礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

昭和25年(1950)段階での日本憲法論

2015-09-03 09:19:48 | コラムと名言

◎昭和25年(1950)段階での日本憲法論

 一年ほど前、古書店で、東京大学学生文化指導会が編集発行した『法学研究の栞 上』(1950)という本を入手した。久しぶりに手にしてみると、これが意外におもしろいし、資料としての価値もありそうだった。
 本日は、同書から、「憲法」という部の一部を紹介してみよう。この部の執筆は、宮沢俊義と小島和司であるというが、分担については不明。

一 日 本 憲 法
 一 明治憲法 憲法が新しくなつてもそれはまだ施行後日浅く、憲法学界は概ね旧憲法の延長として把え〈トラエ〉うる現状である上、明治憲法に関する知識は現行憲法の理解の為にも少からぬ意味を持つので、茲ではます明治憲法についての主要な業績から見ることにする。
 明治憲法がドイツ、特にプロイセン憲法の圧倒的な影響の下に成立したという事実は、わが憲独学会をもまたドイツ型憲法学を支配的なものとし、法実証主義・法解釈学を主流となすに至らしめたのであるが、それらのさきがけをなしたのは憲法起草者伊藤博文の名を以て発表せられた「憲法義解」であつた。之は半官的な地位をすら持つものであるが、この下に所謂公認的正統的憲法学を創始したのは穂種八束〈ホヅミ・ヤツカ〉博士であり、之を継承したのが上杉〔慎吉〕博士である。両博士は何れも東大における憲法学講義を担当せられたが、東大には尚〈ナオ〉之に対する美濃部〔達吉〕博士の立憲的学説があつた。(両者間の論戦については星島二郎編・最近憲法論・大二〔一九一三〕)即ち前者はそれ迄の日本の伝統的な思想に立たれ、その限〈カギリ〉に於て所謂日本的、保守的であつたのに対して、後者は広く世界各国立憲制の知識を裏付けとし、日本憲法をもまた此等と共通するものを持つ近代憲法の一〈ヒトツ〉として見ようとせられたのであつた。即ちそれは、前者に対して普遍的進歩的なもので、憲政の進展と共に次第に通説的な地位を占めて来たのであつたが、一九三一年以降国内に急激に起つた超国家主義的傾向は、ます博士の憲法論を「国賊」的として圧迫し、次第に全憲法学界の上に学問統制を加えることとなつた。このことは我が憲法学界をして極端な法解釈学的態度に韜晦〈トウカイ〉せしめるか、或は歴史主義的、所謂日本主義的にすることを意味し、後者による日本の特異性の謳歌は遂に、筧〔克彦〕博士にみられる如き宗教的=神道的な憲法学をすら出現せしめるに至つた。
 かくの如き情勢に於て、広く世界各国憲法間にわが憲法の客観的位置ずけを求むる比較憲法学が栄えないのは当然であり、比較的方法はただ憲法に含まれる各々の制度について乏しい実りをなしたに止まるが、他面憲法制定史の如き比較的政治的圧迫を蒙ること少き分野に於ては着実な労作がものせられることとなつた。
 教科書、概説書では、いわゆる正統派に属するものとして穂積八束・憲法提要(明四三、新訂昭一〇)、上杉慎吉・新稿憲法述義(大一三)、松本重敏・憲法真義(昭和三)、山崎又次郎・憲法学(昭八)、大谷美隆・大日本憲法論(昭一四)、之に対するものとして美濃部達吉・憲法撮要(大一二、改訂昭一二)、憲法精義(昭二)、市村光恵・帝国憲法論(大四)、副島義一・日本帝国憲法論(明三八)、佐々木惣一・日本憲法要論(昭五)、中島重・日本憲法論(昭二)、野村淳治・憲法提要(昭七)、金森徳次郎・帝国憲法要綱(昭七)、宮沢俊義・憲法略説(昭一七)、両者の中間として清水澄・国法学第一篇憲法論(明三七)、逐条帝国憲法講義(昭七)、佐藤丑次郎・帝国憲法講義(昭六)、原理をのべたものとして穂積・憲政大意(大六)、美濃部・日本憲法の基本主義(昭九)、佐々木・帝国憲法の独自性(昭一八)、筧克彦・帝国憲法の根本義(昭一八)がある。比較憲法的に把えたものとしては鈴木安蔵・憲法の歴史的研究(昭八)、比較憲法史(昭一一)、憲法史には尾佐竹猛・日本憲政史大綱(昭一四)、鈴木安蔵・日本憲法史概説(昭一六)、憲法制定とロエスレル(昭一七)、渡邊幾治郎・改訂増補日本憲法制定史講(昭一四)、国家学会編・明治憲政経済史論(大八)、大津淳一郎・大日本憲政史(昭二‐三)、金子堅太郎・憲法制定と欧米人の評論(昭一二)、蟻山政道・政治史(昭一五)、宮沢・公法史(昭一九)、佐藤功・我が憲法史上に於ける憲法争議(五六国家六-一〇昭一七)、その他特殊問題研究として一木喜徳郎・日本法令予算論(明二五)、美濃部・選挙争訟及当選争訟の研究(昭一一)、選挙罰則の研究(昭一二)、終戦後その性格と経過とを総括的に論評叙述したものとして藤田嗣雄・明治憲法論(昭二三)。【以下、次回】

 文献のところで、「五六国家六-一〇昭一七」とあるのは、この本独自の表記で、「『国家学会雑誌』五六巻六~一〇号、昭一七」の意味である。【この話、続く】

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