◎ルメイ将軍の夜間無差別焼夷弾爆撃
例年、この時期になると、テレビや新聞で、「戦争」の話題が採りあげられることが多くなる。そこで、このブログでも、「戦争」について、話題を提供してみたい。
今月一九日のコラム「アメリカの銃規制問題と日本の集団自衛権問題」で、松尾文夫氏の『銃を持つ民主主義』(小学館、二〇〇四)という本に言及した。この本の第一章「ルメイ将軍への勲章」には、アメリカのカーチス・ルメイ将軍が立案し、若き日のロバート・マクナマラ(元アメリカ合衆国国防長官)が協力した「夜間無差別焼夷弾〈ショウイダン〉爆撃」のことが出てくる。
マクナマラ氏によると、太平洋戦争末期、グアム島のルメイ司令部で働き、日本の六十七都市に対する焼夷弾爆撃を効果的に行なうための仕組みづくりと数学上の計算に従事した、という。そして「もしアメリカが戦争に負けていたらルメイ将軍も私も戦争犯罪者だった」とルメイ将軍と同じことばを述べたあと、「これだけの都市の人口の五〇%から九〇%を焼夷弾爆撃で殺傷したうえで、原爆を投下したのは余計なことでもあった」とも語っている。【中略】
これまでマクナマラ氏が、アーノルド司令官直轄の第二十航空軍に勤務していたとの記録は、明らかにされていた。しかし、その下部の実戦部隊であった第二十一爆撃軍のルメイ司令官のもとで、対日焦土作戦に直接かかわっていた事実については、マクナマラ氏自身も口にしておらず、今回〔二〇〇三年の映画『戦争の霧』〕初めて明らかになった。【中略】
つまり、ルメイ将軍の「夜間無差別焼夷弾爆撃」は、アーノルド司令官への「焼夷弾」レポート〔国家防衛調査委員会(NDRC)作成〕と同じように、当時の「アメリカという国」の最高頭脳が総力を上げてかかわり、支えていたということである。
マクナマラ氏の告白通り、〔一九四五年〕三月十日以後、この「夜間無差別焼夷弾爆撃」は東京、名古屋、大阪、神戸、横浜、川崎の六大都市に続き、六月十七日からは鹿児島、大牟田、浜松、四日市の四都市を皮切りに降伏前日の八月十四日の熊谷、伊勢崎まで六十一の中小都市に加えられた。わが福井市はその第十波目の四都市のうちの一つだった。これらの都市のB29被爆経験も風化しつつあるという。次の世代のためにあえてその日付と中小都市名を記録しておく。
六月十七日 鹿児島・大牟田・浜松・四日市
同 十九日 豊橋・福岡・静岡
同 二十八日 岡山・佐世保・門司・延岡
七月一日 呉・熊本・宇部・下関
同 三日 高松・高知・姫路・徳島
同 六日 千葉・明石・清水・甲府
同 九日 仙台・堺・和歌山・岐阜
同 十二日 宇都宮・一宮・敦賀・宇和島
同 十六日 沼津・大分・桑名・平塚
同 十九日 福井・日立・銚子・岡崎
同 二十六日 松山・徳山・大牟田
同 二十八日 津・青森・一宮・宇治山田・大垣・宇和島
八月一日 八王子・富山・長岡・水戸
同 五日 佐賀・前橋・西宮・御影(現・神戸市東灘区)・今治
同八日 八幡・福山
同十四日 熊谷・伊勢崎
グアム島の二基地、テニアンの二基地、サイパンの一基地、それに八月に入ってからは沖縄基地を加えて、最後には千五十六機にふくれ上がったB29を動員して、延べ三万二千六百十二機にのぼる出撃だった。この合計六十七都市に対する出撃で投下された焼夷弾は九万四千トン、通常爆弾が五万三千トンで合計十四万七千トン、ほかに一万二千トンの機雷が港湾地域に投下された。
「ルメイの爆撃」の華々しい成果に刺激され、海軍航空隊も戦後の影響力維持のためにと、空母部隊の艦載機〈カンサイキ〉による「無差別」の空爆を、長野市など各都市を対象に強化するという副次効果まで生み出した。
文中、「わが福井市」とあるのは、この本の著者である松尾文夫氏が、福井空襲を体験しているからである。当時、国民学校六年生であった松尾氏は、福井市東部の手寄上町〈テヨセカミチョウ〉で、被爆したという。【この話、続く】
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