礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大谷美隆「ナチス憲法の特質」(1941)を読む

2015-08-17 03:56:32 | コラムと名言

◎大谷美隆「ナチス憲法の特質」(1941)を読む

 このブログでは、これまで何回か、「ナチス憲法」について言及してきた。今月五日のコラム「ワイマール憲法を崩壊させた第48条」では、次のように書いた。

 ナチス政権は、ワイマール憲法を「凌駕」したと称したが、これを廃止したわけでもなく、これに替えて新しい憲法典を制定したわけでもない。「ナチス憲法」という言葉は、戦前・戦中の日本において、ナチス政権のもとにおける憲法状況を指して使われていたことが確認できるが、「通称」として定着していたとは思えず、もちろん、明確な定義を持った学術用語ではない。

 この見方を修正する必要は、今のところ感じていない。しかし、このあとの研鑽によっては、修正の必要が生じることもあろう。その場合は、そのつど、このブログで報告させていただく予定である。
 さて本日は、大谷美隆〈オオタニ・ヨシタカ〉という憲法学者(当時、明治大学教授・法学博士)が書いた「ナチス憲法の特質」という論文を紹介してみたい。日本国家科学体系第六巻『法律学(二)』(実業之日本社、一九四一)に収録されていたものである。
 同論文は、第一節「緒言」、第二節「ナチス憲法の特質」、第三節「結語」の三節によって構成されているが、本日、紹介するのは第一節「緒言」の全文である(一〇五~一〇八ページ)。

 第一節  緒 言
 ナチス・ドイツ憲法と云ふのは、アドルフ・ヒトラーが一九三三年〔昭和八〕一月、政権を獲得してから議会の同意を得て憲法をも改正し得る権限を取得し、其後数回に亘り発せられた政府の法律に依つて出来た憲法であつて、殆ど大部分のワイマール憲法が改正せられて仕舞つたのである。これをナチス革命と云ひ、第三帝国とも云ふ。ウイルヘルム大王の時のビスマルク憲法の国を第一帝国と云ひ、ワイマール憲法の国を第二帝国と云ふならば、ナチス憲法の国を第三帝国と云へるからである。(此帝国とはライヒ〔Reich〕と云ふ意味である)兎に角〈トニカク〉ナチス憲法を以てワイマール憲法の国とは全然性質の違つた国を建設したのである。
 然らば如何に違つたかと云へば、これを支配する原則が、ワイマール憲法では個人主義自由主義であつたのが、ナチス憲法では、全体主義統制主義に変つた事である。其全体主義が民族全体主義となつて明確なる政治原理が与へられたのである。此点が非常な特色であると云はねばならない。
 一体、各国の国情に依り、政治を担当する者が違ふものである。中世迄は貴族が政治を担当してゐたが、フランス革命に依り、貴族を廃して、市民(Citoyen)が政治を担当する様になつた。イギリスでは、紳士と云はれる自由市民であつた。自由平等と叫ばれたのは、此市民の自由平等を要求したのである。併し此市民とは、資本家を云ふ。有産階級を云ふ。故にフランス革命や、イギリスの革命は、貴族から資本家に政権が移つたことを意味したのである。即ち英仏は資本主義国家になつたのである。
 ワイマール憲法は、英仏に真似て、市民を政治の担当者として制定された。然るにドイツには、資本家らしいものは殆どないので、ワイマール憲法を旨く運用する事が出来なかつた。其代りに勇敢なる「政治兵士」は沢山ゐた。ヒトラー自身は、前大戦に於ては伍長勤務の上等兵であつた。貴族でもなければ、資本家でもない。されど彼が立上つて「吾等の仲間諸君」と叫べば、此政治兵士が沢山集まつて来て、突撃隊となり、親衛隊となつて、尨大なるナチス党と云ふ政党が出来上つて仕舞つたのである。ドイツに於ける政治担当者は、「市民」ではなく此「政治兵士」である。これがナチス・ドイツ憲法の特色であるのだ。
 故に戦勝国である英仏は、第一次大戦の損害を取戻してこの「市民」たる資本家とならうとして汲々としてゐるのに、戦敗国のドイツは貧乏の侭で「政治兵士」になつて戦勝国の英仏より一足先に強国になつて仕舞つた。そして第二次大戦では一挙にフランスを破り、英国を頻死の状態に陥入らしめてゐる。此不思議な現象は、ドイツ人の国民性に由来するものであつて、英仏では容易に真似の出来ない所である。ナチス憲法を理解せんとする者は、先づ此等のドイツ人の特性から研究してかゝらねばならないのである。
 次にナチス憲法は如何にして成立してゐるかと云ふ事を述べねばならぬが、これは一個の法典から出来てゐるのではなく、約十個程の法律から出来てゐるのである。これはヒトラーが、一九三三年政権を獲得してから何回かに発した所の法律である、それがナチス・ドイツの憲法を構成してゐるのである。
 抑も〈ソモソモ〉第一次世界大戦後出来たワイマール憲法は民主主義、個人主義、自由主義の憲法であつた、然るにこれを実際実行して見ると、十数個の小政党が分立し、これが相争ふ結果は、結局色彩の明瞭な極左の共産党と、極右のナチス党との二つが勢力を得て、中間党は次第に勢力を失つて仕舞つた。そこでドイツは、右に行くか左に行くか何れかに決定せねばならぬ事になつて、遂に右に行くことに決定したのである。一九三三年一月三十日、ナチス党首ヒトラーが、ヒンデンブルグ大統領に招かれて、首相の印綬を渡された時に、ドイツは、百八十度の転回を初めたのである。ヒトラーは直に〈タダチニ〉議会を解散した。そして総選挙の結果は、定員六百四十七人の中〈ウチ〉、ナチス党は二百八十七人を獲得した。そこでヒトラーは此議会に「国民及国家の艱難〈カンナン〉を除去する為めの法律」と云ふ法律案を提出したが、それは結局ヒトラー政府に一切を委せると云ふ全権委任法であつた。其法律案が四四一対九四と云ふ絶対多数を以て議会を通過したと云ふ事に依り、ヒトラー政府は、ワイマール憲法をも変更し得る権限を取得したのである。何となれば、ワイマール憲法に依れば、議会の三分の二の同意があれば憲法をも改正し得ることになつてゐるが、此全権委任法は、三分の二以上の多数を以て同意されたからである。
 ドイツの学者は之を「ナチス革命」と云つてゐる。ワイマール憲法の改正を、白紙委任状を以てヒトラーに委せたのである。尤も、ヒトラーは一九二〇年にナチス党綱領二十五個条と云ふのを発表してゐるから、其内容は大体判つてゐる。併し具体的決定を一切ヒトラーに一任した。これは四年間と云ふ期眼付であつたが、一九三七年一月三十日更にこれを四ケ年延長する事にした。或は尚延長されるかも判らない。故に今尚憲法改正の途上に在るとも云へるが、大体重要な事項は一応定まつたものと云へるのである。それを全部左に列挙して見る事にする。
一、一九三三年三月二十四日の「国民及国家の艱難を除去する為めの法律」
二、一九三七年一月三十日の右法律を更に四ケ年延長する事に関する法律、
三、一九三三年七月十四日の「国民投票法」
四、一九三三年十二月一日の「党と国家の一体を保障する為めの法律」
五、一九三四年一月三十日の「ライヒ新溝成法」
六、一九三四年八月一日の「ドイツライヒの元首に関する法律」
七、一九三五年一月三十日の「ライヒ代官法」
八、一九三五年一月三十日の「ドイツ市町村制」
九、一九三五年三月十六日の「国防軍構成法」
一〇、一九三五年九月十五日の「ニュルンベルグ法」、これは「国旗法」「公民法」「ドイツの血とドイツの名誉との保護の為めの法律」(血の保護法)の三である、
一一、一九三七年一月二十六日の「ドイツ官吏法」
 以上がナチス・ドイツの憲法を組成するものであつて、これに依りワイマール憲法は実質的には殆ど消滅して仕舞つたのである。民族全体主義の憲法が、個人主義の憲法に代つたのである。

 この論文に限らないが、入力してみると、文章のヨシアシといったものがよくわかる。この大谷という学者の文章は、明晰性、厳密性を欠いているように思う。
 それは措くとして、大谷の捉え方によれば、ナチス憲法(ナチス・ドイツ憲法)というのは、ワイマール憲法を消滅させる形で成立した「約十個程の法律」のことらしい。
 そして大谷は、緒言の最後に、十一の法律を列挙している。では大谷は、どういう根拠に基づいて、これらの法律を挙げたのか。実を言うと、ドイツの公法学者オットー・ケルロイターの説に従っているだけなのである。ケルロイターが、その著書『ナチス・ドイツ憲法論』(矢部貞治・田川博三訳、岩波書店、一九三九)で挙げている一〇の法律を、ここで大谷は、そのまま列挙したのである。数がひとつ増えているのは、ケルロイターが、「一」として挙げたものを、大谷の場合、「一」と「二」のふたつに分けているからである。

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