礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

家永三郎と天皇機関説事件(1935)

2015-06-16 04:29:36 | コラムと名言

◎家永三郎と天皇機関説事件(1935)

 家永三郎の自伝『一歴史学者の歩み』(三省堂新書、一九六七)の紹介に戻る。本日は、その第三章「学生運動消滅後の大学生生活」から、「天皇機関説問題」という節の前半を紹介してみたい(七九~八一ページ)。

 天皇機関説問題
 私が大学の二年になった昭和十年に、天皇機関説問題が発生した。かねて私が愛読していた『憲法撮要』の著者である美濃部達吉博士が、天皇機関説の提唱者であるという理由で、帝国議会で右翼議員から激しい追及を受け、初めは博士を弁護していた政府も、ついに博士の主著を発売禁止にしなければならなくなったばかりでなく、右翼の執拗な要求におされて、博士を起訴するかしないかというはめに追い込まれた。博士は心ならずも貴族院議員を辞職することによって起訴を免れたのであるが、この事件は、私にとって大きな衝撃であった。当時の機関説問題に関する新聞の切り抜き数十葉が今でも私の手元に保存されているのは、私の関心がいかにこの事件に集中されたかを証拠立てるものであろう。
 私はこの問題について、どうしても何か書かずにいられない気持となり、そのころ学生の身分で自分の文章を活字として発表すべき公の場所をもっていなかったところから、たまたま当時発行されていた第一中学校の同窓会誌『第一』に、この事件についての感想文を寄せた。その内容は次のようなものである。
《天皇機関説問題になると、吾人は憤慨を通り越して、呆れる外はないのである。私は決して美濃部法学に左袒〈サタン〉するものではない。然し乍ら是非言はねばならぬことは、他人の信念に対し、名を道徳に借り、権力、暴力によって圧迫しようとすることは断じて許せないといふことである。国体に対して頑迷固陋〈ガンメイコロウ〉の独断的解釈を下して、他人がいささかでもそれに違ふ〈タガウ〉時は、不敬だ、国賊だと云って、卑怯なる迫害を加へんとするは、全国民の拠って仰ぐ国体を私し〈ワタクシシ〉、名を貴き処に仮って〈カッテ〉、私意を逞しうするものとせねばならぬ。然もその云ふ処を聞けば、いづれも天皇主権説を出でない。権利義務の立場から国体を論ずることが悪いと云ひながら、主権とは何事であるか。のみならず彼らが国家法人説を攻撃して、国家を単に抽象体と考へるのは、不知不識〈シラズシラズ〉、己の攻撃する個人主義に陥ったもので、矛盾も甚しい。機関説は西洋の学問の直輸入だと云ふが、その点、主権説とて同じ事で、その中味を割ってみれば、畢竟〈ヒッキョウ〉仮装せるAbsolutism〔絶対主義〕に外ならぬ。(中略)それは日本の国体を支那や西洋の専制君主制と同一視するものであり(彼らの中には秦始皇の焚書を讃美するものさへある)、我が帝国の無窮の発展を阻害し、結局皇室と国民との中間に介在する支配階級擁護に終るものだからである。かくの如き行き方こそ国体を危くするものであり、深く慎むべき態度と云はねばならぬ。私は我が国の尊き伝統を考へるにつけ、生を日本の地に享けた〈ウケタ〉ことをしみじみ幸福に思ふのであるが、彼等が用ひるところの意匠をこらしたさまざまな形容詞に対して、何等の感激をも覚えることは出来ない。それは全く彼等の云ふ処が、枯死骨化せる屁理屈であり、国民の生きた切実な情操に根を下してゐないからである。市井の無頼漢も云ひさうな文句で罵倒してゐるお歴々もゐるが、それは恰も〈アタカモ〉自分の人格の低級さを広告してゐるのと同じ事であらう。》
 この後半に日本の国体を賛美する言葉があるが、これは当時、私が本当にそのように考えていたからであって、必ずしも「奴隷の言葉」ではない。しかしそのような立場にあった私でさえも、美濃部博士迫害にはがまんができなかったのである。【以下略】

 同書巻末の「著者関係略年表」によれば、家永が「美濃部問題に憤激」して新聞の切り抜きをおこなったのは、一九三五年(昭和一〇)の二月から三月にかけてであった。また、第一中学校同窓会誌に、美濃部問題を論じ太文章を寄せたのは、同年一一月である。この年、家永は、数えで二三歳。
 天皇機関説事件については、いずれ、ジックリと論じてみたいと思っている。いま考えていることを簡単に述べると、この事件は、大日本帝国憲法が解釈改憲された出来事だったとおもう。すなわち、美濃部達吉博士の天皇機関説は、大日本帝国憲法に対する、当時の標準的解釈(通説)だったのであって、この説が貴族院で攻撃され(一九三五年二月以降)、博士の著書『憲法撮要』(有斐閣、一九二三)ほかが絶版にされ(同年四月)、さらに、政府から「国体明徴に関する声明」が発せられたことは(同年八月および一〇月)、そうした標準的解釈に、重大な変更がおこなわれたと捉えるべきだと思う。

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