The Search for Meaning: A Short History
紀伊国屋でなぜか棚積みされていたので、買った本。
これが意外にもなかなかの名著でして、項数もそれほどないのに面白い。
人生の意味という気恥ずかしくなるような主題について人生を有意義に生きる、あるいは、人生で意味を見いだそうとする8つのアプローチを紹介しています。
1 神話
2 哲学
3 科学
4 ポストモダニズム
5 プラグマティズム
6 元型論心理学
7 形而上学
8 自然主義
の8つであります。
これら8つのアプローチを専門用語もとくに使わず、その叙述の過程で環境主義者や実存主義あるいは科学主義、ニヒリズムなどなどについても様々な深い洞察を示唆しており、非常にためになります。
その根底にある問題意識だけ、括っておくと、例えば、人は偶然生まれた社会や環境の中である役柄や役割、あるいは、いくつかの価値観など与えれて、それを選択しながら、そこそこ生きているのですが、その流れにつまずくことがある。会社でうまくいかなくなったとか、愛する人を失ったとか、身体に障害を生じたとか、なんやかや、と。で、立ち止まってなんで、こんな生活を続けなくちゃいけないんだ、と。いや、うまくいっていても立ち止まることもある。著者が引用し、また、発禁本にすべきだとしている「懺悔」という著書のなかで、トルストイは地位と名声を得た後、
などと思い悩み始めて、絶望の淵にいたる。これは一種の病気でして、ある種の人々にとっては一過性のものですが、ある種の人々には一過性でない。で、そうなると、狂気と正気の境界、あるいは、足下に狂気がみえる綱渡りをしているようなもので、とにかく渡りきって落ち着きたいが落ち着けない。まあ、私はこうした境界の雰囲気というのは案外好きで、狂気になってしまうのではなく、狂気をうっすらと感じている領界ってのはかなり正気じゃないかとも思う。まあ、それはいいとして。
8つのアプローチいろいろ面白いのですが、ポイントはどこに究極の価値を見いだすか、ということで、究極の価値というのは、正当化も説明も要らないような、それ以上上にもう審級がないような価値というか権威の謂いであります。
で、例えば、神話的世界ならやっぱ神とか聖なるものが宿るある主人公・キャラとか、プラトニストならイデアの秩序とか、環境主義者なら自然の均衡とか、あるいは、、その他、個人の意図や企図や目的にそれを見いだすかもしれない。で、面白いのは、最後の自然主義で、著者の解釈によると、超越的な何かや、企図や目的でもなく、自発的な経験そのもの、目的のない、あるいは、自己目的的な行為そのものに意義を見いだしている。白隠禅師の衆生近くを知らずして、じゃないけど、遠くに探していたものがむしろそれに浸っていた、みたいな感じです。例えば、不図、夜空を眺めるとそこに畏敬すべき風景があり、また、音楽に注意を集めれば、集めるほどそれ自体豊かで、際限のない経験を提供してくれる。もうすぐ手元に無限があるじゃないか、と。
最終的にはもう一歩、踏み込まなければ、落ち着くところに落ち着かないのではないか、とも思うのですが、しかし、豊かな示唆に富む名著であります。
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死ぬ権利と生きる意味
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1 神話
2 哲学
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4 ポストモダニズム
5 プラグマティズム
6 元型論心理学
7 形而上学
8 自然主義
の8つであります。
これら8つのアプローチを専門用語もとくに使わず、その叙述の過程で環境主義者や実存主義あるいは科学主義、ニヒリズムなどなどについても様々な深い洞察を示唆しており、非常にためになります。
その根底にある問題意識だけ、括っておくと、例えば、人は偶然生まれた社会や環境の中である役柄や役割、あるいは、いくつかの価値観など与えれて、それを選択しながら、そこそこ生きているのですが、その流れにつまずくことがある。会社でうまくいかなくなったとか、愛する人を失ったとか、身体に障害を生じたとか、なんやかや、と。で、立ち止まってなんで、こんな生活を続けなくちゃいけないんだ、と。いや、うまくいっていても立ち止まることもある。著者が引用し、また、発禁本にすべきだとしている「懺悔」という著書のなかで、トルストイは地位と名声を得た後、
「「私は自分が何の為に生きているのかを知りたいと思った。でその為に、私以外のあらゆる事物を研究した」
「何のために生きて来たのか。何のために死んでゆくのか」
「何故に私は生きているのか。私は何をなすべきであるか」
「今日只今--然らざれば明日、疫病が、死が、私の愛する人々の上へ、また私の上へ、襲いかかって来るであろう(現に幾度か襲い掛かって来たのである)そして腐敗の悪臭と蛆虫のほか、何物も残らなく成ってしまうのだ。私の行為は、それがいかなる行為であろうとも、早晩、すべて忘れられてしまい、そしてこの私というものが、完全に無くなってしまうのだ。それだのに、何であくせくするのだろう。どうして人はこの事実に目をつぶって生きていく事が出来るのだろう?実に驚くべき事だ」リンク
などと思い悩み始めて、絶望の淵にいたる。これは一種の病気でして、ある種の人々にとっては一過性のものですが、ある種の人々には一過性でない。で、そうなると、狂気と正気の境界、あるいは、足下に狂気がみえる綱渡りをしているようなもので、とにかく渡りきって落ち着きたいが落ち着けない。まあ、私はこうした境界の雰囲気というのは案外好きで、狂気になってしまうのではなく、狂気をうっすらと感じている領界ってのはかなり正気じゃないかとも思う。まあ、それはいいとして。
8つのアプローチいろいろ面白いのですが、ポイントはどこに究極の価値を見いだすか、ということで、究極の価値というのは、正当化も説明も要らないような、それ以上上にもう審級がないような価値というか権威の謂いであります。
で、例えば、神話的世界ならやっぱ神とか聖なるものが宿るある主人公・キャラとか、プラトニストならイデアの秩序とか、環境主義者なら自然の均衡とか、あるいは、、その他、個人の意図や企図や目的にそれを見いだすかもしれない。で、面白いのは、最後の自然主義で、著者の解釈によると、超越的な何かや、企図や目的でもなく、自発的な経験そのもの、目的のない、あるいは、自己目的的な行為そのものに意義を見いだしている。白隠禅師の衆生近くを知らずして、じゃないけど、遠くに探していたものがむしろそれに浸っていた、みたいな感じです。例えば、不図、夜空を眺めるとそこに畏敬すべき風景があり、また、音楽に注意を集めれば、集めるほどそれ自体豊かで、際限のない経験を提供してくれる。もうすぐ手元に無限があるじゃないか、と。
最終的にはもう一歩、踏み込まなければ、落ち着くところに落ち着かないのではないか、とも思うのですが、しかし、豊かな示唆に富む名著であります。
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何のために生きるのか、って、考えてしまうことありますよね。
私は、人生を考える人を応援するブログを書いています。
関心があったら、覗いてみて下さい。