礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

泥仕合は僕はいやだ(近衛文麿)

2015-09-02 08:50:05 | コラムと名言

◎泥仕合は僕はいやだ(近衛文麿)

 あいかわらず、近衛文麿の「遺書」の話である。岩波新書『近衛文麿』は、近衛の自殺のあと、この遺書がどのように扱われたかについて書いている。以下は、同書二三六ページからの引用である。

 近衛の死後、連合国総司令部は前掲の遺文の発表について干渉した。末段の「是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう」の一句を削除するよう命令したのである。そして、極東軍事法廷主席検事キーナン(J.B.Keenan)は、つぎのような声明を公にした。「戦争犯罪容疑者として現在拘禁されてをり、また近く拘禁されようとしてゐるものを含め何人と雖も〈イエドモ〉、自分の良心の苛責により自分が有罪であると確信する者以外は、何も恐れる必要はないといふことをここに強調する」。

 遺書末段の削除と、キーナンの声明はセットになっている。要するに、近衛は、「自分の良心の苛責により自分が有罪であると確信」したので自殺したのであって、極東軍事法廷を忌避して自殺したわけではないという解釈を誘導したものと思われる。
 同書の二三六ページ以下には、近衛の自殺について、富田健治(第三次近衛内閣で内閣書記官長を務めた)が理解したところが紹介されている。

 近衛は何故〈ナニユエ〉に死をえらんだのであろうか。一二月二五日、神式によって一〇日祭が行われたが、その日の夜に葬儀委員三〇余名の集った席で、富田健治は、戦争犯罪人容疑者に指定されて以来の近衛のいったいろいろな言葉の中その心境をうかがわせるようなものを披露した。それによれば、近衛は、日中事変はたしかに失敗であったが、しかし、日中事変は太平洋戦争とは異って政府が計画した戦争ではなく、また自分は戦争に終始反対したのであり、またそれ故に日米交渉にも努力した。従って、事〈コト〉志と違った点については充分に責任を感じている。けれども、犯罪にはその意志がなけれぼならたい。自分にはその意志が全くなかったばかりか、戦争の一日も早い終結のために全力を尽した。それ故に、アメリカから戦争犯罪人に指名される理由はない。そうであるとすれば、戦争犯罪人容疑者としての逮捕は拒否すべきものと考える、とした。「戦争犯罪人として指名せられる屈辱には自分としては絶対に堪えられない」といった。また、軍事法廷に起って〈タッテ〉天皇のため弁護すべきであるとの論には同感できない、とした(その理由は、さきに軽井沢で高村〔坂彦〕に語ったのと同一なので省略する)。また、軍事法廷において堂々と真実を発表して世の公正な批判をうくべきであるとの論に対しては、近衛はいった。「今日は中傷と誤解とが渦を巻いている。何を話しても弁解だ、ウソだというのだ。又自分の利益の為には何を言い出すか解らない人達と泥仕合をすることにもなる。泥仕合は僕はいやだ。今は世人の理解が得られなくとも少しもかまわない。何時かは公正な批判に依って諒解される秋〈トキ〉のあることを確信する。自分は百年後世〈コウセイ〉史家を侯つ心持ちである」。
 富田が紹介した近衛の以上の言葉からでもある程度想像できるように、近衛は戦争犯罪人容疑者として逮捕され、戦勝国による裁きの庭に起つことを死をもって拒んだが、それによって彼は貴族としての彼の高い誇りを最後まで守ろうとしたのであろう。

 近衛文麿が富田健治に語った内容は、「遺書」の内容とほぼ重なっている。ただ、富田への言葉にあって、「遺書」にないことがある。それは、「自分の利益の為には何を言い出すか解らない人達と泥仕合をすることにもなる」という言葉である。実際、東京裁判では、戦犯どうしの間で、こうした見苦しい「泥仕合」が起きている。近衛は、このことを予見できていたのであり、これも「自殺」の大きな理由のひとつだったのであろう。

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