礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

井上日召、検事正室に出頭す(1932・3・11)

2015-07-02 04:16:51 | コラムと名言

◎井上日召、検事正室に出頭す(1932・3・11)

 昨日の続きである。宮城長五郎著『法律善と法律悪』(読書新報社出版部、一九四一)から、「法道一如」という文章を紹介している。昨日、紹介した部分のあと、次のように続く。

 心あたりの三ヶ所を調べさせた。二ヶ所には居らない〈オラナイ〉ことが判明した。残り一ヶ所にはえらいブルドツクが居て近付けぬ、居るか居らぬか〈オルカオラヌカ〉も判らぬと云ふことであつた。そこで私は、遠捲きにして厳重に「監視せよ、踏み込んではならぬ、蟻一疋でも出入の出来ないやうにせよ」と厳重な命令を出しました。
 是は何故かと申しますと、当時警視庁相手に事を起し、維安維持の必要から戒厳令を布かしむる〈シカシムル〉と云ふやうな話しを聞いてゐたので、戒厳令を布かれて仕舞つては面白くないと思ひ、警視庁に命じて、事を起さないやうに遠捲きにしてゐた次第である。ところが司法大臣から「明日午前十時○○○〔井上昭〕は検事正室に出頭するからその用意をしてゐて呉れ」と云ふ話が三月九日にありました。「何う云ふ筋から左様な話しが出たのでありますか」と訊ねましたところ、司法大臣は「出て来れば良いではないか。それは聞いて呉れるな」と云はれ、私は「男の一言〈イチゴン〉として聞きません」と申して仕舞つたので、今に至るまで話の筋は疑問になつて居ります。
 十日の十時に検事正室に出頭すると云ふことであつたので、十時から出頭を待つて居りましたが夜の七時になつても出て来ません、そこで司法大臣に電話をかけて「只今まで検事正室にお待ちしましたが○○○は出て来ませぬ、これから官舎に引き上げますから、御用がありましたら官舎に電話を願ひます」と申しました。
 司法大臣は鈴木喜三郎氏であつた。「それは何にか行違ひがあつたのであらうから、取調べて官舎に連絡するからとのことでした。が、九時頃官舎に、大臣から電話があつた「行違ひがあつた、この上は検事正の思う通りにやつて呉れ」と云ふことであつた。「何にも聞いて呉れるな」と云はれたので一切事情は不明であつた。従つて如何なる次第で検事正の思ふ存分やつて呉れと云つてあつさり捨てられたのかも判らぬが、私は「色々お世話になりました、よく考へて善処します」と云つた。
 そこで、これ以上、もつと取り捲き方を増す方が良いか何うか〈ドウカ〉、明日次席や係検事に打ち合せて見やうと思つてゐると、十二時頃に又電話があつた。「明日は間違ひなく出頭するからその準備をしておいて呉れ」と云ふのであつた。猫の眼の様に変るので何う云ふ訳か判らぬが、翌日〔三月一一日〕検事正室に待つてゐることにした。その朝早く司法大臣から「途中で手をかけて呉れるな、手をかけて間違ひが起るといけないから、決して途中で手を出さないやうに手配して呉れ」との電話があつた。やつぱり司法大臣も戒厳令を心配されてゐるのだと思ひ途中手出〈テダシ〉をしないやうに警視庁と打合はせをした。
 午前十時○○○は検事正室に出て来ました。一人ではなく、○○○○○が随行して来た。
「○○○です」
 と云ふ。私は、
「検事正です」
 と云ひました。もう一人は、
「○○○○○です」
 と、云つた。
「まあかけ給へ」
 と云つたが随行はかけやうともしなかつた。
「君、かけ給へ」
 と云つてもまだ立つてゐる。ピンと私の頭に何にかが響いた。そこで下手な問答をしてゐると何にが起るか判らぬ、不宵なりと云へど帝都の治安を預つてゐる検事正である。此処で下手をして、それが号外に出る。それを切つかけにして戒厳令が布かれて仕舞つては、幾日かの苦心も水の泡である。是れは下らぬ取調べや問答をしてゐるのは良くない場合であると考へました。私は○○○に対し、
「出て来るとは思つたが遅かつたね」
 と申した。〈一三八~一四一ページ〉【以下略】

 昨日、引用した部分に比べ、さらに「釈然としない」内容である。しかし、何とかこれを解釈してみたい。
 あいかわらず伏字が多いが、「○○○」とあるのは、井上日召の本名・井上昭であると推定した。だとすれば、これに随行してきた人物「○○○○○」は、頭山満〈トウヤマ・ミツル〉門下の本間憲一郎である。
 血盟団の中心人物・井上日召は、出頭するまで、右翼の大物・頭山満の邸宅に匿われていた。もちろん、宮城長五郎検事正らは、それを知っている。しかし、踏み込めない。「えらいブルドツク」がいたからである。――というのは冗談で、不測の事態が生ずることを恐れたのである。この血盟団事件と連動して、「警視庁相手に事を起し、維安維持の必要から戒厳令を布かしむる」というような計画があるという噂があった。ハッキリ言えば、軍部・右翼を中心とした「クーデター」計画のことである。
 おそらく、宮城検事正は、警視庁が頭山満邸に踏み込んだことをキッカケにして、そのクーデター計画が発動される可能性を想定し、これを恐れたのであろう。
 では、司法大臣・鈴木喜三郎の不可解な言動は、どう説明すべきか。
 これより先の二月二七日、血盟団の菱沼五郎は、川崎市の宮前小学校に向かった。そこで開かれる演説会に、政友会の鈴木喜三郎が出席すると聞き、これを暗殺しようとしていたのである。ところが、当日、鈴木の演説が中止となり、暗殺は果たせなかった。その後、菱沼における「一人一殺」の目標は、鈴木喜三郎から團琢磨に変更された。
 鈴木喜三郎は、「国本社」に籍を置き、右派にも人脈を持っていた。この日の演説中止は、たぶん、偶然ではない。血盟団が自分を狙っているという情報を、右派の人脈から得て、暗殺されるのを避けたと考えられる。また、井上日召の出頭も、鈴木喜三郎の御膳立てによるものであろう。鈴木みずからが主導性を発揮して、頭山満ほかと秘密の交渉をおこない、その結果として、井上日召の出頭を実現させたのであろう。当然、その間に、何らかの「取り引き」がなされたと推察される。
 三月一一日、井上日召がに出頭したことによって、血盟団事件にクーデターが連動する可能性は、事実上、消えることになった。しかし、これはあくまでも結果論なのであって、井上日召が出頭してきた時点においては、鈴木喜三郎にせよ宮城長五郎にせよ、なお、クーデターに対する恐怖心あるいは警戒感を捨てていなかったことであろう。だからこそ、井上日召に対する扱いが、引用文にあるように、破格のものになったのである。

*都合により、明日より数日間、ブログをお休みします。

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1 コメント

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Unknown ( 伴蔵)
2015-07-05 20:45:32
 井上日召は、群馬県利根郡川場村出身で、任侠的な村
医者の子として生まれ、幼き頃、弱い者いじめをすると父親から人事不省に至るまで殴られたそうです。また、喧嘩して負けて帰ってくると、「負ける喧嘩なら初めからするな。」と言われ、おかげで喧嘩では誰にも負けない腕前になったと、猪野健治著『日本の右翼』にあったと思います。

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