静 夜 思

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【書評158】   日本人の戦争   ~ 作家の日記を読む ~  ドナルド・キーン・著   角地 幸男(訳)  文芸春秋文庫     2011年1月 初版

2022-07-31 19:39:43 | 書評
 本書は単行本・文庫版それぞれ違うタイミングで出版されたようだが、新潮社が<ドナルド・キーン著作集>全15巻にまとめたシリーズの第5巻前半に入っている。
後半には「昨日の戦地から」が収められているが、第5巻全体のタイトルに「日本人の戦争」が用いられているのは実に言い得て妙だ。

 何故なら、前半は戦中の作家が残した日記に描かれた”日本人の側からみた戦争”であるのに対し、後半は、キーン氏と同じ米海軍日本語通訳が遣り取りした手紙に描かれた
”日本人にとっての戦争・戦後”観察であり、その両側から、キーン氏は今を生きる日本人に『日本人の戦争』とは何だったのか? これからは? を問いかけているのだ。
その問いは、主観と客観どちらも並べて考えようとする西洋世界なら当たり前の姿勢であるが、キーン氏の日本・日本人への深い愛情なくして辿り着かなかったと思う。

 キーン氏が 『作家の日記を読む』で題材に挙げたのは、永井荷風・山田風太郎・高見順。荷風と山田が戦中日記で貫いた心情は、欧米植民地主義の犠牲となった哀れな
諸国を救う<アジアの救世主ニッポン!>としての大東亜戦争肯定だ。他方、高見順は<アカ>と睨まれて投獄経験を受けた身なので、特高警察や憲兵の目を畏れながら、
空襲から逃げまどいつつも、書き続けた日記を肌身離さず持ち歩いた。キーン氏の着眼は、戦前の知識人層の二極化を通してみる(日本人論)の一環でもある。

* 本書には二つポイントがある。一つは平安時代から続く「日記文学」の伝統から見た戦中作家の日記としての捉え方。あと一つは、日記が売れる作品だと戦後になって
  気づいた荷風が、戦中の原稿<永井荷風日記(東部書房)>から<断腸亭日乗(岩波書店)>で再発行するに際し、相当程度に文言・表現を書き直した事実。
  キーン氏は幾つかの書き直し箇所を例示しているが、それは率直に言うなら「改竄」と言われても妥当なほどの変更だ。他方、高見・山田どちらも一切改竄していない。
  それは山田の<戦中派不戦日記>をみれば一目瞭然である。 このあたりをキーン氏は忖度したのか? ”知識人の変節”或は”頽廃”とも言わず、読者に解釈を委ねている。

 気づけば国民が国家第一の全体主義に絡めとられてしまいかねない今、軍国主義一色の社会で誰がどのように(たとえ内心だけでも)叫び・抵抗したのかを知るのは
 とても大事だ。その意味からも「昨日の戦地から」とセットで読み、現在に続く日本人の思考・行動に潜む宿痾ともいうべき魔性を考え直したい。     < 了 >
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 某夜 居酒屋『やまと』にて 

2022-07-31 10:50:31 | トーク・ネットTalk Net
池田:おう、岸さん、佐藤さん。お久しぶり! どうですか、天国2丁目の住み心地は? 長らくのご無沙汰で。
佐藤:ホント、ご無沙汰でしたな。池田さん、住みご心地満点で、私は楽しんでますよ。岸さんはどうです?
岸 :ええ、私は皆さんよりお先に失礼したので1丁目住まいですが、吉田茂先生の御顔を拝見することもありますから、楽しくやってます。

佐藤:おう、吉田先生といえば、何でも安倍晋太郎君のセガレ、名前は度忘れしたが、可哀そうな死に方をしたらしく吉田先生以来無かった「国葬」に付すとか言ってますな。
池田:そうそう。下界は賑やかなようです。私らが娑婆でやってた時から50年近く経っちまったんで、とんと疎くなりましたが、あのセガレはどう評価します?
佐藤:うむ、岸さんが日米安保に米国の日本防衛義務を呑ませたあと、田中君・安倍君が中共と国交回復して暫く安定したね。
池田:うん、だが、ほどなくしてソ連が潰れちゃったあとの混乱は予想外だったですね、私には。あれから30年くらいですかな?
岸 :ソ連がロシアに替わる頃から中共が強くなりだした。そこで安倍君のセガレはバランスとろうとしたんだろうね、プーチンと接近した。
佐藤:うん、そのバランス感覚は悪くないし、良い外交センスと言えなくもない。でも、相手がそんな素直なタマじゃないのを見抜けなかったのは甘いな。
岸 :結局、政治家はスポーツ選手と同様、結果がすべてなんで、可哀そうな死に方でも、成果ゼロでは褒めるわけにはいかん。・・・厳しすぎるかな、諸君?
池田:いや、御二人がおっしゃる通りですよ。セガレが強行した集団的自衛権の明文化は岸さんの時とは違う意味での日米安保の強化ですが、両刃の剣でもありますわな。
佐藤:アメリカが弱くなったんで台湾有事が絵空事じゃなくなってきた今、集団的自衛権は行使せざるを得なくなりました。でしょ? 拙かったなぁ。

佐藤:成果ゼロは内政でも同じでしょう。色んなスローガンはぶち上げたが・・・日本だけ経済成長できず、世界から取り残されてしまったのは事実ですからな。
岸 :一人当たり国民所得で何とシンガポールに抜かれ、賃金水準では韓国にもうすぐ追い越されてしまう「安い国」になってしまった、信じられん凋落ですな。
池田:円安で安い観光地となっただけじゃなく、不動産が中国の富裕層に買い占められる、もう見てられませんな。
佐藤:安倍晋太郎君には気の毒だが、総理を長く務めただけで「国葬」に値する成果・功績はあったのか?と少なからぬ数の国民が思うのは無理もありませんな。
岸 :それに私が不思議なのは、外国から弔意が多く寄せられている、というのが「国葬」の理由だと今の政権を預かる諸君が言っとるそうですが・・・。本当かな?
池田:佐藤さんは「国民葬」でしたな。「内閣・自民党合同葬」は、福田赳夫君・小渕君・鈴木君・橋本君・宮沢君、最後が中曽根君でしたかな。
佐藤:しかも、亡くなって直ぐじゃないものね。何を焦ってるのかな。・・ま、下界の事だからどうしようもないが、いやはや、呆れてしまいますな。
岸 :さあ、皆さん、ぼちぼち、お開きにしましょうか?  
 
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本当は『中華民国』と国名を名乗りたかった毛沢東 痛恨の悔やみ

2022-07-29 10:40:50 | トーク・ネットTalk Net
 私が定期購読する『週刊金曜日』2022.7.29.号に興味深い記事が出ている。 タイトルは≪ 習近平氏がめざす「偉大な領袖」 毛沢東は「建国の父」なのか (古谷浩一)≫。
その要点を紹介かたがた、習近平が呼ばれたがる呼称とは別次元で重要な「国名」「建国」「国父」といった概念などについて考えてみたい。

〇「領袖(りょうしゅう)」日本の歴史や社会では使われない。この中国語の英訳は?とみると(Leader)となっている。1949年の共産革命以降で「領袖」の呼称が付いた
 のは毛沢東ただ一人であり『偉大な領袖』と形容詞<偉大な>が付いている。「党の核心」なる呼称は(毛沢東・鄧小平・江沢民)の3人に次ぎ、2017年には習近平にも
 捧げられた。古谷氏によれば、今秋予定される共産党大会で「人民の領袖」という呼称が正式に使われるのではないか、との観測記事が報じられているらしい。
 『人民の』から『偉大な』までは後一息、という案配か?

* ところで中国語には今も昔も「建国の父」という語彙はなく、有るのは「国父」。それは現在も毛沢東ではなく孫文を指す。何故なら、清朝を打倒し中華民国を打ち立てた
  孫文こそが近代中国を生んだ父という認識なので、アメリカのワシントン、シンガポールのリー・クワン・ユーが呼ばれるFather of Nation に中国語では「国父」が
  相当する呼称なのだ。 そもそも10月1日を「国慶節」と呼び「建国記念日」とは1949年以来、いまも呼ばない。その理由が以下の本論である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 中国共産党軍が蒋介石の国民党軍を破り「中華人民共和国」の樹立を宣言したが、中国人はそれを「建国」と言わず、あくまでも中華民国を継承したとの立場を崩さない。
  日本は天皇家の支配確立時期あたりをもって「建国」と唱えているが、日本にも中国同様、「建国の父」はいない。
  これはアメリカやシンガポールのような人工的に建設された国家のような明解さとは無縁で、中国大陸の支配王朝の始まりも正確な時期は曖昧模糊なうえ、漢民族以外
  らしいので「建国」には触れたくあるまい。だから「国慶節」なのである。

  共産党政権は国連に加盟した際から現在まで<中華民国の継承者>を名乗り続けている。然し、最も噴飯モノな言い分は辛亥革命をめぐる習近平による位置づけだ。
   それは(自分たちは孫文の革命事業の最も揺るぎない支持者であり、誠実な協力者であり、継承者である)というもの。
   ・・・・・共産党の結成は1921年なのにどうやって1911年の辛亥革命の「協力者」だったのか?・・・という古谷氏の疑問を掲げておこう。

* 中国大陸の長い歴史の中で漢民族以外の王朝も含め、正式に自らが付けて名乗った「国名」は無かった。(China/支那)などは外国人がつけた呼び名に過ぎない。
  中華民国ができた直後の梁啓超がそれを嘆き、正式呼称(=国名ではない)として「中国」と付けたという。だから台湾に残った中華民国も含めた大きな概念として
  「ひとつの中国」にこだわり「台湾は中国の一部」と言い続けるのだ。「中華人民共和国の一部」では辛亥革命の継承者を名乗れない、自己矛盾に陥るからだ(笑)。


★ 1965年、仏共産党機関紙のインタヴューで毛沢東は「人生で失敗はありましたか?」の問いに「国名を中華人民共和国にするべきではなかった」と答えた。
  そうしていなければ共産党政権こそが孫文の功績を尊重したと訴えられるし、台湾の国民党政権は中華民国の正当性を失った筈、それにあとから気づいたわけだ。
   1991年、台湾の李登輝総統(当時)は語ったという;『毛沢東の最大の遺憾事は国名を変えたこと。若し中華民国と呼ばれるのを望んでいたら私達は大変だった』

 ⇒ ごく素直にみれば、台湾に居を構えた「中華民国」と「中華人民共和国」は政治体制・価値観が異なる国家なので、どちらかを自分の一部だと強弁する事が無理では?
   それは「台湾が中国から独立する」とは誰も言っておらず、体制が違う中華民国として併存すること自体は「支配下からの独立」でも何でもない?
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 「安倍氏の劇的な死」への同情に乗じ 法令上はできない『国葬』を手続き無視で強行したい政府  その非を唱えないメディアと言論界の頽廃

2022-07-29 08:59:53 | 時評
◇ 読者が過去に書いた「時評」のうち、どういう内容を読者がレヴューされているかは<アクセスされたページ>で毎日上がってくる。
 それは直近の話題や事件・社会の動向等に関して私が取り上げているテーマと類似のものが多い。
 2018年9月21日付【≪新潮45の” 炎上商法 ”≫ネット普及&劇場型社会&ビジネスとして;メディアが逃れ得ない宿命:一時的社会現象ではなく『知の衰退』の危機感を】
 を再録し、民主党政権失敗で復帰した安倍内閣以来強まったマス・メディアの萎縮と知的衰退に重ね合わせたい。・・・此の指摘から既に4年も経っている!

 安倍元首相暗殺事件以降、露骨になった国葬挙式案をめぐる法治国家を自ら否定するかのような政府の強硬姿勢は、右傾メディアとSNS世論の助けを利用するものゆえ、
 私は看過できない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
△  静かな反抗に支持 「売れ線、動かぬ」の声も https://mainichi.jp/articles/20180921/k00/00m/040/008000c?fm=mnm
▲ “右寄り”に活路 「部数減で炎上商法」指摘も https://mainichi.jp/articles/20180921/k00/00m/040/081000c?fm=mnm
  本件の登場プレイヤーは、(1)性差別発言を意図的に繰り返す自民党女性議員、彼女に代表される差別必要悪論者 (2)「思想の自由」を盾に差別発言を擁護し続け、言わせる集団、
 (3)出版や電波を通し国家第一や民族主義鼓舞の論陣を張る評論家/作家と称する一群<例:櫻井よし子、百田尚樹など>、 
 (4)ネットで手軽に出来る扇動的物言いを楽しみ、話題作りにさえ参加できれば日々の存在価値を少しは得たと感じる大衆、何でもいいから名を残したい人、これら4者だ。 

・ (1)~(3)の背景は、2000年以降の連合政権による混迷や民主党の失敗による政治不信増幅にあり、中国の資本主義転換+ソ連解体後の精神的支柱を失った反保守勢力の凋落と呼応して、
   「民主」や「人権」を問うことを嫌う(1)(2)(3)が共に影響力を増してきた現実である。 産経・読売両新聞社が売上げを伸ばしてきた背景も同じ。
・ (4)の出現は、インターネット技術と電子端末の進化が結びついた「日頃の政治活動を経なくても参加できるSNS固有の発言」で社会参加した気にさせてくれる舞台があるので、
   選挙を通じた代議制民主政治そのものを無意味と思う非投票世代が着実に増えている証拠だ。

・ (4)は(1)(2)(3)の結果ではないが、偶然同じタイミングで発生した技術革新と結びついている。然し、注目すべきは、(1)から(3)の主張に共通する民族主義情緒、
   エモーショナルな扇動に乗りやすい性向で、ネット上の興奮を楽しむ人々が結びつきやすい。 何よりも、論理的な分析や多様な角度の意見や観方に照らし合わせてからでないと
   安易に発言/発表しない態度と(4)は全く無縁だ。・・・いわゆる<ネット炎上>というのは、この態度を敢えて執らない相手への発信でなくば起こせない。

米 本ブログを読んで戴いている読者にこういう解析は「今更なにを・・」だろうが、新潮社に限らず、何処の国でも出版社は、様々な人が思惟を重ねたうえで思う所を
  世に問う場を提供する媒体として読者に向き合う、そこに存在意義はある。速報性に第一義的価値を競うニュース報道媒体との峻別もそこにある。  
  いや、或る筈だと言い直そう。

米 記事に引用されている多くの人が指摘するとおり、広く文化芸術に関わる大手出版社として長く信頼を得て来た新潮社が敢えて意図的に(1)~(3)勢力側に回り、
  売り上げ至上主義に走ったと見做される行動に出た。 河出書房のように倒産を選ばず、新潮社がこういう行動に出た。これが日本の言論界に意味するのは何か? 
  ここに私は国家主義に傾く世論の危うさと通底する恐ろしさを感じないわけにはゆかない。 
   私の危機感はここにある。 此の”知的営為への軽侮”は、既に在る社会全体の知的退廃を加速している。

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≪ 安 倍 氏を 国 葬 にす るこ と が 今 後 の 日 本 に も た ら す こ と は 何 ? ≫

2022-07-27 18:52:23 | 時評
* 此の件にまつわる報道記事で、奇妙な二つが眼に留まったのでお伝えし、ともに意味を考えたい。詳細は引用しない。
  ≪1≫ 安倍氏の国葬中止しなければ子供誘拐・・ 各地の自治体に脅迫メール  
  ≪2≫ 【「吉田氏・国葬」の記憶=与良正男】
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
≪1≫は容易に想像できるとおり、一般的なSNS経由ではなく市役所へ直接宛てたメールなので、SNSにありがちな悪戯気分ではなく、政治的意思が十分込められている。
  市役所に脅しをかける効果云々ではなく、公の機関(市役所)に「反安倍」の意思表示を公然と投げる。そこが単なる悪ふざけ・お調子乗りとも少し違うのだ。
  これは「国民の間に安倍氏は国家で弔うに値するのか? 疑問があるうちは、それを決めるのは選挙結果だけではないだろう?」の意思表明である。

≪2≫与良氏の趣旨を掻い摘んで言うなら、次の段落に象徴される。
  ・・当時、小学4年生だった私にも、その記憶は鮮明に残っている。威張るような話ではない。それは、テレビではいつも見ていた歌番組などが休止され、吉田氏をしのぶ
  特別番組と荘厳なクラシック音楽を流す番組ばかりだった。。という記憶なのである。子供だから吉田氏に関する知識はなかった。だが「大半の番組が変わるほど偉い人
   だったんだ」と感じたのはよく覚えている。
   ← そう、そこなのだ。子供は大人社会の雰囲気で、理由もなく「偉い人だったからこういう葬式なんだな」と刷り込まれてしまい、疑うひとは少ない。
    政府が国葬にすることで若い世代に刷り込もうとするのは、まさに此の1点だ。王国時代に王様の葬式を大々的に行う効果、それを21世紀の今も狙う?

★ 神奈川県大磯町の自宅から吉田氏の遺骨が運ばれる実況に始まり、日本武道館(東京都千代田区)での国葬中継のほか、特番や追悼演奏会が深夜まで続いていた。
  テレビ各局は「葬儀の前後、国葬にふさわしくないと思われるドラマ、歌謡ショー、CMなどはやめることを決めた」とも事前に新聞で報じられていた。
  ← 恥ずかしながら、私はうっすらどころか与良さんの記憶に及ばない。佐藤栄作がノーベル平和賞だって? もう、そこから高校生の私はシラケていた。

 松野博一官房長官は「国民一般に喪に服することを求めるものではない」と言う。そもそも国葬に関する法律はない。国民の間にも反対論があることにも配慮するのは
 当然だろう。同時にその姿勢が問われるのは私たちマスコミの報道である
 <産経・読売・日経>vs<朝日・毎日・東京>と続く分断で、英知ではなく、目先のポピュリズムに左右される付和雷同社会を私は心から憂いている・・・。
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