三菱製紙高砂工場の製造部長で退職した、永井耕衣さんは晩年の住まいを須磨区行幸町に移されました。そうです、月見山の人。散歩では海岸や離宮公園などを歩かれたということは、板宿にも足を伸ばされていたでしょうね。
工場勤務すぐに右手を労災で使えない状態になり、本当なら失意のどん底でしょうが、めげないんですね。仕事人間ではなく、仕事もするが、文化活動に精を出し、俳句にのめりこみます。「出会いは絶景」、一期一会を大切にし、俳壇界の著名人とはもちろんのこと、棟方 志功とも友達になる積極性を発揮。また、彼の俳句は難解とされながらも、俳句界の異端で押し通す姿は、著者の城山三郎氏が好む気骨の人です。
妻に先立たれ、息子夫婦と暮らし、阪神大震災では、方位が90度変わってしまった家は全壊。地震の前に便所に入っていたというから、天は見捨てない!それから寝屋川の老人介護施設に移られますが、97歳の天寿を全うされるんですね。俳句界でも文学的な受賞をいただくのが90歳からという大晩年。大器晩成を絵で描いた人。人生はわからぬもの。諦めることなく、一つのことに注力すると自ずと道が開けることがわかりました。