静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

中学校の昼食時間に『君が代』を流した放送部生徒に「ふさわしくない」と教師が指導 ・・何が「ふさわしくない」と説明したのか? 無言で黙殺か?

2023-05-31 09:35:26 | 時評
◆ 以下はOBS大分放送のWeb記事から
1) 大分市にある中学校で昼食の時間中、生徒3人が校内放送で国歌『君が代』を流したところ、教師が「ふさわしくない」と指導。その後、3人のうち1人が体調不良を訴え、
   学校側が早退させていたことがわかりました。

2)この学校では昼食の時間中、普段ポップ系の音楽を生徒が選んで流していて、この日は放送時間が余ったため、生徒の判断で『君が代』を使用したということです。
  学校側は「生徒が悪ふざけで『君が代』を流したわけではないと思われるが、昼食の時間はふさわしくない。教師の指導も適切だった」と説明しています。
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 このやり取りから、実に色々な疑問と教育現場の実相が見えてくる。
A 教師が「ふさわしくない」と止めた心理は何? <” 国歌 ”を昼飯時に流すとは不敬だ>から? 教育委員会から日頃言われている天皇・皇室タブーを思い出したのかな?
B <時間が余ったから>君が代を流した? ポップス音楽と差し替えて流した生徒にとって” 君が代 ”はどういうものだろうか? ここは掘り下げると色々出てくるだろう。
C 学校側の統一見解として<生徒が悪ふざけで『君が代』を流したわけではないと思われるが>と、判断する根拠は何? ぜひ聞かせて貰いたい部分だ。
  <悪ふざけではないだろうから>赦す? ということは<悪ふざけで” 君が代 ”は扱う対象ではないから>と暗に言っている。ならばA.を裏付けてるのかな?
D <生徒の一人が急に体調不良を訴え早退させた>というのも不自然極まりない。・・強く叱責? ビンタでも張られたか?
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  例えば ” 君が代 ”ではなく『軍艦マーチ』を生徒が流したのなら先生はどう対応した? 或いは、何も対応無し? 恐らく『星条旗よ永遠なれ』なら、何も言うまい?  
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≪ 難民ではないとの判断 何を根拠に?  一人で審査を そんなに捌ききれるものかな? ≫ 個人の恣意でよいのか?

2023-05-30 20:08:20 | トーク・ネットTalk Net
◇◆ 日本でゆらぐ難民保護の原則=和田浩明(毎日・川崎支局)
* 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の予測では、2023年の難民や国内避難民は1億1720万人で史上最多の更新が想定されている。日本の総人口1億2450万人
 (23年5月1日現在)とさして変わらない。気候変動が進行し資源をめぐる国家間の緊張が続く中、今後も増えこそすれ減らないだろう。
  法務省・出入国在留管理庁(入管庁)が提出し、参議院で審議中の出入国管理及び難民認定法(入管法)の改定案によって、寄る辺なき人々を危険な場所に追い返さない
 という「ノン・ルフールマン原則」が、日本も加盟する難民条約の大黒柱なのだ。その柱がいま、日本で揺れている。

1) 法案には、難民認定申請が3回目以降の人については、「相当の理由」を示せない限り、強制送還を可能にする、という条文が含まれる
  政府側は「保護すべき者を確実に保護しつつ、ルールに違反した者には厳正に対処できる制度とするために必須」と強調する。
   現行制度では申請中は強制送還が停止されるため、乱用が多いというわけだ。 【疑義1】← 現行制度を「乱用」しているとの判定は誰がどの基準で下すのか?

2) 難民申請者の中に難民はほとんどいない、という「難民審査参与員」の意見も、立法事実(法案の必要性)に関する政府の説明で繰り返されてきた。
 【疑義2】← 「難民は殆どいない」とみなす根拠は公開されているのか? 当人たちの訴え内容と対比されているのか?言語の壁は乗り超えているのか?


3) 参与員は、難民認定申請が却下された人が不服申し立てをした場合に、3人1組で審査し意見を出す。学識経験者などから法相が任命し、今年5月16日現在、111人いる。
  申請者にとっては、自らの生殺与奪の権を握る人々の一人と言える。

   5月25日の参院法務委員会での入管法案審議では、参与員である柳瀬房子さん(74)が21年は6741件中1378件、22年は4740件中1231件と、約20~25%担当していた
  ことが入管庁が同委員会に提出した資料で判明した。両年の勤務日数はそれぞれ34日、32日だったというから、連日40件前後を審査していたことになる。
   一方、全国難民弁護団連絡会議(全難連)が日本弁護士連合会推薦の審査員経験者10人に聞いたところでは、年平均36・3件だった。
 【疑義3】←111人中の僅か一人で全体の20-25%を処理することの異常さ! それを異常と敢えて認めない筋書きは? 柳瀬氏以外の参与員は何をしてたのだ?
      法務省に取り特定の個人の偏った観方・判断で片づける事を放置する狙いは? それは、プロセスはどうでもよいから難民認定を増やさないことだ。


4)柳瀬氏は毎日新聞の取材に「おかしな数字ではない」「一人でも多くを難民として救いたいという気持ちで審査には常に全力を尽くしている」などと答えた。
 【疑義4】← 柳瀬氏個人の誠意とか奮闘ぶりが認定作業全体の不透明性・偏向の懸念を帳消しにするものではない。

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 命の危険を感じて母国を逃れた人たちが求めるのは何か。この20年ほどの間に、中東やアフリカ、米国、そして日本でも話を聞いた難民たちの言うことは、ほぼ同じだった。「帰りたい」。しかし、帰れないのだ。迫害され、投獄され、拷問され、犯され、殺されるかもしれず、家族も生活の基盤も今生きる場所にしかないから。
「命に関わる問題だから帰れない」。 (和田氏)

 外国で働き場所を得て故国よりラクな生活をしたい・・メキシコからアメリカへ入ろうとする人たちのように、豊かそうな外国へ潜り込もうとする人も中にはいるだろう。
だが、今の日本は貧しさから逃れるための楽園ではなくなっている。もう自惚れはやめよう!賃金が安い国となり、東南アジア諸国からでさえ仕送りに夢を繋ぐ人は減る一方。出稼ぎ狙いの人達と難民申請する人々の区別もできないなら審査する資格は無い。
  「相当の理由」の定義とは? 逃げてきた人に迫害を受けた証拠を出せと求める事自体が、既に悪質で巧妙な門前払いでしかない。
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≪ 北 日 本 の 旅 ≫ 5   岩手県花巻市: 宮沢賢治を訪ねて 

2023-05-28 08:24:59 | 旅行
 岩手県が生んだ文人や学者では、宮沢賢治と共に石川啄木・野村胡堂・金田一京助が私の脳裏に昇る。岩手生れではないが「遠野物語」等で民俗学の扉を開いた柳田國男も
東北地方に日本の原風景を観た一人。昨日尋ねた寺山修司を、太宰治や棟方志功を追って登場した戦後の青森が生んだ傑物とするなら、宮沢賢治(1896-1933)はどう位置づけたら良いか? 
 啄木(1886-1912)は盛岡市の生まれだが賢治は花巻市生まれ。年齢も離れ、二人が顔を合わせたという記録はない。共通点は啄木が存命中の1909年、賢治は同じ県立盛岡中学校に入学した事。然し、啄木と同期生で行内雑誌の編集仲間だった野村胡堂と対比しても、賢治の活動の幅広さは啄木や胡堂とは比べ物にならず、それは寺山の多才さとも通じる。それが今回の旅で寺山と宮沢を選ぶ動機となった。

 多能で幅広い活動と言えど、寺山と宮沢の関心領域は大きく異なる。先に述べたが、寺山は詩作から演劇・映画に至る全てが「言葉の発信」でカヴァーする表現行動だった。
言葉で自分や世界を語り、描写する言葉を心の奥底にある闇へ投げ続けた、といおうか。一方、宮沢の行動は寺山のような嘆きや叫びではなく、訥々と紡ぎだす糸が言葉になり「科学知識の探求」「文芸・音楽の実践」「宇宙観の追及」「仏教と基督教を対比する探求」「農業の実地指導」と実に広い範囲に向けられた。私も含め、多くの人が宮沢といえば『アメニモマケズ』『セロひきゴーシュ』『銀河鉄道の夜』しか咄嗟に思い浮かべないが、記念館の展示は多岐にわたる関心と実践をよく伝えており、目を見開かされた。
 余談だが、宮沢が演奏を習ったというチェロとヴァイオリンの現物が展示されていたのには微笑んでしまった。
                         
これは上に挙げた「文芸・音楽の実践」に相当する関心分野を記念館が(芸術:Art)と題してまとめたパネル。写真が不鮮明で残念だが、同じ形式で他の4領域の展示もあり、私は感心した。家庭や時代環境が異なるうえ表現媒体や対象は違っても、投射範囲と活動領域の大きさで、宮沢と寺山は似ており、魅力的な人物だ。
  戦前・戦後を通して稀な存在であり、ほとばしった才能の豊かさは羨むばかりだが、二人とも夭逝した。宮沢37歳、寺山48歳。。【天は二物を与えず】  < 了 >
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≪ 北 日 本 の 旅 ≫ 4   青森県三沢市: 寺山修司を訪ねて 

2023-05-27 08:36:25 | 旅行
 苫小牧港をフェリーが出航するのは23:59。何故この深夜に出航を設定したのか? と考えたが、ひとつ前の便が21:15(発)で八戸(着)は翌朝04:45とある。
これだと車両を持たぬ徒歩客は不便だから?「いやいや、答えになっていないな・・・」などとムニャムニャ呟きながら狭い個室に入る。
・・部屋が狭いことよりも、ベッドの幅が肩幅ギリギリなのには参った。これじゃ船が大きく揺れたら床に落ちるのでは? 無様な姿を思い描いたが、予想通りというべきか、眠りに就いたと思うとすぐ、縦揺れ/横揺れが感じられる。だが、幸い?疲労のお蔭で揺り籠になり?何とか眠れたようだ。

 目覚めたのが6時半頃。洗面場に通じる通路を歩いていると船窓から右に薄青い陸が見え、雪を頂く高い山が綺麗に見えた。(写真左)
              
 八戸港も快晴に覆われ、ターミナルビルよりも大きそうな船が背後に写る。(写真中央)苫小牧より更に静かな朝の港を出るバスでJR本八戸経由、三沢まで「青い森鉄道」。
意外にも三沢駅のホームからも同じ山並みが遠望でき、思わずパチリ!(写真右) 地図で確かめると、フェリーの船窓から見た山並みは三沢市から西に約40Kmにある
(八甲田連峰)だ。此のあと三沢からタクシーで20分走り、空軍基地の北にある『寺山修司記念館』へ。其の車中からも、雪の山並みは切れ目なく見え隠れしていた。
 唯ひとつ、ジェット戦闘機が轟音をまき散らし、およそ30分から1時間間隔ほどで青空を飛び交う。この頻度には、改めて北方の守りを意識づけられる。

 タクシーに帰りの予約をしたうえで記念館へ。今年で没後40年を迎えた寺山修司(1935-1983)。60年代に青春期を過ごした者なら、寺山氏の多才・多面的な言語表現活動を記憶していよう。(詩人・歌人・小説家・劇作家・演出家・映画脚本家・劇団主催者・写真家)と自称したとおり、言葉を媒体にあらゆる自己表現で眩しく輝いた。

 記念館の展示で印象に残るのは、父をセレベス島で亡くして青森から三沢へ母と共に転居。母が生活の為、米軍基地で働いたこともあってか、国民学校では転校生苛めに逢いながら耐え忍んだ日々だ。母が米軍キャンプ勤めで福岡へ移ったため、青森の大叔父宅で中学・高校と過ごす。父母無き少年の俳句・短歌・不定型詩による叫び・呟きは高校生の頃から磨かれ、短歌研究新人賞を18歳で受けたのが彼の創作者人生のスタートとなった。 下の写真3葉は記念館の外と内。 
               

 寺山修司を一言で言い表すなら≪ アリバイつくりのため闇に言葉を投げ続ける ≫とでも言おうか。承知のように、寺山が早稲田に入学して以降発表した短歌は、歌壇の重鎮
(中村草田男/楠本憲吉など)から批判を受けるが、寺山氏本人には馬耳東風であったろう。展示のポイントでもある「手紙魔」とは、言葉を発し続けねば居られなかった寂しき少年の生涯に亘る叫び声であり、記念館が40周年記念企画として設けたタイトル【魂のキャッチボール】は、父母と自己の魂とのキャッチボールだと想えば腑に落ちる。
或いは、妻や友人に求め続けたキャッチボールであったかも知れない。
 晩年、寺山氏は4歳年長の谷川俊太郎氏(1931-)と交遊する。谷川氏がモーッアルト好きで言葉と音楽の繋がりを意識していたのに対し、寺山氏の関心領域に音楽は含まれて
いたのか?と私に疑問が。展示物や説明を読む限り、表現としての音楽全般への言及が殆どないからだ。谷川氏が寺山氏について書いた部分でも音楽に関する話題は記憶に無い。今でいうパラサイトのまま大学にも進まず詩人デヴューした谷川氏は寺山氏と出自や境遇は全く異なるが、不思議に両者は認め合っていた。実に不可思議だが、面白い。
 
 帰路、再び冠雪の八甲田をタクシーの窓から眺め、八戸に戻ると盛岡経由で新花巻へ。相変わらず青空は澄み渡り、宮沢賢治記念館にタクシーで向かう。 < つづく >
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≪ 北 日 本 の 旅 ≫ 3   北海道白老(しらおい)町: 『史跡・白老仙台藩陣屋跡』

2023-05-26 15:13:21 | 旅行
『アイヌ民族共生象徴空間』からJR白老駅に戻り、案内パンフで興味を魅かれた史跡の資料館(写真左)へ行ってみた。(交通量が少ないせいか、町営バスは小気味よく
飛ばす!) 資料館が建つ辺りは武士達の居住スペースだった場所で、南側に高い土塁を築いた曲輪(くるわ)内部は公園になっている。

19世紀に入り盛んになったロシア・アメリカ・イギリスなどの交易及び開港要求に備え、実効支配するのは松前藩領しか無かった蝦夷地の守りを固めるべく、江戸幕府は
幕末の1855年、東北6藩(秋田・庄内・南部・津軽・仙台・会津)に分割警衛を命じた(写真中央)。ピンク色が仙台藩の担当範囲で、管轄面積は最大だ。
因みに、明治政府が分けた北海道の行政区画は、この6藩分割が基本になっているように思える。
 白老に140名から成る仙台藩の本陣が置かれ、エトロフ・クナシリほか厚岸・根室・広尾(十勝)に駐屯分署を置いた。これが明治政府の屯田兵制度の先例となったのだろう。

6藩体制は1860-61年頃出来上がったが、設営開始から維新まで僅か12年。然も仙台藩は奥羽列藩同盟に加わった為、三好監物(けんもつ)はじめ駐屯した武士達に還るべき
故郷は亡く、酷寒の地での任務は悲劇の結末を迎える。屯田兵は東北諸藩出身者を中心に招集されたと聞くが、歴史の大きな変わり目に翻弄された人々の無念を想像すると、
私は暗鬱たる心地になった。
                  
 白老から苫小牧へ戻り、深夜のフェリー出航まで、ターミナルビル内で独酌。明るい陽射しが夕焼けを帯び、静かな港風景(写真右)を楽しむ。     < つづく >
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