ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

瓦版052 音楽家ガジ丸

2008年02月29日 | ユクレー瓦版

 久々にシバイサー博士を訪ねることにした。・・・のだが、村から博士の研究所へ向かう一本道の途中にユクレー屋がある。今年は暖冬であったが、この頃は2月らしい気候が続いて、今日もちょっと寒い。ユクレー屋があって、ちょっと寒い。ということで、私の足は向きを変えた。日本酒の一杯でもひっかけて、体を温めるつもり。
 店に入ろうとしたちょうどその時に、マナがドアを開け、鉢合わせした。
 「あら、早いね、今日は。」
 「うん、ちょっと寒いからさ、温まろうと思って。」
 「確かにちょっと寒いけど、今日も良い天気だねぇ。ジラースーに聞いたけど、オキナワはずっと天気悪かったんだってよ。不思議だね。」と窓を開けて、マナが言う。
 「オメェ、知らないのか?シバイサー博士がこの島の天気を操っているんだ。」と、マナのうしろ、カウンターに座っていたケダマンが応える。
 「あー、そうなんだ。だから都合の良い時だけ雨が降るんだね。」
 「マナ、どうでもいいけど、中に入れてくれ。」
 「あっ、ゴメンね、どーぞどーぞ。」

 カウンターのケダマンの隣に座る。今日はとりあえずのビールは要らない。日本酒の温かいのを私の体は望んでいる。それを注文しようとしたら、
 「熱いお茶でもいれようか?」とマナが訊く。キョトンとする私に代わって、
 「酒飲みの心が解らない奴だ。ゑんちゅに暖かいお茶なんて無用だぜ。」とケダ。
 「まだ外は明るいよ。夕暮れまでまだ2時間はあるよ。」
 「酒は暗いから飲むんじゃない。寒いという理由でも飲む。」とケダが応え、
 「そうです。花を見ては飲み、雨のしとしとを聞いては飲み、悲しいといっては飲み、愉快だといっては飲む。静かに飲み、騒いでも飲む。」と私が続ける。
 「はいはいはい、酒飲みの理屈だね。何にする?」と、呆れ顔でマナは訊く。
 「今日みたいな寒い日は日本酒だよ。暖かいのをちょーだい。寒い季節もやがて終わろうとしているじゃないか。終わる前に今宵は日本酒で身も心も温まろうよ。」と私は答える。ケダが短い諸手を挙げて賛成する。呆れ顔のマナだったが、我々に付き合った。

 ほどなくして、いつもの週末と同じように、ガジ丸、ジラースー、勝さん、新さん、太郎さんたちがやってきた。ガジ丸はマジムン(魔物)なので、寒さをそう感じていないようだが、他の4人は人間だ。暖かい日本酒は彼らにもご馳走となった。
 一通りの会議が終わった後、ガジ丸は我々のいるカウンターに席を移す。ジラースーは勝さんたちのいるテーブルから離れない。マナを目の前にするカウンターには座りたくないみたいだ。冷やかされるのが嫌なのだろう。まあ、ジラースーも六十過ぎたオヤジだ。私達も「こっちへ来いよ」などと無理強いはしない。放っておく。

  「ところでよ、」とケダマンがガジ丸に話しかける。「お前の作った唄な、前の『かばのかばん屋』もなかなか面白かったが、このあいだの『さいのさいころ』はすごく良かったぜ。最近、よく唄を作っているが、音楽家にでもなるつもりか?」
 「なるつもりか、じゃ無ぇよ。俺は既に音楽家であり、また、絵描きでもある。他の誰もが認めなくたって俺がそう認めている。だから、それは間違い無い。・・・あー、そういえばそうだ、つい最近できたばっかりの曲があるぞ。」とガジ丸は言って、ピアノの傍に行き、新年会の日からそこに置きっ放しになているギターを取り、そして、歌った。
     

 歌い終わってカウンターに戻ってきたガジ丸に、
 「何ていう唄なんだ。ちょっと悲劇の匂いがするけど。」と私が訊く。
 「題は『あのよふーん』。去年流った『千の風になって』は、大人が死んで、その大人が残された者達へ語り掛けるって唄だっただろ?それにヒントを得て、子供が死んで、その子供が残された母親へ語り掛けるって唄だ。」
 「何だそりゃ、ほとんど二番煎じじゃ無ぇか?」(ケダ)
 「二番煎じと言えばそうだが、別に世間に出そうとしているわけじゃない。この島だけで流行ってくれりゃそれでいいのさ。ここには子を亡くした親が多くいるからな。」
 「そのさ、あのよふーんってどういう意味なの?」(マナ)
 「あのねって意味だ。子供が語りかける時に使うだろ?」(ガジ)
 「そうなんだ。沖縄ではそう言うんだ。」(ガジ)
 「マナもさ、ピアノが弾けるんだから、唄を作ってみれば?」(私)
 「前から作ろうとしているんだが、なかなかできないみたいだぜ。」(ケダ)
 「これまでの人生で経験したことを歌えばいいと思うけど。」と訊くと、
 「私はそんなに人生の経験が無いよ。」とマナは答える。すると、ケダマンがきっぱり言う。暖かい日本酒で身も心も温まった宴も、それでお開きとなった。
 「経験が無いんじゃなくて、経験を言葉にする才能が無いだけだ。」

 記:ゑんちゅ小僧 2008.2.29 →音楽『あのよふーん』


ミャンマーかビルマか

2008年02月29日 | 通信-政治・経済

 母の古い友人であるRさんは、私が子供の頃から毎年毎年、盆正月(沖縄では盆暮では無く盆正月、お中元お歳暮にあたる贈り物は盆正月にその家の仏壇に捧げる)には挨拶に来てくれた。それ以外の日にも時々遊びに来ていたので、私も古くから知っている。見知らぬ街でばったり出会ったとしても、一瞬の間を置かずその名前が出てくる。
 そんなRさんであるが、私はじっくりと話をしたことが無い。私は、人と話をするのが苦手では無いが、さほど好きでは無い。おしゃべりより、一人妄想に耽っている方が楽であり、幸せを感じる。子供の頃は、周りからトゥルバヤー(ボケーっとする人)とよく罵られていた。というわけで、Rさんとも長い会話をしたことが無かった。
 Rさんは母の通夜から告別式、四十九日までのナンカナンカ(七日七日)にずっと顔を出してくれた。告別式の後、Rさんとじっくり話をする機会を得た。
 「お母さんにはとても世話になった。自分に子供ができた時は、実の母親よりも先にあなたのお母さんに電話したくらい信頼し、尊敬し、感謝している。」とRさんは言う。どんな出会いで、どのような世話だったのか興味を持ったので訊いた。のだが、その話は母の伝記の一部として別項で述べることにしたい。今回は、国名の話。

 Rさんは台湾から仕立職人として沖縄にやってきた。仕立職人は知らなかったが、台湾というのは知っている。なので、その時聞くまで、てっきり台湾人だと私は思っていた。違っていた。Rさんはミャンマー人とのことであった。それを聞いて、生半可な知識しか持たないスットコドッコイは言ってしまった。
 「今の軍事政権が作ったミャンマーなんて止めて、ビルマに戻した方がいいよね。」

 先日、市川昆監督が亡くなった。私は映画は好きであるが、映画に詳しくは無い。監督の名前も多くは知らない。だが、市川昆という名前は知っている。
 テレビの情報から『東京オリンピック』、『細雪』、『炎上』、『犬神家の一族』などの作品があるということを知ったが、「市川昆って知ってる?」と訊かれたら、「『ビルマの竪琴』の監督だろ。」とすぐに答えることができる。
 物語『ビルマの竪琴』は確か、子供の頃に読んでいる。すごく感動したことを覚えている。映画『ビルマの竪琴』も確か観ていると思うが、いつ頃観たのか、映画館なのかテレビなのか記憶に無い。主人公が竪琴で『埴生の宿』か何か弾いていたのと、戦友達が「水島ー」と叫んでいるシーンを覚えている。そして、きっと映画にも感動している。
 ということで、ビルマという国名は私の耳に親しい。そのビルマという名前が、軍事政権によってミャンマーに変えられた。それは1989年のことだというので、ほんの19年前の話である。ビルマに親しみを感じていた私は、
 「ビルマという伝統のある名前を変えるなんて!」と密かに憤慨していたのだ。

  ところがどっこい。Rさんは言う。「元々はミャンマーと言っていたので、国民の多くはミャンマーという名前が良いと思っている。」とのこと。そして、ミャンマー語(インドの文字に似ている)で国名を書いてくれた。「これが正式な国の名前です。特に、ミャンマーという名前には誇りを持っています。」とRさんは言った。
 軍事政権でも、国の歴史や文化に誇りを持てる政治であれば、国民は幸せなのかもしれない。ではあるが、「軍事政権で最近いろいろ起きていますね。国民はどう思っているのですか?」と訊いたら、Rさんは困ったような顔をして、はっきりとは答えなかった。国に誇りは感じていても、政府には感じていなという印象を私は受けた。
          

 記:2008.2.29 島乃ガジ丸