◎小磯内閣の外交「秘策」、すべて不調に終わる
青木茂雄さんのケルロイター論「その3」が、到着しないので、今月二三日に続いて、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介する。本日は、「小磯内閣の対ソ工作」より。
小磯内閣の対ソ工作
かうして、第一回の対ソ積極工作は何ら得るところなく、むしろ帝国外交責任者の不明不敏を暴露するに止つたのごとき結果に終つたが、一方これとは別に、しかし時間的には並行して、帝国独自の利害上の立場から開始された漁業条約改訂に関する対ソ交渉では、北樺太の全利権放棄といふ高価な代償を払ふことにより、昭和十九年〔一九四四〕三月末日をもつて日・ソ協定の成立を見、中立条約の再確認を得て一応の成功を収め得た形であつた。
だが、戦局は太平洋においても、欧洲においても依然として、そして甚しく悪かつた。欧洲においては昭和十九年月開始された米・英軍の北仏〔北フランス〕上陸作戦は遂に本格的な第二戦線の結成に成功して、ドイツ軍はじりじりと敗退を続けた。太平洋ではサイパン島の失陥は遂に同年七月十八日東条内閣の退陣を余儀なくせしめ、続いて小磯・米内協力内閣の出現となつたが、事ここに至つてはもはや戦局の絶対的破綻を国民の前に隠蔽し尽すことは不可能になつてゐたのである。
加ふるに七月二十日にはヒトラー暗殺未遂事件が勃発して、ドイツの内部崩壊近きのあるかの如き印象を与へた。また同月二十九日には泰〔タイ〕にも政変が勃発して、独裁者ピブン首相の政権が崩壊し、ここにも不安動揺の兆歴然たるものが看られた。
日本国内では漸く「帝国外交は一体何をしてゐるのだ」「何とか手がありさうなものだ」「日・ゾ中立条約は何のために結ばれたのだ」等の声が、声なき声として呟かれはじめたのであつた。
かかる情勢下に、依然外相として小磯内閣にも留任した重光葵氏の手によつて、第二回の対ソ積極工作が企てられたのはこの年の九月であつた。
もつとも、この時は、小磯〔国昭〕内閣に国務相兼情報局総裁として入閣した緒方竹虎〈オガタ・タケトラ〉などの主張により、対ソ工作と同時に対重慶工作もまた小磯内閣の重要な対外政策の一つとしてとりあげられることとなりこの方は主として緒方国務相が担当したが、重光外相は南京政府の汪精衛〔汪兆銘〕氏―一当時宿痾〈シュクア〉手術のため名古屋大病院に入院中で重態であつた――との義理もあり、また帝国政府数年来の対支政策の経緯からいつても、今更重慶に対して何らかの積極工作を、しかも政府自身の手で行ふことには同意しかねる立場にあつたので、対重慶工作には反対の態度を内々示してゐた。従つて、小磯内閣の対外政策はここに、二つの糸がそれぞれ異つた手に引かかる結果となつたのである。
重光外相は、外交界の大先輩、元首相広田弘毅氏の出馬を促し、これを特使としてモスクワに派遣しようと考へた。かくすることによつて去る三月成立の日・ソ協定により、一応礎石らしいものを据ゑ得たかに思はれた日・ソ関係の友好性を更に一層確実ならしめ、もつて、予想される欧州政・戦局の大変動に対処するとともに、少くとも太平洋における帝国の戦争遂行を現在以上に困難ならしむるごとき事態の発生を未然に防止しようと欲したのであつた。しかし、このときは広田氏は成算なしとして敢へて起たうとしなかつた。
一方、緒方国務相を中心とする対重慶工作は、いはゆる繆斌〈ミョウ・ヒン〉工作となつて進展しつつあつた。支那事変の当初北支新民会運動の理論的指導者として活躍し、その後南京・上海地区にあつた繆斌氏は曽て緒方氏とも面識の間柄であつたが、彼は重慶側に対日和平の意志ありと称して自ら「穏密なる重慶代表」との触れ込みで東京に至り、緒方氏をはじめ政府要路とも会見して種々画策奔走するところがあつた。またこの間退役陸軍大将宇垣一成〈ウガキ・カズシゲ〉氏も勧むる人あつて重慶工作に一肌ぬがんものと自ら渡支したりしたが、これは直接には政府との間に何の関係もない動きであつた。
しかしこれらの対重慶工作は、いづれも重光外相を初め駐華大使谷正之〈タニ・マサユキ〉氏等の強硬な反対に会ったほか、繆斌氏自身の提案内容にも些か曖昧の点があつたりした結果、結局何らの具体的結実を見ることなしに潰え去つたのであつた。
ここにおいて小磯首相は自ら第三の策を立てた。それは久原房之助〈クハラ・フサノスケ〉氏をソヴェトに、近衛文麿公をスイスに派遣せんとする案であつた。久原氏はかねて政界のダーク・ホースといはれ、二・二六事件以来一切表面だつた動きからは身を引いてゐたが、依然として政界の一部には隠然たる勢力を残してをり、加ふるに、事業関係を通じてソ連との間に多少の因縁を持つてゐた。小磯首相はこれをモスクワに派して日・ソ友好関係の確立に当らせようとする一方、かねて親米・英派と目されてゐた近衛公をスイスに派して対米・英和平の打診を行はしめんとする計画を立てたのであつた。
しかし、この小磯案はこれまた重光外相の反対するところとなつて何ら具体化することなく、そのまま立消えとなつた。
そして、二十年〔一九四五〕二月には硫黄島が、三月には沖縄が相次いで敵手に陥り、加ふるにわが本土に対する敵の空襲は日毎にその郷土を増し、太平洋戦局の山はいまや全く見えたといつてもよいところまで来てしまつたのである。かくて四月早々小磯内閣は挂冠〈カイカン〉し、後継内閣首班には、全く世人の意表を衝いて、鈴木貫太郎海軍大将が就任した。
以上を要するに、東条内閣にせよ、小磯内閣にせよ、決して手を打たなかつたのではない。またやむくもに強気一点張りで、何ら戦局の現実を見ることなく世界の動きをも無視して徹底抗戦の一本調子で来たものでもない。彼らは彼らなりに相当の苦心を払つて、外交的にも手を打たうとしたのであつた。
ただ、彼らの手は国民の耳目から完全に切り離されたところで、或る場合には官僚にすら秘められたままで、極く一部の人々の手により恰も〈アタカモ〉陰謀でもあるかの如くにして打たれんとしただけである。国民に対しては、どこまでも強気一本の「戦局理解」を強ひつつ、何事も教へずまた論じさせず、ただひたむきな絶望的戦争努力にこれを駆り立て、その裏面では政府と軍の最高首脳者の、そのまた極く一部だけが、あれかこれかと日夜寝もやらぬくらゐに心魂を傾け、「国を憂ひ、民を想うて」秘策を練つてゐたのである。
われわれ国民としては、勿論これらの人々の真心を寸毫も疑つてはゐない。またそれらの苦心をむげに非難してもならないであらう。だが、「国民的支持のない外交はもはや絶対に通用しない」ところまで、今日の世界、少くとも曽ての日・独・伊三国を除いた他の世界の大部分は来てゐたのだといふことを、これらの人々にいはねばならないし、今後政府の当路たるべき人々に聞いておいてもらはねばならないと思ふのである。
何者か「大物」を送れば、その人物の個人的力量と手腕とで「白も或ひは黒になるかも知れない」といふやうな大時代的な、恰かもビスマークかラスプーチン時代のやうな古ぼけた、陰謀臭い考へ方は今後の日本外交からは完全に一掃されなければならない。【後略】
この文章を読んで、非常に複雑な気持ちになった。特に、下線部のあたりである。
戦中の最高指導部が、国民に対しては「徹底抗戦」を強調しながら、みずからは、外交上の「秘策」に腐心していた事実があばかれていたからである。
しかも、その「秘策」は、ことごとく、実を結ばなかった。おそらくそれは、「対ソ外交」にこだわりすぎていたことに原因がある。このことは、必ずしも「軍部」の責任ではない。むしろ、「外交」の責任が大きかったのではないだろうか。
私は、このパンフレットを、そのように読んだ。
今日の名言 2015・9・26
◎真理は間違いから逆算される
本日のNHK「あの人に会いたい」に、早くも鶴見俊輔(1922~2015)が登場した。口調に独特の説得力がある。表現に即興的と思われるレトリックがある。
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