Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

禿は勘弁して

2008年04月15日 05時08分49秒 | Weblog
 おれの知り合いにお相撲さんがいた。年齢もいっている。彼女がいない。お相撲さんだから、デブである。デブが好きな女性の知り合いはいないか、と女性の友人に聞いたーーいた。そこで、二人を会わせた。「どうだった、感触は?」「髪の毛の薄い人はだめだって」
馬鹿野郎、禿の人々を差別するのか!!!!ーーー

はじめての問題 角岡 伸彦
ニッポンの差別を書いているとき、図書館に頼んでおいた本が、いまごろきやがった。
14という言葉は明治20年代の市町村合併以降、旧村を指して使われた漢語で、「文明に遅れた未開の集落」という意味があるらしい。

20
ときの権力者がをつくったのは、天皇と都を穢れから守るためで、そのため穢れを清める役割を、死んだ牛のや馬の処理や処刑など従事していた、に求めた

32
見えにくい東京の
・・・・東京都が差別行政を続けてきた結果。数を正確に表すことが難しい・・・・数がわからなくなっているのは混住化が進み、の線引きが難しくなったからであろう

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結局民とは何なのか?「人権辞典」は「民とみなされ差別された人、あるいは、差別される可能性を強くもっている人」と定義しているが、これは定義になっていない」

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血へのこだわりは何も日本だけの発想ではない。アメリカ・ルイジアナ州の州法は32分の1以上の黒人の血が入っていると黒人であることが70年に定められた。この州法をめぐって、裁判に訴える者もできていた。白人であることを疑わず育ち、出生証明書をみて初めて黒人であることを知った・・・裁判所は「州法は合憲」と退けている(朝日新聞83年5月20日)

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同和対策事業は何も地域と血縁が関係する民だけを対象におこなわれたわけではない。には多くの移住者がいるからである。

82
グレるのはわけがある
・・・・どの国、地域でもマイノリティーの犯罪率は高い。民だけがその例外であるはずがない。

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チュニジア出身のアルベール・メンミによれば、差別主義とは「現実上の、あるいは架空の差異に普遍的・決定的な価値付けをすることである。

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私が同和教育は必要であると考えるのは、いまは知らなくてもいずれ問題にである機会があるかもしれない、と思うからである。

202
・・・・もっとも有効な戦略は、差別される側の使うコトバ(シニファンとしてコトバ)を意識的に別の文章のなかで使ってゆくことである。たとえば、差別する側が民といった時に差別される側が喜んだりすると差別は成立しない。・・・・(科学は錯覚である」洋泉社 96年)

212
差別を支える要因として「違い幻想」を挙げた。気をつけなければならないのは、これを取り除く運動が得てして同化運動、マジョリティーへのすり寄りなりかねないことだ。・・・・みんな同じであることを強調して違いがないことを力説してきた。・・・権力や多数者に無批判に従属することになりかねない・・・


 おれはこの著者のファンだ。彼のおかげで私にとって問題をこうして公の場所で論じられるタブーではなくなった。で、おれはかれのいうことにほぼ同意する。
で、これからの問題についてだが、やはり、問題ということに特化しないで、差別問題一般に移行したらどうだろうかね。
 おれが思うには、就職差別、昇進差別、あるいは家などの賃貸差別があった場合、団体で行動する意義はあると思う。私的自治が妥当する契約の領域とはいえ、職業や住まいなどは、生存に密着しているし、そうした差別が社会の差別を維持・増強したりするし、逆に、例えば所得や社会的地位などが確保されれば、現存する社会的偏見を除去したり、補償したりするのに役立つ。地区などへの混住化はすすめてよいし、すすめてほしい。安い居宅を求めているのは出身者だけではなかろう。
 同和教育についても、将来差別されるかもしれない、という動機はわかるが、ならば差別一般について考えさせた上で、その一例でよいのではないか?氏が引用した差別意識の定義にもあるように、要するに差別とは、あるグループに関する不当な一般化、及び言いがかりだ。「人権活動家」の有道さんが日本及び日本人についてよくやるやつだ。あるいは、例えば、「在日韓国人・中国人」について、仮にある特定の在日韓国人がしかじかだからといってすべての人がそうであるとは限らない、というこの単純な論理を教えて、でもって、その単純な論理がわからなかった故に不幸な歴史があり、現在でもこの社会に散在する、という形で、実験的に差別される側に立たせてみるようなこともしながら教育をすすめていけばいいのではないか、と思う。日本では男女の役割の固定化の問題が深刻だ。
 同和教育だけするというのも、これはこれで差別だろう。
 結婚差別については、しかし、これは前にも書いたかもしれんが、これは個人の問題だ。そうした差別はくだらんと思うし、くだらんし妥当でないと、その都度訴えていけばよいが、それ以上は無理だし、それ以上のことをすればこの社会のなにか非常に重要な権利を剥奪していくように思える。つまり、なんていうか・・・
 もちろん、差別される側としてもそれがくだらない差別意識だからといって、結婚を強制させようなど、ということをするつもりはないだろう。おれはしかし、不合理でくだらない差別表現に対抗する言論の自由があると同時に、そうした差別意識を持たないように強制されない自由というのも重要な権利なのではないか、と思うのだ。
 禿に嫌悪感をもつ女性は極めて不合理で、単に生理的のみならず、それは心理的社会的に不当に形成されたものかもしれん。しかし、だからといって、その嫌悪感や嫌悪しているということを表現する自由を奪っていいものかどうか? 非常に微妙な問題ではあるが、おれは、「馬鹿野郎、なにいってやがるんで・・・」といった対抗言論が保証されることを前提に、人間が愚かで不合理である自由、それを表現する自由が禁止される社会よりも保障される社会の方が望ましい、と思う。禁止される社会があまりにも不寛容で、画一的な不気味さがあるからである。
 確かに、有道氏のように、不都合な言論を封殺し、抗議にもかかわらず執拗に反日的な言動をする輩に対抗するのは疲れる。また、禿やジャップに関する言論は愚かしいし不合理である。しかし、それらを法律などの強制力で抹殺するのも愚かしいし、不寛容すぎると思う。禁止するくらいなら、税金をつかって対抗言論がしやすい環境の設定に関する補助金を出す方がましだと思うのである。

・・・あっ、因みに著者は禁止せよ、などと言っていません。著書を読んで思いついたことを勝手に書いただけです。で、オレはまだはげてません。兄は多少カッパになりつつありますが、尊敬しています・・・ハイ。

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