礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

敗戦と火工廠多摩火薬製造所「勤労学徒退廠式」

2014-02-01 04:36:14 | 日記

◎敗戦と火工廠多摩火薬製造所「勤労学徒退廠式」

 本日も、『立川高校の天体望遠鏡物語』(二〇〇四)から。本日は、都立二中の田代實教諭が、敗戦前後のことを回想している部分を紹介したい。ここは、昨日、紹介した部分のすぐあとにあたっている。

 立川高校の天体望遠鏡物語(4)
 米軍のB29爆撃機は、昼夜の区別なく、我々の地域をも空襲し、そのたびに、警報は天地四方に鳴り響いた。私は、恐怖に震えていた。
 昭和二十年四月二十四日午前八時半のこと、私が、立川飛行機に、動員されていた〔「科学技術者動員令」による。昨日のコラム参照〕ときのことである。空襲警報が鳴るやいなや、あっという間にB29が頭上に来襲し、私達の部屋が、爆撃の中心点になって、直撃された。そして、大きな木造建築は、焼失してしまった。私は、助かったがその時の恐怖が、警報を聞くたびによみがえってくるのである。それまでは、警報が鳴っても「対岸の火災」のような安閑とした気分であった。人間誰しも、我が身に体験してい初めて、その事象に対する関心を深くするものである。
 そうした八月七日、武蔵野市在郷軍人会から、私は、一通の令状を受け取った。来る八月十三日より、十五日までの三日間、武蔵野第三国民学校に於いて、竹槍訓練を行なう、竹槍を持って、出頭せよというのである。私の家には竹槍にするような竹は、ありはしなかった。それで、大切な物干竿を、身を切る思いで竹槍に削って、持っていくことにしたのである。三日目の八月十五日、訓練なかばに近くの民家に連れたいかれた。正午のラジオ放送によって、天皇陛下の終戦の玉音を、拝聴したのであった。私は、右手に竹槍、肩には、あわれな防空頭巾、脚には、破れかかった巻脚絆〈マキキャハン〉を巻き、ぼんやりと空しい心地で佇んで〈タタズンデ〉いた。竹槍を、いまいましそうに投げ捨てて帰る者もあった。私は、捨てる気になれず、大切に家に持ち帰った。
 八月十六日、私は、南多摩火工廠〔陸軍火工廠多摩火薬製造所〕に出勤した。午後三時に、作業を打切って、四時に、本部事務所前の広場に、勤労学徒は、全員集結させられた。見れば、男女併せて凡そ、一千人の学徒である。
 南多摩火工廠は、東京都南多摩丘陵の数万坪の地帯の、起伏のある地形を、巧に利用して設けられた、火薬工場であった。凡そ、二十坪(六十六平方米)の小屋工場が、二、三百米の間隔をおいて、建てられている。その中へ、勤労学徒が、数名づつ配置されて、主として、T・N・T(トリニトロトルエン)の強力火薬を、造る工場である。
 あんな小屋の中に、こんなに多くの勤労学徒が、人知れず働いていたのかと、驚かざるをえなかった。やがて、軍人廠長が参列されて、退廠式というのが、挙行されることになった。先ず、廠長が、壇上に昇って、沈痛な面持ちで、終戦になったこと、今日までの労苦に対する感謝、今後の日本のことなどについて、お話があった。それに対して、学徒の最年長の武蔵工業専門学校(現在の武蔵工業大学)の二十才位の、たくましい男子がつかつかと、廠長の前に進み出た。学徒を代表して、答辞を述べようとするのであつた。しかし、悲痛な感情が、先に迸って〈ホトバシッテ〉、唯々、大声で男泣きに、泣きだして、言いたいことは涙声になって、声にはならないほどであった。これに、共鳴するように、私立立川高等女学校(現在の立川女子高等学校)の若い女生徒も泣きだした。二中の二年生にも、泣きじゃくる者もいた。退廠式は、このように学徒の純真な涙によって、終了した。この涙を誰が、無意味であるといえようか。さりながら、一歩退いて考えると、我々は、「これで、助かった」という実感を、どうすることもできなかったのである。
 陸軍火工廠の、サイレンの声は、諸行無常の響きとして聞えた。夕陽、多摩丘陵の森に傾く頃、私は、二中の二年生と共に、もう再びくぐることのない工廠の大門をなんの未練も愛着もなく、くぐりぬけて、黒いドームの聳えている懐かしの二中への、本道を復学、学習の希望を抱いて歩きだしたのであった。【後略】

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