礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

プレヴォーパラドルの「ラ・ボエシー」論を読む

2013-08-11 09:51:32 | 日記

◎プレヴォーパラドルの「ラ・ボエシー」論を読む

 先月の一三日から一九日まで、ルネサンス期のフランスの思想家ラ・ボエシーについて採り上げた。
 すると、今月三日、ラ・ボエシー研究に関しては、今日、第一人者である大久保康明氏から、コメントをいただいた(コメントの対象は、七月一九日のコラム)。全くの門外漢の駄文に目をとめていただいたばかりでなく、コメントまでいただいたことに恐縮した。
 ところで、ラ・ボエシーについては、ひとつ書き落としたことがあるので、ここに追加する。
 終戦直後の一九四八年、現代評論社から出たプレヴオーパラドル著・松尾正路訳『近代思想の成立―フランス・モラリスト―』という本がある。原著は、何と、一八六五年刊である。
 この本で著者は、モンテーニユ、ラ・ボエシイ、パスカル、ラ・ロシユフコウ、ラ・ブリユイエール、ヴオーヴナルグという六人のモラリストを採り上げている。
 ラ・ボエシイについても、二六ページにわたって解説している。
 これを読んでひとつ疑問を抱いたのは、ラ・ボエシイについて、本格的に解説した本、あるいは、『自発的隷属論』の翻訳は、戦前にも出されていたのだろうか、ということである。
 断定することはしないが、少なくとも、『自発的隷属論』の翻訳は出ていなかったのではないだろうか。ラ・ボエシーの死後、モンテーニュは、『自発的隷属論』の出版を断念したという。同様に、戦前の日本における研究者、あるいは出版社も、『自発的隷属論』の出版には、二の足を踏んだのではないかと推測する。このあたりについて、大久保康明氏の知見をお伺いできれば幸甚である。
 以下に、プレヴォーパラドルの著書の一部を抜き出す(四二~四三ページ)。

 美に対するおなじ愛、古代へのおなじ趣味、何事にも見られるおなじ節度など、彼らは肝胆相照すためにつくられていた。モンテーニユはこの友人〔ラ・ボエシイ〕が夭折した後、故人の名誉のために「自発的隷属」の出版を断念した。というのは、この論文がすでに、国家を改革することができるかどうかも知らずに無用な撹乱を企てる人々によつて悪用されていたからである。ラ・ボエシイが死期に際して静にモンテーニユの弟ド・ボオルルガール氏にむかい、教会を改革しようとする熱望のあまり、過激な極端な行動をとつてはいけない、と勧告している声が、吾々の耳にも聞えるのである。しかし、このように極端な言動を避ける共通性にもかゝわらず、ラ・ボエシイには、モンテーニユに見られなかつたある種の烈しい野心を俗事に立入る傾向があつた。つまり彼は、社会の様々な変動のなかに、人間の知性と誠実さが果し得る有益な役割について、モンテーニユよりも多くの信頼と夢とを持つていたのである。モンテーニユは、彼の友人がサルラよりもヴエニスに生れることを好んだであろうと、吾々に語っている。宰相ド・ロピタルに宛てた書翰のなかではさらにはつきりと、ラ・ボエシイが「家庭の暖炉の側を離れなかつたことは、社会公益のために大きな損失であつた」と惜しんでいる。そしてなおつけ加え、「こうして公のために役立ち、彼自身の名誉ともなるべき多くのすぐれた才質が空しく終つた。」といつている。この愛惜の言薬は、ラ・ボエシイ自身が、その死後、失人の口をかりて囁き〈ササヤキ〉もらしているように思われるが、ヴオーヴナルグと同様、年齢のさかりに生命を奪われたね彼は、またヴォーヴナルグが生涯繰返したおなじことを、死に臨んでもらしている。モンテーニユに向い、「まさか私は、公のためにすこしも役立つことができないほど無益に生れたのではあるまい? いずれにせよ、神のお召しがあり次第、いつでもお別れする準備備はできている。」
 自分の半身が刻一刻失われてゆく思いをしながら、ラ・ボエシイの臨終を見守つたモンテーニユが自ら描くこの死ほど静かな美しい、そして吾々の規範たるにふさわしいものはない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 麻生財務相の「ナチス発言」... | トップ | 松尾正路の紹介で知るプレヴ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事