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本 Searle and Foucault on Truth

2007年11月27日 13時24分08秒 | Weblog
 真理論についてなかなかおもしろい本である。Searle and Foucault on Truth
 サールは素朴実在論者で、対応説をとる。対応説ってのは、ある信念、言明、命題はそれが事実と対応するとき真実である、という説で、真理は信念と実在との関係であり、信念、命題、言明の属性である、とする説だ。で、昔から一体、いかなる意味で、信念や命題が実在と対応するのか、どうやって事実が命題を真にならしめるのか、そこらへんがあいまいだった。サールも古典的対応説をとっていないものの、その批判を免れない、とする。
 一方フーコーは非実在論者のように思われているがそうではなく、暗黙の実在論者であるが、彼の真理に関する考えはサールの伝統的な観念とは異なる、とする。すご~くおおざっぱに言えば、言語外在的な実在があるにせよ、それは真理とは別個で、あまり関係せず、真理は権力による構築であり、あるいは、斬新な視点であるとする。
で、おれなりにまとめてみると、
強硬な実在論ーいかなる概念枠組みによらず、唯一の実在があり、その実在を正しく描写した唯一の記述がある。
穏健な実在論ー実在があり、いくつかの共有可能な記述があり、それらはともに真実でありえる。
暗黙の実在論ー実在はあるが、記述を真にするのは実在ではなく、真実は文脈・権力関係など依存する。
非実在論ー実在はない。あるのは記述・解釈だけで、真実は文脈・権力関係などによて判定される。
で、これまたおおざっぱにいうと、穏健な実在論がサール、暗黙の実在論がフーコー、非実在論がセラーズやデリダってところかな?

 ま、さっき読み終わったばかりだから、かなり浅薄な理解だと思うが、印象としてはなんでこれほど、サールに厳しくて、フーコーに好意的なんかなーー個人的にサールにいじめられたことでもあるんかいな?ということと、フーコーはやっぱ、自分のホモセクシャティーに対する社会の歪んだ圧力から解放されたくてその情熱を学問に向けたんかな?ってななんてふと思い浮かんだな。
 権力による構築された真理と、ローティーなどのプラグマティストなのど有用性の基準、そして、斬新性の基準で選ばれる記述との関係をもう少しつっこんでほしかったな。
 また、少ししたら読み返して整理してみたい本だ。
なお、ちゃんとしたレビューはこれ

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