Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

Understanding Postcolonialism

2009年07月28日 14時54分00秒 | Weblog
Understanding Post colonialism

これもこの前、紀伊国屋でみつけた。平積みされていたから、どっかの大学でつかうのだろうか?
これも忘れてしまうといけないから、ちょっとメモっておこう。

日本では、ポスコロって、どのように受け取られているのだろうか?ポストコロニアル理論

ポストコロニアリズム とは

経済や文化、政治に残存する植民地主義の影響を明らかにし、現状を変革するための思想。「ポスト」という接頭辞は、様々な地域が解放された後に、現在もなお植民地主義の影響のもとにあるということを強調するために用いられている。植民地の多くは、第2次大戦後政治的に独立したにもかかわらず、先進国に経済的に依存せざるをえない状況が続いた。グローバリズムの進展に伴い経済的依存はますます高まり、情報や文化資本の流入によって固有の文化を維持する困難にも直面してきた。こうした現実に対して、特に1960年代以降、いまなお植民地主義の影響下にあるという問題意識のもとで、旧植民地出身者による不平等や格差の克服への取り組みが現れてきた。植民地主義の遺制は経済的な側面だけではなく、民族や人種、宗教、ジェンダー、セクシュアリティーなど様々な要因の組み合わせが複雑に関連し合っている。野口勝三京都精華大学助教授  
と言われる。

 日本は植民地化した側であり、加害者の側である。

ポストコロニアリズム
講演会企画プレゼン 991029 犬飼太介

確かに


日本の場合は、戦争の記憶と植民地支配の記憶とが時間的・空間的な連続性のなかで重なり合っており、世界戦争の記憶が抑圧されれば同時に植民地支配の記憶も抑圧される構造がある。

という側面はあろう。

 が、時代や背景の違うポスコロの論者たちの言説を、例えば、日本人や在日韓国人朝鮮人がそのまま重ね合わせるのは安易すぎるだろうし、この理論というか言説群を単に旧植民地の側の力の支配の残滓としかみないとすれば、もったいない気持もする。むしろ、優勢的・支配的力を持った枠組と、その枠組みと遭遇し、そこに組み込まれながら、そこからからはみ出し、すり抜ける側との物語として見た方が面白いのではないか、と思う。
 日本の場合、おおざっぱにいえば、西洋列強の枠組みに組み込まれる過程、その枠組みの中で支配・加害の側にまわる過程やら、そして、また、欧米の優勢的な枠組みとの調和や対峙をしている過程を読み取ることもできよう。

 また、戦略的にいえば、ポスコロ論というのは、英語圏などで一定の評価を受けているのだから、欧米社会でしばしば他者視される日本の主張する場合、この理論に訴えない手はない。相手の武器を使えば、相手に対して説得力を増す。

 で、ある種の社会的力の支配といえば、マルクス主義の理論があり、著者もそこから始める。まあ、イデオロギーとか階級とかブルジョアによる経済的搾取とか、云々というやつだね。植民地主義に関しては、よく指摘されることだが、
Marx was ambivalent about the colonial project. He criticized economic exploitation in brought with it but also saw the benefits of wiping out the hierarchies of caste system in India

というように、これはインドの場合だが、それまでの植民地を搾取した面と植民地の古い身分制度を打破した側面について両義的な評価をしているわけだ。

 で、それはそれくらいにして、ポスコロ論者に影を落とす存在として著者がピックアップしているのが、レヴィナス
 で、そこで強調されるのが、自分に絶対に同化されない他者の存在と、それに対する尊敬、また、自己を全体性、同一性として、あるいは、普遍としてとらえがちな西洋哲学の陥穽。要するに、自己を全体性にあるいは、普遍に埋没させてしまえば、「全体性」とやら、あるいは普遍からはみ出し、すり抜ける他者が抹殺されることになり、そのような試みからは戦争は必然である、と。で、自分に同化されない他者を歓迎する出会いの場所として面ー接(face to face)があり、言語はそうした不可知で無限な他者を、他者との共通性・同一性の前提なしに自己に開示する、という。で、対話(discourse)においては、語られたことを単一で限定されたものを把握する側面(The said)と、それにおさまらない側面(The saying)があり、哲学は前者ばかりに注目してきたが、むしろ後者に注目すべきである、と。で、倫理的には、こうして他者に直接的に開かれた他者との出会いがあり、そこにおける、倫理的な責任とは他者の差異に耳を傾け、その要求に応答することであるが、政治的には、第三者が、共同体、社会という形で、その関係を規制・介入してしまい、自分と他者との直接性・非媒介性が汚されるが、倫理性を優先すべきである、という。


で、次にファノンを取り上げている。日本でもかなり古くから注目されていたようだ。
ググるとフランツ・ファノン
 海老坂武
なる本も出版されているんだね。
代表作
「黒い皮膚・白い仮面」 フランツ・ファノン
「地に呪われたる者」 フランツ・ファノン

 自分がフランス人だと思ってフランスの部隊に入隊したところ、とんでもない、フランスの部隊はカースト制度で、白人がトップにいて、セネガル人が最下層、そして、最下層の人々が真っ先に前線に送り込まれる。
ーーーこれは朝鮮戦争のときのアフリカ系アメリカ人もそうだった、なんてのを読んだことがある。
 こうした経験が彼の思想の根底にあるのかもしれない。
で、植民地政策を非難し、植民者の優越意識やら、黒人の魂のような流布された固定観念に対して怒りをあらわにするが、生の暴力というより、、ネーティブに関する破滅的なイメージを入植支配者・被支配者の意識に織りなしていく、そうした、文化的暴力をなによりも認識していた。
 白人対黒人の2項対立は激しく、その両者の相互浸透的な中間項の余地はなかった。白人が妄想した黒人が物象化され、黒人の魂などというものもの白人が作った製品に過ぎない。黒人とは誰なのか、何なのか、は自分のほうが優れていると思っている白人が決めた。白人のそうした視線にさらされ、しかも、白人が投影するそうしたイメージに黒人はなじめず、黒人の自己は引き裂かれていく。

 また、例えば、白人がねつ造した、黒人の性的に強壮的なイメージは白人にとって、黒人を欲望と恐怖の対象にする。
 黒人がフランス語をしゃべる、ということが黒人に白人の仮面をつけさせ、黒人を白くしていく。
黒人の方言をしゃべれば、黒人は言葉に不自由だとして、蔑視され、標準通りしゃべれば白人の標準に乗っかることになる。
 黒人が白人に頼っているのがいけないのだ、という論者もいるが、しかし、白人が黒人を白人に頼らせるシステムが可笑しいのだ、と主張する。
黒人の手による黒人のアイデンティティーを主張しようとして、伝統へ回帰、あるいは伝統を復活をしようとするものもいる。確かに、支配的なイメージを打破し、被支配者の傷を癒すには有効であるものの、黒人というものに固定した価値・本質などは存在しないし、有るとしてしまえば、歴史の決定論に堕してしまうから、黒人的なものは、むしろ、つねに創造的な機動的なものとして把握されるべきである。密かにヨーロッパ人(男性)を代表像とする従前のヒュまーニズムではなく、互いに同化されえない自己と他者が共存し、たえず自己・他者が新たに創造されるヒューマニズムを実践するところに政治的解放がある。
 もっとも、そうした解放の過程で、現地のエリートと大衆、都市と地方での分裂がある。例えば、 植民地にいる現地エリートは、植民地主義的制度を自国の内部に踏襲しながら、自国を整序していこうとする傾向がが、大衆はそんなものを欲していない。そこで、そうした分裂を回避し人々をまとめるのがナショナリズムであり、国の文化である。ここでも。ある伝統に回帰しようとするものもあるが、そうした儀式や習慣などもすでに激変してしまっているのである、むしろ、植民地から自由になる将来を見据えて、その抵抗の進展の中で醸成されていくものである。


サルトルは植民地主義に資本主義社会で労働者を搾取する構造と似た側面もあるが、しかし、、人種を搾取の正当化の根拠としてしている点に特徴がある、とみた。黒人の側は植民者がもつ固定観念を打破するため、積極的に黒人のアイデンティティを主張すべきである。もっともアイデンティティといっても、それは元祖黒人や黒人の本質ではなく、植民地主義が作った虚構の黒人像に反撃を加えるものである。「ネグリチュード」は最終到達点ではなく、人種にこだわない社会への、移行点である。ファノンはそこに噛みつく。なんや、おれのネグリチュードは弁証法の一幕にすぎんのかい?と。もっとも、両者共に本質主義というわけでもなく、むしろ、「ネグリチュード」という用語の用法の違い、かもしれない。
 また、サルトルは黒人による白人に対する眼差し返しにより、白人の側も自分が何であるかについて動揺し、また、黒人独得の言い回しにより、言語に関する支配権も動揺する。
、対自的存在者である我々はつねに自己創造していくのであるから、人種にこだわらない理想社会、あるいは、人種という概念が眠りこけたような弁証法の最終段階のような社会(society without race)をサルトルは設定するのもの、それは固定した到達点ではなく、つねにより高い目標を目指す到達されることがない(deffered)到達点である、と言える。

ガンディー ナンディAshis NandySubaltern Studies 省略

フーコーは狂気や性に関するさまざまな言説の歴史的断層・断絶を分析し、イデオロギーや経済的な下部構造というより、そうした言説が知識と権力の紡ぎ出していることを明らかにする。例えば、、Biopower生-権力

 もっとも、フーコーにおいて語られているのはヨーロッパの主体にすぎず、ヨーロッパの他者である無名の存在者たちについては語られていない。そこで、Spivakなどは、そうした、方面に焦点を当てるのである。

 また、理性と狂気を二分割して、狂気を理性の外側に位置付けてしまったが、デリダらは、狂気は理性の代補として、理性の内側にあって、統御も排外もできない痕跡、差延として把握されるべきである、などという批判をする。

 サイードはフーコーの言説の分析を援用して、オリエンタリズムを解明する。オリエンタリストたちは、多様性を無視して、東洋を十把一絡げにし、歪曲したイメージを流布させながら、西洋の支配を強化する言説を流通させる有様を描出する。

もっとも、サイード自身が、西洋や東洋の側の多様性を無視しており、また、高度な教育を受け、当該社会で高い地位にある自身を、権利が剥奪され、取り残された人々と同一視するのはいかがなものか、などという批判もある。


 面倒だから、あとは省略

 いずれにせよ、欧米以外の文化圏やその人々が、ユングのいう影シャドウのような存在者として描出される傾向があることはたしかではないだろうか?

なお、関連投稿として、

Post-colonialism
post colonalism 2
Edward Said: A Critical Introduction1
Postmodernism


Relativism
Barthes and the Empire of Signs

差異への権利
Identity as Diversity
白人

 キムチの誇りと本質主義 オリエンタル、日本人に対する固定観念(オリエンタリズム定義など)

笑われる日本人

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