静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

再読「辞世のことば」

2024-05-13 09:46:16 | トーク・ネットTalk Net
 今朝の<アクセス解析>をみていたら(2020.5.5-6 【書評097】「辞世のことば」中西 進)を振り返られた方が多いので、書評の手元コピーを繰ってみた。
(なお、途中で【書評ラベル】を変更したこともあり、記載当時の連番は【書評102】)。  4年経ったいま、改めて読み返すと、著者が残した次の部分に強く惹きつけられる。

*『限られた己だけの死に対面する時こそ最後の自己発見であり、それは必ずしも死ぬ間際に発せられるとは限らない。何故なら死は生の全量を抱きかかえ遂げられる筈だから』
*『死から目を反らさず親和的に生きた人ならば≪ 畢竟、死はひとつの生にすぎない ≫』
 ⇒ この言葉は、西行・明恵上人・吉田兼好・芭蕉に連なる<三法印:諸行無常/諸法無我/涅槃寂静>の悟りを現代語でかみ砕いたものでもあり、わかりやすい。

★4年前の書評で私は次のように述べている。(要旨)
・・<生きた時間帯><存在した場所>これら二つの”時空軸”が何であれ、人間が生まれ死ぬ間に自己を突き詰め発したコトバに潜む真理は普遍だ。
  20世紀後半以降の技術進歩で生活速度感は速まる一方で、死に至るスピードは遅くなり続けているから、疲れる時間は長引き、先が見えないもどかしさも長大になってきた。 

  見渡せば、世の殆どの人の人生の過ごし方/パターンは政治・ビジネス・趣味・スポーツ、何にせよ【闘争/競争】の中に”生き甲斐”や”存在証明”を求めている。
  然し、闘いや競争に明け暮れるからこそ、民は【生の虚無と死】を茫漠ではあっても、感じないわけではない。
   そこで【生の虚無と死】に心が向き、苦しみ続ける人々も増える。 それでも自裁に赴かなかった人は何かを表現しようと必死にあがく。では表現手段に何を選ぶか?
   <A> 表現の共時性は無いが物理的空間に残って消えない<書画・塑像/彫刻・建築> 
   <B> 録音/録画や文字になっても表現の瞬間が時空ともに残らない<文学・音楽・演劇・映画>
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 <A><B>どちらも問われるのは、表現したいコトが【知性の死】【表現者の生と死】の域に達するまで深まったのか?であり、容赦なく天賦の才の有無も関わるから辛い。
 アクセス記録で想像される年齢層を考えれば、たぶん読者の皆様も私と同様の自問自答をおもちだろうし、日々様々な活動をされているのでは?と思う。 思えば私のこの4年は
「何かを表現し、残そうとあがく4年」だった。この「あがき」は息絶えるまで続く。『死から目を反らさず親和的に生きた人ならば≪ 畢竟、死はひとつの生にすぎない ≫』と言いたいから。
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