本書は単行本・文庫版それぞれ違うタイミングで出版されたようだが、新潮社が<ドナルド・キーン著作集>全15巻にまとめたシリーズの第5巻前半に入っている。
後半には「昨日の戦地から」が収められているが、第5巻全体のタイトルに「日本人の戦争」が用いられているのは実に言い得て妙だ。
何故なら、前半は戦中の作家が残した日記に描かれた”日本人の側からみた戦争”であるのに対し、後半は、キーン氏と同じ米海軍日本語通訳が遣り取りした手紙に描かれた
”日本人にとっての戦争・戦後”観察であり、その両側から、キーン氏は今を生きる日本人に『日本人の戦争』とは何だったのか? これからは? を問いかけているのだ。
その問いは、主観と客観どちらも並べて考えようとする西洋世界なら当たり前の姿勢であるが、キーン氏の日本・日本人への深い愛情なくして辿り着かなかったと思う。
キーン氏が 『作家の日記を読む』で題材に挙げたのは、永井荷風・山田風太郎・高見順。荷風と山田が戦中日記で貫いた心情は、欧米植民地主義の犠牲となった哀れな
諸国を救う<アジアの救世主ニッポン!>としての大東亜戦争肯定だ。他方、高見順は<アカ>と睨まれて投獄経験を受けた身なので、特高警察や憲兵の目を畏れながら、
空襲から逃げまどいつつも、書き続けた日記を肌身離さず持ち歩いた。キーン氏の着眼は、戦前の知識人層の二極化を通してみる(日本人論)の一環でもある。
* 本書には二つポイントがある。一つは平安時代から続く「日記文学」の伝統から見た戦中作家の日記としての捉え方。あと一つは、日記が売れる作品だと戦後になって
気づいた荷風が、戦中の原稿<永井荷風日記(東部書房)>から<断腸亭日乗(岩波書店)>で再発行するに際し、相当程度に文言・表現を書き直した事実。
キーン氏は幾つかの書き直し箇所を例示しているが、それは率直に言うなら「改竄」と言われても妥当なほどの変更だ。他方、高見・山田どちらも一切改竄していない。
それは山田の<戦中派不戦日記>をみれば一目瞭然である。 このあたりをキーン氏は忖度したのか? ”知識人の変節”或は”頽廃”とも言わず、読者に解釈を委ねている。
気づけば国民が国家第一の全体主義に絡めとられてしまいかねない今、軍国主義一色の社会で誰がどのように(たとえ内心だけでも)叫び・抵抗したのかを知るのは
とても大事だ。その意味からも「昨日の戦地から」とセットで読み、現在に続く日本人の思考・行動に潜む宿痾ともいうべき魔性を考え直したい。 < 了 >
後半には「昨日の戦地から」が収められているが、第5巻全体のタイトルに「日本人の戦争」が用いられているのは実に言い得て妙だ。
何故なら、前半は戦中の作家が残した日記に描かれた”日本人の側からみた戦争”であるのに対し、後半は、キーン氏と同じ米海軍日本語通訳が遣り取りした手紙に描かれた
”日本人にとっての戦争・戦後”観察であり、その両側から、キーン氏は今を生きる日本人に『日本人の戦争』とは何だったのか? これからは? を問いかけているのだ。
その問いは、主観と客観どちらも並べて考えようとする西洋世界なら当たり前の姿勢であるが、キーン氏の日本・日本人への深い愛情なくして辿り着かなかったと思う。
キーン氏が 『作家の日記を読む』で題材に挙げたのは、永井荷風・山田風太郎・高見順。荷風と山田が戦中日記で貫いた心情は、欧米植民地主義の犠牲となった哀れな
諸国を救う<アジアの救世主ニッポン!>としての大東亜戦争肯定だ。他方、高見順は<アカ>と睨まれて投獄経験を受けた身なので、特高警察や憲兵の目を畏れながら、
空襲から逃げまどいつつも、書き続けた日記を肌身離さず持ち歩いた。キーン氏の着眼は、戦前の知識人層の二極化を通してみる(日本人論)の一環でもある。
* 本書には二つポイントがある。一つは平安時代から続く「日記文学」の伝統から見た戦中作家の日記としての捉え方。あと一つは、日記が売れる作品だと戦後になって
気づいた荷風が、戦中の原稿<永井荷風日記(東部書房)>から<断腸亭日乗(岩波書店)>で再発行するに際し、相当程度に文言・表現を書き直した事実。
キーン氏は幾つかの書き直し箇所を例示しているが、それは率直に言うなら「改竄」と言われても妥当なほどの変更だ。他方、高見・山田どちらも一切改竄していない。
それは山田の<戦中派不戦日記>をみれば一目瞭然である。 このあたりをキーン氏は忖度したのか? ”知識人の変節”或は”頽廃”とも言わず、読者に解釈を委ねている。
気づけば国民が国家第一の全体主義に絡めとられてしまいかねない今、軍国主義一色の社会で誰がどのように(たとえ内心だけでも)叫び・抵抗したのかを知るのは
とても大事だ。その意味からも「昨日の戦地から」とセットで読み、現在に続く日本人の思考・行動に潜む宿痾ともいうべき魔性を考え直したい。 < 了 >