Subaltern
Subaltern (postcolonialism)
From Wikipedia
サバルタン
Gayatri Chakravorty Spivak
From Wikipedia
・・・・・・いや、
July 4, 2010
Fishermen cry foul over 'Cove' depiction
By TAKURO IWAHASHI
Kyodo News
mozu
2010年7月3日(土) 13:31
三軒・太地町長「上映は残念」 否定的イメージを懸念
と、先ほどの毎日の記事
や
◇漁師らに怒りや戸惑いも--和歌山・太地町ルポ 毎日新聞 2010年6月21日 東京朝刊
などと合わせて、不図「サバルタン」という言葉が浮かんだのである。
反論すればいいのだ!とも言える。私もそう思う。
しかし、他方、支配的な文化圏の価値観とその報道とその言説の爆撃の嵐にあい、つたない英語でしゃべったとしても、これまた、曲解され、あるいは、削除され、あるいは編集されて、あるいはねつ造されて、彼等の枠組みに組み込まれることをを思えば静かに沈黙して”事件”が過ぎ去るのを待ったほうがいいという、ある種の無力感も理解できる。
こうしたことは”人権活動家”有道氏のブログでも散々やっており、日本人にはなじみ深い人も多かろう。
まして、英語の得意な”進歩的な”日本人までも彼等の声を無視して得意げに責め立てるのだ。
思えば、サボイエ、のりこさん事件の時も同じだった。あの時も英語圏のすさまじい一方的な報道にのりこさんはだまりこくってしまった。(JapanTimesはいまだに子供の写真を掲載している。)
もう一つは、一部の野蛮な右翼の街宣によって、かえってこの映画が宣伝され、太地町の人々の不利になってしまった、その切なさ。
積極的に情報発信したほうがいいと信じ、また、動物食一般に関して、どちらかといえば、消極的な私も何か複雑な気持ちになってしまった。
参照
Understanding Postcolonialism
およびそのリンク
* 「サバルタン」とは,「下層民」とか「従属民」というほどの意味。
* グラムシの『獄中ノート』の断章「サバルタン諸階級の歴史-方法的基準」に由来する名称。
サバルタン
スピヴァクによって広く知られる用語となった。「自らを語ることができない者」であり,たとえ語っても,それを解釈する他者の視点と言葉によって覆い隠されてしまうような者のことをいう。一方でサバルタンを語る人々の側には、無機質な透明性がつくり出され、語る側の権力と欲望は見えなくされているのだとか。
Subaltern (postcolonialism)
From Wikipedia
The subordinated subject, gives up their knowledge for the use of the Western academic. hooks describes the relationship between the academic and the subaltern subject:
No need to hear your voice when I can talk about you better than you can speak about yourself. No need to hear your voice. Only tell me about your pain. I want to know your story. And then I will tell it back to you in a new way. Tell it back to you in such a way that it has become mine, my own. Re-writing you I write myself anew. I am still author, authority. I am still colonizer the speaking subject and you are now at the center of my talk.[7]
サバルタン
彼女(ガヤトリ・C.スピヴァク)は 『サバルタンは語ることができるか』(1988年,日本では98年に刊行)において,サバルタンは特定の社会階層や地位といった実体的な意味で解されるべきではなく,関係的・示差的にとらえられるべきであると主張する。
彼女によれば,サバルタンとは「自らを語ることができない者」であり,たとえ語っても,それを解釈する他者の視点と言葉によって覆い隠されてしまうような者のことである。
Gayatri Chakravorty Spivak
From Wikipedia
Spivak has challenged some of the dominant ideas of the contemporary era. Such ideas include, for example, the notion that the western world is more civilised, democratic and developed than the non-western world, or that the present, postcolonial era is more modern and progressive than the earlier historical period of European colonialism in the nineteenth century
・・・・・・いや、
July 4, 2010
Fishermen cry foul over 'Cove' depiction
By TAKURO IWAHASHI
Kyodo News
mozu
"We are not killing them as a hobby," the cooperative official said. He argued that humans cannot sustain themselves without taking the lives of other living things.
For the local fishermen, the film is not a documentary but propaganda by dolphin conservationists
Meanwhile, a member of the cooperative said he has "mixed feelings" about the screenings of the film having been canceled in Japan earlier this year due to loud protests from a Tokyo group that claims the film is anti-Japanese.
Meanwhile, local assemblyman Mikio Enomoto said he is afraid the town's whaling and dolphin hunt might die out in the future under pressure from foreign countries.
2010年7月3日(土) 13:31
三軒・太地町長「上映は残念」 否定的イメージを懸念
太地町の三軒一高(さんげん・かずたか)町長は、共同通信の電話取材に対し「映画は事実に基づいていない。表現の自由はあるが、一方でルールや漁師の人権もあるんじゃないか。上映は残念だ」と話しました。太地町漁協の幹部は「イルカ漁への誤解が広がるのは心配だが、上映される以上は正確な理解を求めていきたい」と、複雑な心情をのぞかせました。ただ、一部の団体による映画館への抗議についてこの幹部は「主張が違う。同じように上映中止を求めていても全く別の立場だ」と強調しました。また、別の漁協組合員は「漁協は金もなく人もいないから、映画に反論する手段がない。太地町は力のある映画や団体に揺さぶられている」と悔しさをあらわにしていました。
と、先ほどの毎日の記事
不意の取材に慣れぬ英語で応対したのか、イルカ漁批判への反論もたどたどしい。 盗撮などの是非はともかく、この辺の取材姿勢はフェアじゃないなと私は思った。・・・・まるで人語を解さぬ未開の地に文明国の探検隊が踏み込んだような視点と描写。これこそ「オリエンタリズム」が指摘する、アジアや中東に対する西洋的な偏った視線ではなかろうかとも考えた。
や
◇漁師らに怒りや戸惑いも--和歌山・太地町ルポ 毎日新聞 2010年6月21日 東京朝刊
「ザ・コーヴ」(英語で「入り江」の意味)の舞台となった太地町は、400年続く日本の古式(網取り式)捕鯨発祥の地だ。人口約3500人の小さな漁村の人たちの口は一様に重かった。ただ、「映画を見て判断してもらってもいい」と話す町民もいた。
× ×
「どんな発言もすべて映画の宣伝になる。興行収入は、映画を製作した環境保護団体の金もうけにつながるだけ」。同町漁業協同組合の幹部はこう言い切った。組合員には取材に応じないようかん口令を敷いたという。三軒一高町長(62)も漁協と歩調を合わせる。「上映中止は知りませんし、確認もしていない。個人としても、町としても何もお話しすることはない」。「IWC(国際捕鯨委員会)捕鯨全面禁止絶対反対太地町連絡協議会」会長の三原勝利町議会議長(72)は「生活がかかっているんです。漁協関係者を『マフィア』呼ばわりするプロパガンダ映画を上映することも、表現の自由なのですか!」と声を震わせた。・・・・。「血が出るのは牛や豚も同じなのに、なぜイルカだけがだめなんだ。今は船上で処理するから血は海に流れない。生活のために昔からやってきたのに、本当に腹が立つ」・・・・
などと合わせて、不図「サバルタン」という言葉が浮かんだのである。
反論すればいいのだ!とも言える。私もそう思う。
しかし、他方、支配的な文化圏の価値観とその報道とその言説の爆撃の嵐にあい、つたない英語でしゃべったとしても、これまた、曲解され、あるいは、削除され、あるいは編集されて、あるいはねつ造されて、彼等の枠組みに組み込まれることをを思えば静かに沈黙して”事件”が過ぎ去るのを待ったほうがいいという、ある種の無力感も理解できる。
こうしたことは”人権活動家”有道氏のブログでも散々やっており、日本人にはなじみ深い人も多かろう。
まして、英語の得意な”進歩的な”日本人までも彼等の声を無視して得意げに責め立てるのだ。
思えば、サボイエ、のりこさん事件の時も同じだった。あの時も英語圏のすさまじい一方的な報道にのりこさんはだまりこくってしまった。(JapanTimesはいまだに子供の写真を掲載している。)
もう一つは、一部の野蛮な右翼の街宣によって、かえってこの映画が宣伝され、太地町の人々の不利になってしまった、その切なさ。
積極的に情報発信したほうがいいと信じ、また、動物食一般に関して、どちらかといえば、消極的な私も何か複雑な気持ちになってしまった。
参照
Understanding Postcolonialism
およびそのリンク