礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

武士は、コノシロ魚を食べなかった

2014-04-29 05:50:54 | 日記

◎武士は、コノシロ魚を食べなかった

 昨日に続いて、北村清士『こぼれ史談 寸話秘帖』(藤井書房、一九六七)に載っていた話を紹介する。本日、紹介するのは、同書の冒頭に載っている話である。例によって、表記は原文のまま。

 1 忌みことば
 文政元年十月二十三日、一八一八年頼山陽〈ライ・サンヨウ〉がとつぜん、なんの前ぶれもなく、画聖田能村竹田〈タノムラ・チクデン〉を尋ねて竹田町にやつてきた。竹田はすごくよろこび、山陽の長い旅の疲れをなぐさめるため、一夕〈イッセキ〉城下町きつての賢産家で、しかも第一等の美人のいる肥前屋に招待した。ところが山陽はその招きをすげなくことわつてきた。竹田は何の理由でことわるのか、あの美人好の山陽がと首をかしげて、その理由をおもむろに考えてたが、家号〈ヤゴウ〉の「ヒゼンヤ」を、いやがったのではないかと、尋ねるとそのとうりだと山陽は大笑である。そこで別邸にひそかに件〈クダン〉の美女を招いて、長夜の宴をはつた。山陽は美女のお酌に満悦のていで徹夜で飲みあかしたという。ヒゼンヤは「カイセン」〔疥癬〕という皮膚病のことばに通ずるからである。
 江戸時代では盗賊のなかでも、「ヒモツキ」ということばをすごくきらっていた。羽織などきても紐(ひも)のあるのを忌みて、ことさら取り除いてきた。今でもヒモつき人事とか、あれはヒモつきだといつて人はイヤな顔をする。縁談でもヒモつきなら真ツ平〈マッピラ〉と青年はイヤがる。天保三年十二月四日(一八三二年)の夕ぐれ、竹田市、北尾鶴村のエタ弾左ヱ門は轟木の酒屋で一杯傾けていた。そこえ顔もすごく美しい青年がはいつてきた。着物もりつぱだし、愛矯もきわめてよい。だが羽織にヒモがなく肩へひつかけてなんとなく眼の落ちつきがない。
 弾左ヱ門は自分の六感で、矢庭にこの男をとり押へ白状させ泥を吐せると当時西日本きつての大盗賊で「天下の尋ね人」と判り、その手柄で弾左ヱ門は藩主〔中川〕久教公から帯刀を特にそのほうびとして許されたという。また魚の中に「コノシロ」という魚がある。しかし殿様や昔の武士の家庭では絶対にこの魚を食わなかつた。「この城」ということばと同音であるから、忌みきらつたのである。だから江戸やその他の城下町では売行きがわるく、馬鹿気たほど安いねだんであつた。しかしその他の町では争つて「ヤツコ魚」と変名して喰ったものである。今は「この城」という時世でもないので、コノシロ魚を忌みきろう〔忌み嫌う〕ものはない。
 むかし新調のきものには、ふつう「仕付糸」とて麻の糸でぬい目を正しく、きちんとするならわしであつたが、武士は決して仕付糸の衣類は着用しなかつた。そのわけは他人から「シツケ」されることを忌みきろうからである。近頃の女性は仕付糸のまま町中をぶらぶら歩きまわつて平気な顔をしている。電話番号の四をきらい、旅立ちに四日をさけるのも四は死に通ずるからであろう。

 田能村竹田は、豊後竹田出身の画家である。全国を歩き、文人で歴史家の頼山陽とも交流があった。
 北尾鶴村の弾左ヱ門が、盗賊を逮捕した話は、興味深い。豊後岡藩の警察制度については、よくわからないが、当時、弾左ヱ門が、警察関係の職掌に当たっていたこと、逮捕権を持ち、かつ捕縛術に通じていたこと等が、この記述からわかる。

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