礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ケルロイター『ナチス・ドイツ憲法論』を読む(青木茂雄)

2015-09-24 04:10:27 | コラムと名言

◎ケルロイター『ナチス・ドイツ憲法論』を読む(青木茂雄)

 映画評論家の青木茂雄さんが、目利きの古書マニアであって、ケルロイターの『ナチス・ドイツ憲法論』も架蔵されていることは、このブログでも紹介したことがある。その青木さんから、一昨日、ケルロイター『ナチス・ドイツ憲法論』の感想が送られてきたので、本日はそれを紹介する。

ヴァイマール憲法は「改定」されたのか「破棄」されたのか? (1)
  ─ケルロイター『ナチス・ドイツ憲法論』を読む─  青木茂雄

【ケルロイター著『ナチス・ドイツ憲法論』について】
 このブログでも話題になったケルロイター著『ナチス・ドイツ憲法論』(矢部貞治・田川博三訳、岩波書店、昭和14年発行)は、数年前にどこかの古書店で入手し、そのまま書棚の奥に放置したままにしておいた。これを機会に読んでみたいと思ったが、どいうわけか肝心のその本がなかなか見つからない。書棚や部屋の隅などをあちこち捜し回ったあげく、先日ようやく捜し出した。
 表紙の裏に私が鉛筆書きした購入年月日は2010年10月5日で、購入先は挟み込んだレシートから神保町の「20世紀記憶装置@ワンダー」、購入価格は1575円であったことがわかる。同書店の側道沿いの外壁に並べられている店晒しの書架にあったと思う。購入の動機はただ珍しかっただけで、内容はおそらく時局迎合の噴飯物で、時間をかけて読むほどのことはないだろうと思って、ほうり出しておくうちに、いつのまにか書棚の奥へと流れて行ったものと思われるが、取り出してながめてみると岩波書店発行の歴(れっき)とした学術書で、紙質も上等である。
『ナチス・ドイツ憲法論』は日本語訳の題名であって、それでは原題は何であるかを捜したが、実は極めて不親切なことであるが、この訳本にはその原題が記されていないが、国会図書館目録には“Deutsches Verfassngsrecht, ein Grundriss von Otto Koellreutter 3.druchgesehene und erganzte Aufl. Berlin: Junker und D nhaupt,1938" (「ドイツ憲法論」 オットー・ケルロイターによる大綱 3訂増補版 ベルリン ユンカー・デュンハウプト 1938年)と8月24日付け礫川ブログで紹介されている。
 初版の発行年である1935年7月の原著者序文を読むと「ドイツ憲法大綱の刊行に就ては、恐らくその理由を説明するの必要はないであらう。それは又尚早でもない。けだし、ドイツ指導者国家の大きな憲法的輪郭は、今日に於ては既に確立されているのである」とある。ここで注目されるのは、1935年時点で「大きな憲法的輪郭は」「既に確立されている」と書いていることである。
 著者のオットー・ケルロイターは、この1935年の初版執筆時点で、ヴァイマール憲法に代わる新たな憲法体系が樹立されている、つまり「改定」の域を越えて、法学的には「革命」が達成されたと考えていたことと判断される。このことの意味については後に検討する。
訳者矢部貞治(やべさだじ)は、東京帝国大学法学部所属の気鋭の政治学者であり、当時としてはむしろリベラルな学風であったという評価もあるが、訳者序文によるとケルロイターとは矢部のミュンヘン大学留学時代以来の親交があったようである。共訳者の当時東京帝国大学法学部学生であった田川博三(たがわひろぞう)はこの時期(1937年~38年)に日独交換留学生としてミュンヘンに滞在し、矢部の紹介によりケルロイター教授に就いてドイツ国法学の研究を進めていた。
 田川はバイエルンの山村でこの「ドイツ憲法大綱」の日本語訳に没頭し、できあがった草稿を、ケルロイターが1938年11月上旬に来日した際に持参し矢部に渡した。ケルロイターは日独交換教授としてその後も滞在し、おそらくその年の11月25日の日独文化協定成立ともかかわったものと思われる。ちなみに、前年1937年2月には日独合作映画『新しき土』(アーノルド・ファンク監督)が日本公開されている。
 ケルロイターから翻訳の草稿を手渡された矢部は田川の友人の磯田という東京帝国大学法学部学生の協力を得て、草稿の「改変と添削」を行い1939(昭和14)年2月に原稿を完成させ、同年5月10日に岩波書店から刊行した。(訳者序による。) 
 ところで、1939(昭和14)年とはどういう年であったか。岩波版『近代日本総合年表』で調べてみると、1月4日に近衛内閣が総辞職し、翌5日には平沼騏一郎内閣が成立し、6日にはさっそくドイツ外相が「三国同盟」案を日本に対して正式提案している。このように日本は全体として枢軸国側への傾斜をいっそう深めていった年であった。
 文化面でも《東亜共同体》が盛んに論じられ、7月には「新ドイツ国家学体系」が日本評論社から刊行開始されている。
 次回は、「ドイツ憲法論」の内容を検討する。

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