ぼやかせていただいております。

本 moral relativity

2008年01月16日 03時46分02秒 | Weblog
 多文化主義の話が案外面白いので、それとの関連でちょっとこのを紹介したい。 何かの足がかりになるかもしれない。
  英米系の哲学は例えば、真理の相対性に対して敵意を持っているのが大概であって、価値の相対性には寛容ではない。(84 Gadamer A guide for the perplexed 参照)その意味では未だに非歴史的、超文化的な普遍主義が主流といえよう。
 著者は中国系アメリカ人で、初版が1984年、多文化主義や多元主義が台頭しはじめているころではないだろうか? で、私などは同じアジア人のせいがかなり共鳴するところもあるのだ。西洋的価値観というものは、それまで着物を着ていた日本人があこがれていたきらびやかな洋服を着たものの、なにかしっくりこないぎこちなさ、あるいはズレを感じるようなところがある。そこで西洋とは異なる背景をもつものがこうした思想に親和的になるのだろうと思う。

 で、議論はかなり複雑なのだが、いつもの如くおおざっぱにいこう。用語というものは、同じ言葉でも違う国によって違うことを意味したり、あるいは、同じ国の同じ分野の学者でも違う意味に使ったりする。で、彼のいう、相対主義とは、

1 倫理的言明にも真理値を伴う。
2 倫理的な主張に対して、優れた議論そうでない議論がある。
3 非倫理的言明も倫理的言明が真であるか、どうかについて寄与する。
4 倫理的な事実が存在する。
5 二つの倫理的な言明が非両立的なとき、一方のみが真である。
6 一つのそしてただ一つしか、倫理しかない。

 著者は6を肯定するか否かで、相対主義と絶対主義を峻別する。因みに著者は、5と6を否定する。(つまり、非両立的な倫理的な言明が両方とも真であることがあり得る)

この当時の主要な倫理学者を総ざらいし、言語哲学の知見を駆使して議論は進むのだが、その要は、相対主義の方が絶対主義より、様々な倫理的対立や多様性をよりよく説明できる、ということにある。

 君は大阪に行くべきだ、だって彼と約束したんだから

といった、言明は単なる主観的情緒や態度を表明したものではなく、かといって、ある社会の同意事項に関する言明でもない。それは、(再びおおざっぱに言えば)ある倫理的実践を担った社会のメンバーに適用される規範で、ある状況でそれをしなければその規範違反になるという言明である。で、単に主観的でもなく、ある種の客観性に裏付けられながらも、相対性を確保したいのである。

 で、絶対主義者は全国共通の根本的規範はあるが、環境などによって適用や解釈のされ方は違うだけだというものもあるが、例えば、アメリカ社会内部での、ロールズとノチック、あるいは、中絶肯定論者と中絶否定論者の対立、あるいは、美徳中心主義の倫理学と権利中心主義の倫理学など、倫理的な対立、そうしてこうした対立に対してどちらが正しい、ということ合理的に決定することができないことをうまく説明できないじゃないか、という

で、相対主義による寛容と不介入(torerance and nonintervention)の議論とそれに向けられた批判とその反論の話に進む。

 相対主義といっても、寛容さを主張する人々はある伝統のなかにいる。で、アメリカの場合など、それはカント主義や功利主義なのだが、その伝統の枠内からも寛容の原理を導出することができる。ここでいう、寛容さの根拠となるものは、

相手が合理的であり、関連する状況について掌握していることを前提に、相手に介入を正当化出来なければ、当該行為に介入すべきでない、

という原理である。

 カント主義によれば、誰かを単に手段として用いることがまずいのは、その目的について、彼が同意しないだろうからなのだが、彼が同意するだろう目的というのは、合理的な目的ということで、その合理的な目的というのは合理的な人間が同意するであろうと言う目的である、とすれば、彼に正当化できないものを押しつけるのは彼の理性的な存在者として扱っていないことになり、カントの含意からずれる。
 功利主義によれば、他人に害を及ばす行為は禁止されるが、この前提にあるのは、個人の理性的熟慮に従った自己実現の価値であるが、相手に正当化できないようなことで自由を奪うのは相手の自己実現を奪うことになってしまう。

 このようにして、現代を代表する倫理的潮流から寛容の原理が導出される。
 で、もう少し具体化すると、この介入時対他者正当化必要原理ともいうべき原理を勘案しながら、中絶肯定論者と否定論者との折り合いを例えばどうつけるか?
中絶否定論者の方は、中絶に対して法的制裁を加えることを抑制しつつつも、避妊用具の配布などを促進することができる。また、中絶肯定論者の方は、中絶に対する公的資金の注入について妥協することできよう、というのである。
で、こうして、カント主義やミル主義を体現する社会においては、社会に与える実質的な影響や、制限される価値、制限さえる態様、などから、正当化原則も含めて利益考量して寛容さの原理・美徳を尊重しながら倫理的価値の相対性を維持できるではないか、というのである。

 ちょっと抽象的かつおおざっぱすぎたかな?
なお、著者は本書を土台により洗練された新しい本を出版しているらしい。
Natural Moralities: A Defense of Pluralistic Relativism Reviewed by Christopher W. Gowans, Fordham University
関連するウィキペディアの記事をみてもこの問題が非常に複雑であることがわかる。

ま、一つの資料として自分の考察の糧としたかったのだ。
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