説は見事だ。借りた本だけど、やっぱ買おうかな、と思ったくらいだ。(但し、ドュールズを中途半端に出す必要があったかどうか?)

 しかし、題目の真理論はほとんど展開されていない。

 「象が認識できるのは、そこに象がいるからだ」「そこに象がいるという主張は、そこに象がいるときだけ正しい」という人は象そのものがそれに関する我々の知識や認識と関係なく存在する実体、人間経験をけた絶対的存在がある主張し、人間の立場を超えた、特権的な視点に自ら擬している立場を超越論的実在論と呼んで(42)いるが、そのような主張をする哲学者がいたのかね?てか、因果的知覚論とか、真理の対応説、そして、著者が想定したような論者の説などがごっちゃになっていないか?
 カントともちがうだろし、もちろんヘーゲルでもない・・・・?
 「あなたの家系には宝くじの当たった人はいない」現実に当たる以前にその真偽の決定のしようがなく、一義的に確定できるような全知の神のごとき視点に立つことはできない、(241)ということをたぶん、言いたかったのだと思う。
 しかし、例えば、それを単純に非実在論とくくってフーコーなどと同じ立場におくのも無理があろう。そうした点については、 Searle and Foucault on Truthに詳しい。
 少なくとも、真理の哲学と銘打つなら整合説やプラグマティズム、ハイデカーなどの真理論にもふれてほしかった。なくてもよいが、それなら、対応説についてしっかりとした論述がほしかったところだ。
 それと、真理として通用している命題が権力や力に支えられているということと、それが真理であるか、否かは別問題である。
 また、世界が文化相対的な言語によって切り分けられ、あるいは構築・構成されているということと、文化相対的に言語表現された言明が世界の側のあり方によって真偽が決まる、ということは両立的である。
 別問題ではない、非両立的である、という主張でもよいがそれならそれで、そうした、議論がないと真理論としては、ちと議論がうすべったいような気もする。

 私の不満としては、それと、著者のいう「自我」と「自己」の区別に曖昧さが残るところだ。自己は自我とちがって内容が変貌するとみているようだが、しかし、著者のいう自我も自我としては同一であり、その内容は変化するのである。むしろ、変化する内容の基底が自我なのである。関係としての自己というのはーーーそういえば、精神医学者の木村敏氏なども使っていたがーーーしかし、論理的にはどういうことなのか、その分析が難しいところなのである。まず、普通は、関係性を実体と実体との関係として捉える。そこから、自己関係性といっても実体的自我が実体的自我と関係する、という意味にとられる。しかしながら、元始分割のような図式では全体が分割し、分割されることによって関係が生じ、同時に分割された(すくなくともふたつの)「もの」が生じる。一方の自己は他(方)でもない自己であり、他者との関係で自己規定する。これが一つの解釈である。しかし、銀行家の例などからすると、元始の全体を自己として、とらえ、その自己分割をその(内部での)力の拮抗としてとらえ、それを自己関係として捉えているのかもしれない。そこらへんがどうお考えになっているのかもうすこし詳しい説明をしていただきたかった。
 
 また、「永劫回帰」の思想の解釈は、ちょっといただけない。個人的には永井氏が著書で示した解釈の方が魅力的である。そしておれのような人間には、どの解釈が本当のニーチェに近いか、などということよりもそっちのほうが重要なのである。
 永劫に繰り返されるということは、来世がない、ということであり、それがそうである根拠もなく、また、外からの基準がない故に、単眼的にただ、現在をそのまま肯定するーーー何もすることもなくなった老人かあるいは、無邪気な子どもの認識に近いありかたである。
 
 著者は永井氏の本を紹介しながら「癖がある」、と評するが、しかし、これはもうお二人のタイプが違うからそのように感じるのもしかたがないのであろう。著者は優秀で誠実な伝統的な思想解説者であり、永井氏はどちらかというと哲学の病にかかった哲学者のタイプなのである。

因みに「インターネット無政府主義者」と本書の内容との関係はまったく謎だ。

 
 







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