シバイサー博士の新発明、過美化瓶は、その名の通り「美しく変化させ過ぎた瓶」。そんな瓶がいったい何の役に立つんだろう。
「瓶そのものに価値があるから中身を問わないのだ。」
「中身はどうでもいいってことですか、それがどういう意味を持つんですか?」
「瓶を見て美しいなあと思う。美しいなあと思うと幸せになる。それで十分。それ以上のことは問わなくなる。中身なんてどうでもいいと思うようになる。」
「それはそうでしょうが、それがどういう意味かと・・・?」
「解らん奴だなぁ、『美しく変化させ過ぎた』の『過ぎた』を考えろ。ただ、美しい瓶なら『美化瓶』でいい。そこに何故『過』が付いたかだ。」
「何故『過ぎた』が付いたですか、美し過ぎるってことですよね。うーん、『過ぎたるは尚及ばざるがごとし』と何か関係ありますか?」
「関係あるも何も、そのことを言うておる。見た目の美しさに心が奪われて、物の本質を見失うことが世の中には多々ある。この瓶はそれを象徴している。」
「博士、しかし、お言葉を返すようですが、美しい瓶は美しいというだけで、瓶そのものに存在価値があります。瓶そのものが本質と言ってもいいと思います。」
「君、君の耳は耳糞が詰まっているのか、いいか、よーーーく聞けよ。瓶そのものが本質であって中身は必要無いのであれば、それはもう瓶では無い。オブジェであって、美術品になるかもしれないが、用途としての瓶の存在価値を失っている。『過ぎた』ということがそういう結果を生んでいるということだ。」
「あー、そういうことですか、何となくですが解ったような気がします。『過ぎ』てしまえば、その本質も変わってしまうってことですね。」
文明の発展と共に、人間が、その生きる本質を見失っているということを、博士は戒めようとしているのかもしれない。いつもテキトーでやっている博士だが、やはり、心底では真面目に社会のことを考えているのだと、改めて見直した。ところが、
「さて、このカビカビンの本質なんだが、これは実は、機械なのだ。」
「機械?」には全然見えない。きれいな花瓶にしか見えない。
「そう、早く言えば、掃除機だ。」
「掃除機?・・・には見えませんが、どう使うんですか?」
「この台の上に乗せて使う。」と博士は言って、4輪の台車の上に花瓶を横にして置いた。すると、台車ごと花瓶は床の上を勝手に動き出した。
「この掃除機はカビ専用の掃除機だ。カビに敏感に反応してカビを吸取る。」
「それは、名前はともかく、良いですね、役に立ちますね。」と言いながら、私は花瓶を見ていたのだが、花瓶は棚の隙間のところで止まっている。
「博士、花瓶の掃除機、棚のところで止まってますね。」
「きっと棚の下にカビがいっぱい生えている。カビには敏感だからそこに固執する。しかし、図体がでかいのでその隙間に入っていけない。で、立ち往生する。」
「カビって、だいたい狭いところに多いですよね、そこに入っていけなかったら、ほとんど役に立たないということになりますね。」
「それは仕方ない。名前が先に浮かんだのだ。花瓶形は必要条件だ。」
なるほど、と思った。カビに敏感に反応してカビを吸取るのが本質の掃除機、それを駄洒落のために役に立たない形にしてしまう。駄洒落も『過ぎ』てしまえば、ものの本質を見失ってしまうということを、博士は実践しているわけだ。
「ところで、名前なんだが、じつは、過美化瓶にしようか華美花瓶にしようか迷っている。君ならどっちがいいと思う?」と博士が訊いたのだが、どっちでもいいやと私は思ったので、その返事は濁したまま失礼した。
記:ゑんちゅ小僧 2009.7.3