ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

旧海軍司令部壕

2011年01月06日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

  我が島で昔あった悲劇を、もっと知らなくてはならないと思い、7月から戦跡巡りをしている。戦跡も、有名どころの摩文仁の丘やひめゆりの塔、健児の塔などはこれまでに何度も訪れている。ところが、以上挙げた箇所以外の戦跡を私は見ていない。調べると、実家(那覇市泊)の近くにも、今住んでいる首里石嶺の近くにも戦跡はあった。
 前回は、私の住まいから車で10分ほどの距離にある嘉数高台を紹介した。そして、第二回目となる今回は、車で30分ほどの距離にある旧海軍司令部壕。ここは有名である。私も若い頃から知っている。知っているが、訪れたことは無かった。

  旧海軍司令部壕は沖縄方面根拠地隊の最後の陣地。豊見城市の北、那覇市との境界近くに位置する。沖縄方面根拠地隊とは沖縄戦における日本の海軍部隊の名称。兵員は約1万人(そのうち3割は現地徴収の素人兵)、その主力は小禄海軍飛行場(現那覇空港)の守備にあたった。司令官は、「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の電文で有名な大田実、旧海軍司令部壕は彼の最後の場所である。
 沖縄方面根拠地隊、兵は1万にも満たない。一度南部に撤退した際、銃火器類を破壊したため兵器も脆弱であった。6月4日にアメリカ軍が小禄海軍飛行場に上陸すると、日本軍は6日に海軍壕に退き、12日に戦闘は終わり、13日に大田は自決する。
  大田の「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の電文は6日に打たれている。壕に立て篭もった日だ。その前日には、「最後まで小禄で闘う」と沖縄戦の最高司令官牛島満宛に電報を送っている。玉砕覚悟で壕に入ったのだ。そして、死を前にして、これまでを振り返り、沖縄の悲惨な現状と沖縄人の奉仕ぶりを電文にした。
 長くなるが、その電文の全文を判りやすく訳してみた。以下。

 沖縄県民の実情に関しては県知事より報告されるべきものですが、県には既に通信能力が無く、三二軍司令部にも通信の余力が無いと思われるため、県知事の依頼を受けたわけではないけれども、現状を看過することができず、代わって緊急に申し上げます。
  沖縄島に敵軍が攻撃を開始して以来、軍は防衛に専念して、県民に関してはほとんど顧みる暇はありませんでした。
 しかしながら、私の知る限りにおいては、県民は、青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残った老幼婦女子は相次ぐ爆撃に家屋と財産の全てを焼かれ、身一つで軍の作戦に差し支えのない小さな防空壕に非難し、爆撃の中、風雨に晒され、乏しき生活をしている。
 しかも、若い婦人は率先して軍に身を捧げ、看護婦、炊事婦はもちろんのこと、砲弾運びや、挺身切込隊にまでも参加申し込みするものまでいる。
 しょせん、敵が来たら老人子供は殺され、婦女子は拉致されて毒牙に供せられるに違いないとして、親子は生き別れ、娘を軍の門前に捨てる親もいる。
 看護婦にいたっては軍移動に際し、衛生兵が既に出発した後、残された身寄りの無い重傷者を助けて●●。真面目で、一時の感情で動いているものとは思われない。
 さらに、軍において作戦の大転換があると、自給自足しながら夜中に指定された遠隔地域まで、黙々と雨の中を移動する。これは陸海軍が沖縄に進駐以来続いている。
 勤労奉仕や物資節約を強要されつつ(一部には悪評も無くは無いが)、ひたすら日本人としての御奉公の思いを胸に抱きつつ、遂に●●●●与え●ことなくして、本戦闘の末期と沖縄島は実情形●●●●●●。
 一木一草焦土と化した。糧食は六月一杯を支えるのみという。沖縄県民斯ク戦ヘリ
 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 注:●は判読不明箇所。「沖縄県民斯ク戦ヘリ」以下は原文のまま。

 訳しながら、ウルウルする。そして、平和な時代に生きていることを有り難く思う。
 私は一所懸命とか根性とか全く似合わない性格で、「石に齧りついてでも」とか、「なにがなんでも」とか言って目標を達成しようなどと思ったことは、かつてこれっぽちも持ったことが無い。概ね「ゆるゆる」と生きている。ところが、戦争についてだけは、「なにがなんでも」という言葉を使いたい。なにがなんでも戦争は避けたい。
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     

 記:ガジ丸 2008.8.17 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄の戦争遺跡』沖縄平和資料館編集、沖縄時事出版発行