Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

真理論

2008年04月07日 04時20分21秒 | Weblog
池田信夫ブログ フーコーの真理論に関する本が紹介されている。ちょっと今度のぞいてみようかな?「インターネット無政府主義」の目を覚ますようなことは書かれているのかいな?
 フーコーの真理論に関するは当ブログでも以前紹介した。
 伝統的な真理論ってそんなおもしろいものじゃない。事実との対応することが真理であるという対応説、いやいや、体系と整合的であれば真実なんや、という整合説、うにゃうにゃ、有益な効果があれば真実なんやというプラグマティスト、うにゃうにゃ、経験の地平を切り開くような斬新な視点を開示しているものが真実なんや、というハイデカー系
 真理として通用している言説の裏に権力あり、という思想は新しいものでも何でもない。マルクス主義の系譜が「イデオロギー」として括った発想がそれだ。もっとも、それは虚偽意識として把握され、お前らが本当だと思っているのは構築された嘘っぱち、本当のことはオレらが知っている、といった発想があった。ポストモダン風になると、その本当のことっちゅうはないんや、あるいは、そんなもん不要なんやという。どんな言説もある特定の視点や価値観から語られるに過ぎないという視点主義に結びつくと地域的な真実しかないんだ、という相対主義になるか、あるいは、共約不可能な様々な真実があるんや、と多元主義的になる。
 で、要するに、ある自然的・社会的・国際的な事柄について論争がおきたとき、その参加者の文脈や体系から独立にその一方が真で、他方を偽だと確定的に審判してくれるような「実在」、あるいは、そうした「実在」を記述したり、そうした「実在」に根拠づけられたような「大きな物語」ってものがないんだ、神様のように中立的な観点から知ったかぶりして、審判するのは勘弁してくれよ、というのが現代のおおざっぱな潮流じゃないかな。
(ところで、おれはその昔、初めて真理論を米国の大学でならったとき、なにか違和感があったの思い出す。たしかに、西洋文化における重要な話題になることはわかるが、日本でもそうだろうか、とか、日本で真理に相当すると思われる大和言葉の「まこと」とともかなりズレているな、とか・・・・そうした違和感はいまでもぬぐいきれん。ユダヤキリスト教やイスラム教的な一神教の、神は死んだ、といわれても、そもそも そんな神がいない文化で育っておるのからのお)
 まあしかし、そうしたアカデミックな議論が現代の個々の政治状況や倫理状況で具体的にどのように生かされてくるかというと、要するに、人間は有限で、誤りを犯しやすい、そして個々人や他文化の人々は容易に誤解しやすいから、自分の価値観を安易に押しつけないように妥協すべきは妥協してお互い仲良くやりましょう、程度の常識的なところに落ち着く。
関連記事Moral Relativity
 人権の哲学的な根拠が希薄でもあっても、保護されるべき自由に関する解釈がいろいろあっても、いままで大きな物語のなかで末端に追いやられた人々も、結局は、そうした語彙を使って自己主張していくわけだ。
 おれは流行について行けないし、興味もないから、長崎屋サンバードか西友のノンブランドを着古していこう。いや、臨機応変、必要に応じて着替えます。

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