静夜思

愁多酒雖少 酒傾愁不来

書評 074-5止 「 クアトロ・ラガッツィ 4人の少年たち 」  若桑 みどり(わかくわ みどり)著   2003.10 刊 集英社 

2018-01-16 10:24:04 | 書評
                                    【3】 少年使節派遣が遺したもの
 「遺したもの」と題したが、それは、少年使節が<派遣前後の日本史に何を遺したか><ローマ教皇庁側に何を与え、遺したのか>・・の両面から見る必要がある。
結論として、前者は悲観的なことしか言えないだろう。つまり、秀吉に始まる宣教師の国外追放と布教活動地の閉鎖、江戸幕府初期の信徒迫害は完膚なきまでに目的を達した。それは異教の根絶に留まらない。信長が一度は垣間見せた野望、即ち、国家神道と仏教勢力の両輪を破壊し、日本を支配する奈良朝以来の構造を変えようとした試みを秀吉も家康も捨て、武家政権が従来どおりの統治機構を踏襲したという点だ。これは明治維新においても受け継がれたこと、其の近現代史上の意味合いに我々は気づかねばならない。
 更に言うなら、1945年の敗戦でも廃絶されなかった天皇制は、マッカーサー元帥の打算から同じく生き残った国家神道とタイアップし、太古以来の統治構造を今日現在も続けており、我々はその中で2018年を生きているのだ。

 後者はというと、少年使節派遣を企画・実行したイタリア人・ヴァリニャ-ノの言葉に先ず耳を傾けよう。これも著者が調べ上げたローマ教皇庁向け報告書から丹念に拾われており、
  ヴァリニャ-ノには次の3つの派遣目的があったと紹介している。
 1) 信徒の数を更に増やすには不足している宣教師の増派と財政支援をローマから得るため、極東の島国日本での布教成果を使節を使って誇示する。
 2) キリスト教が支配する国々の富と栄光を日本人に見せ、帰国した日本人自身の口から語らせることで、布教効率を上げる。
 3) 遠い地の果て・・極東の日本から「王」の名代がわざわざ教皇に会いに来たことをもって、ローマ教皇庁の威信を高める。
前節までに述べた16世紀後半の日本で起きた権力闘争の結末が、キリスト布教の終焉と信徒弾圧に終わった歴史を知る読者はおわかりのとおり、ヴァリニャ-ノの立てた目的の1)2)は失敗に帰した。 少年使節が帰国した日本で、彼らの見聞に耳を貸す者は誰も居なくなっていたからだ。

一方、目的の3)である、宗教改革後、勢力争いが激烈になった対プロテスタント派への反撃効果は有ったと、当時も今も評価されたと著者は観ている。いわば、カトリック側の広告塔として少年使節は利用されたわけだが、1)でヴァリニャ-ノが望んだ物心両面での援助は殆んど実行されなかったというから、遠い異国で布教活動に励んでいたイエズス会宣教師たちの絶望感は筆舌を超えたものだった。 本書の終盤は弾圧と殉教の有り様を追っている。私は寡聞にして知らなかったが、この16世紀末から17世紀前半にかけたキリスト教弾圧と殉教者の規模は世界史上、最大/最悪だそうだ。 ”天草の乱”は其の際たる出来事だった。 私は其の惨状をここに繰り返す必要を認めない。

                                  【4】 む す び
 本稿を閉めるにあたり、私の興味を惹いた叙述を最後に紹介したい。
一つは、宣教師たちが関心を寄せたという茶道との関わり合いだ。著者によれば、「茶の精神」の中核とされる<和敬静寂><主客一如>に、宣教師たちは<万物の創造主の下に信仰者が一体化する姿>を見て取った、という。 もうひとつ私には合点がゆかなかった説明だ、とだけ言っておく。

 もう一つは、最初の方で少し触れた『世界の4大発明』が16世紀以後の西洋世界を飛躍的に変えた、その具体的な中身だ。即ち、<グーテンベルクの印刷術>は<紙>の大量生産と呼応し、<東洋における植物性紙漉き技術>と<木版印刷>と比べて質・量とも凌駕したため、知識の大衆への開放において圧倒的な差がついた。これが市民国家への伏線だ。
 次の<火薬の発達>だが、元々火薬の発見と利用はモンゴル占領下の元時代に始まったものながら、シルクロードを経てヨーロッパ世界に伝わると、ドイツで発火効率と安全性が飛躍的に改良された。加えて火薬は小型化され、大砲から「銃」への転用が可能になった。これが意味するのは、槍や刀による戦闘から銃撃戦に戦術が劇的に変化し、馬に跨る騎士は無用の長物となったことである。 なるほど戦国時代の日本でも銃が戦闘の様式を変えたのは同じ。だが、徳川の太平の世250年は、武器の改良発達をもたらさなかった。幕末の黒船が示威した火薬並びに砲術における彼我の差、これは痛々しいほどだ。太刀に武士道精神を重ねるマインドセットが災いしたことも否定できまい。203高地露軍機関銃に抜刀突撃する悲惨な姿を想起せよ。
 そして最後は<羅針盤の改良>。これまた中国人は俺たちが最初だと胸を張るものだが、明に鄭和が西洋より百年以上も早く東アフリカまで遠征しているにも関わらず、明王朝の衰退につれ航海は中止され、羅針盤技術は眠ってしまう。 学んだ西洋ではポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスと遠洋航海技術が伝播拡張し、植民地造りに結びつく。

 色々な観点からみて、16世紀とは西洋世界が中東を含む東洋との地位を逆転させ優位に立った分岐点だった。少年使節の派遣前後の戦国日本における異文化交流の収束と鎖国。
250年の平和と停滞。変わらぬ支配統治構造からみる現代日本との繋がり、などなど。とても私には示唆に富む書籍であった。                 < お わ り >
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書評 074-4 「 クアトロ・ラガッツィ 4人の少年たち 」  若桑 みどり(わかくわ みどり)著   2003.10 刊 集英社 

2018-01-14 11:41:16 | 書評
                                 【2】 少年使節派遣と信長暗殺  <1>
 フロイスら宣教師一行が信長に謁見し、しかも天台宗上人・日乗との宗教論争に勝利したことで、布教許可だけでなく九州北部のキリシタン大名の加護にも拍車がかかったと見える。
其の現れが長崎の町と港一帯の事実上の支配権を大村領主から与えられた事実で、それは1580~87年まで続いた。支配権とは布教の自由のみならず、マカオ/ゴアなどとの貿易管理、教会や神学校建設の自由も含まれた。これだけを見るとイエズス会の布教活動は順風満帆に映るが、実は此の8年の間に日本の歴史を大きく左右する大事件が立て続けに起きている。

 いま一度、信長とイエズス会の接触から整理すると、信長の3度に及ぶ謁見は1569年のこと。本能寺の変と呼ばれる謀反が1582年であるから、其の間およそ13年。朝廷や足利将軍の名によるキリシタン布教禁止令を無視した信長の布教許可が謁見後に出されたのが同じ1569年だから、イエズス会が妨害を受けずに活動できたのは13年だ。表面上は1587年のバテレン追放令(秀吉)まで宣教活動はできたのだが、積極的庇護という観点からすれば、僅か13年。
 ここで注意したいのは、「天正の遣欧使節」の呼称で教科書には出てくる4少年使節一行が信長暗殺の2~3ヶ月前に日本を出ている時間差である。何とも言いようのない”歴史の皮肉”とでも呼ぶべき偶然で、イエズス会そして後から日本へやってきたフランシスコ会、オランダ・イギリスなど欧州諸国の日本進出は、信長暗殺を以て暗転した。

 周知のように、草履取りの身分に始まり、秀吉は信長存命中すべてを側近として親分の言動をつぶさに見て来た。異教徒の持ち込んだ文物だけでなく様々な活動が日本に及ぼしつつある影響、将軍職と信長の関係、朝廷と武家の関係といった最も本質的な点については注意深く観察していたに違いない。 家康も然り。
 前節でも触れたが、奈良朝以来、仏教勢力と神道/天皇家の融合が武家支配の開始にも関わらず亡びることなく続いている現実を誰よりも熟知していたのは、信長に代表される戦国期を生きた有力武将であった。信長の一向一揆弾圧や比叡山・石川本願寺焼き討ちなどは、まさしく朝廷と組んだ仏教勢力滅亡の企てと解釈された。
 おまけに、本能寺の変の前日、公家数人が信長に挨拶のため本能寺を訪れた際、信長は『暦の変更』を申し入れている。欣明天皇以来、暦の採用と制定は天皇の専権事項だったから、此の申し出は朝廷無視の極みであり、信長暗殺の十分な動機をまたひとつ加えた格好になる。

 身近で高山右近へ信徒が寄せる人望ぶりがイヤでも目に入る。北九州でもキリシタン大名が信徒の結束力を得ている。其の風景を目の当たりにした秀吉は、仏教徒勢力との血みどろの争闘経験が蘇り、宗教信徒全般がもつ不気味な恐ろしさを再び想起したのではないか。その恐怖は貿易がもたらす利益をも吹き飛ばすものであったろう。全国統一に立ちはだかる島津氏を討ち、九州平定を果たすまではキリシタン大名を手なづけておかねばならないが、其の後は却ってキリシタン勢力が邪魔どころか敵対的存在になろうとの予感を秀吉は持ったと思われる。 此の推論を若桑氏以外にも掲げているのか不勉強にして知らないが、ごく自然な推理だと思う。 
 それに輪をかけたというか、秀吉のキリシタン弾圧を決定付けた出来事と著者が指摘するのは、イエズス会宣教師コエリヨが犯した取り返しのつかないミスだ。即ち、焼け落ちた石川本願寺の跡に新装なった大坂城でフロイスとコエリヨが秀吉に謁見した際、朝鮮から明への遠征プランを語る秀吉に取り入りたい一心からか、コエリヨは九州平定にキリシタン大名の動員並びに大砲/武器/弾薬の調達までヨーロッパから可能だと自慢したのだ。これは秀吉の猜疑心を弾圧へと傾けさせた、と著者は語る。この致命的ミスが1586年、ついに秀吉は1587年に「伴天連(バテレン)追放令」を発布し、上に述べた長崎における布教活動とイエズス会の自治的活動が禁止されてゆく。拷問と殉教の始まりだ。

 こうした16世紀の政局に信長が及ぼした影響、そして信長亡き後にキリスト教布教活動が時々の支配者からどう受け取られたかを抑えておかないと、秀吉の追放令から家康の禁令に受け継がれたキリスト教弾圧史27年の背景は正確に見えてこない。
 この禁教と弾圧は、いうまでもなく日本という国がヨーロッパ世界から自らをシャットアウトすることで、大きな変化を回避して戦乱の200年に幕を下ろした功績をもたらした一方、西欧において教会或いは王権による中央集権封建支配から市民国家統治へ変化が起きた歴史からも隔絶した負の側面を招いた。この自らを閉じ込めた事は、植民地化をインドほど早く招かった中国も含め、アジア・東洋世界の政治・科学・文化全般における遅れを作った。 
 これらの変化が起きた日本を知らぬまま4人は長い航海の途上にあった。 次節では、訪問先に残る記録から、使節を迎えた側の視点で派遣の意義を通覧してみる。< つづく >
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書評 074-3「 クアトロ・ラガッツィ 4人の少年たち 」  若桑 みどり(わかくわ みどり)著   2003.10 刊 集英社 

2018-01-13 13:53:18 | 書評
                            【1】 ザビエル上陸から信長の登場まで  <2>
承前。  当時の「王」と見做した信長の庇護と布教許可を得ようと、イエズス会は九州から大坂の堺を経て、京に上り安土城でフロイス一行が信長に謁見した。 これが第1回目で、2度目と3度目は二条城で会っている。此の際の会話を、若桑氏は宣教師がローマへ送った報告書から丁寧に拾っている。日本側にいっさい史料はないので、極めて貴重な内容である。
 フロイスが残した報告から重要なポイントを挙げるなら、信長はヨーロッパのことを根掘り葉掘り聞きだし、いつか自分も海外制覇に乗り出すのだとの気持ちを読まれている。側近だった秀吉が信長の言葉に感化されたことは此の遣り取りからも立証されるであろう。信長にとり、宣教師は情報源でしかない。それは秀吉/家康も同じ。
 そして最も重要なことは、信長はフロイスに面と向かい「予はお前たちの神を信じない。 日本の神も仏もだ」と言ったことだ。

 この言葉は単に信長が無神論者だったこと以上に、前節<1>第3段落で述べた図式『仏教伝来時に成功した”神仏習合”で、仏教と神道が手に手を取って天皇支配を支えていく』支配構造への挑戦であり否定と解釈されるに十分で決定的な言葉ではあるまいか? つまり、宗教論争などどうでもよい朝廷にとり、信長は国家の敵と見做されたということだ。一向一揆や比叡山の徹底的な破壊と殺戮は、無類の冷血さで全ての人を恐れさせ、大名のみならず天皇家/公卿たちは朝廷の廃止すら現実になる? と恐怖したに違いない。
 ここに、信長のパワハラを恨んだ明智光秀を抱き込んだ策謀がうごめき、”本能寺の変”という名の叛乱を成功させた、というのが著者の推理。 私は説得性があるように思う。

 長く私は、鎌倉以降の武家支配の間、あるいは明治維新も含め、どうして有名無実の名誉職に落ちぶれた天皇が消されず残されたのか不思議でならなかった。チカラだけで言えば武将たちは天下統一後、天皇家を廃嫡しても何ら支配に実害はなかったと思う。 どうだろう?  確かに神社を舞台とする土俗信仰は定着していたが、天皇が居なくなってもアニミズム信仰は続き、神道も仏教も存続しただろう。天皇制消滅は起きてしまえば、武家の政治的支配に何ら影響は無かったのではなかろうか?  もう<歴史の if >に過ぎないが・・・・。< つづく >
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書評 074-2 「 クアトロ・ラガッツィ 4人の少年たち 」  若桑 みどり(わかくわ みどり)著   2003.10 刊 集英社 

2018-01-12 13:57:13 | 書評
                                  【1】 ザビエル上陸から信長の登場まで  <1>
 スペイン人のフランシスコ・ハビエル(ポルトガル語読みでザビエル)はポルトガル王の要請でインドのゴアに派遣された。ザビエルは既に足場ができていた中国南部ではなく、日本布教を目指し、薩摩半島坊津に上陸。1549年のことだ。 
 当時の薩摩藩主からは布教の許可を得たものの、仏僧側の反発と敵意に会い、京の都へ上り、国王と目された後奈良天皇ならびに将軍足利義輝に謁見を乞うた。だが、どちらも果たせなかった。会えなかった理由として、身なりが質素且つ貢物(=手土産)を持たなかった為とされる。これはキリスト教を奉じる宣教師の当時のライフスタイルからすれば当然な振る舞いだったが、当時の日本の為政者にとり外国人とは珍しい物品をもたらしてくれるべき存在でしかない。 古墳時代の昔から、モノではなく文化とは中国/朝鮮経由で入るものと決まっていた日本のそれまでの歴史を思えば、これまた頷ける反応だった。 だから、宗教などというものが中国や天竺(=インド)以外の国からやって来るなんて、”あり得ないこと”だったに違いない。

 想えば、古くは渤海に始まり隋/唐へ人を送り文物を取り入れた9世紀までの経験は、同じ黄色人種内の東洋文明世界であり、気候風土は海洋性の日本列島と異なるものの、いわば自分たちの延長線上に偉大な文明と進んだ国家が大陸にあった。遣唐使廃止後もなお、戦国の世でさえ仏教を介した大陸との接触は続いていた。 此の異文化遭遇ショックが単なる物品だけなら日本史における意味合いは少ない。 だが、宗教という存在の根幹に触れるモノを南蛮人が持ち込んだことで、日本社会は揺さぶられたのである。
 
 宗教学を学んだ方には常識であるが、仏教徒がキリスト教に敵対した根本理由は、来世救済では共通しながらも仏教の「輪廻思想」をキリスト教が否定したうえ、唯心論に立つ仏教の汎神論をも否定したことにある。 超越的造物主として「God」を掲げ、アミニズムを否定するキリスト教の立場は神道信者の反発も招き、これが仏教徒と組んだ朝廷による排斥を呼んだのだ。
 中桑氏は天皇の有する権威を構成する3要素を挙げる、即ち<宮廷儀礼の主宰><官位の授与><元号の制定>。朝廷がこれらの権威を得た背景には、奈良朝このかた仏教が国家鎮護の柱と位置付けられつつ、仏教伝来時に成功した”神仏習合”で、仏教と神道が手に手を取って天皇支配を支えていく基盤となっていたことがある。平安期の終わりから武家支配が始まっても、「征夷大将軍」の形式で武士のトップが朝廷から官位を授けられる構造は変わらなかった。ここが日本で長く2元支配構造の続いた源泉である。然も、13~14世紀の蒙古襲来は、儒教/仏教を共有する中国ではない異教徒による侵略だったから、<異人から国を守るイコール天皇を守る>図式ができてしまった。仏僧との宗派論争よりも、異教徒すなわち国の敵という同じ図式が16世紀にも当てはめられたのでは? というのが若桑氏の推論である。 同感だ。

 ところで、新しい宗教に加え、日本人は(水夫だったインド人も含め)観たことも無い風貌で聞いたことも無い言語を喋る人間が東洋人以外に存在することを知った。一方のザビエルは西洋人として初めて日本人/当時の日本という国を観た。此のあたりは互いにカルチャーショックだったわけだが、来日前にインドや中国の土を踏んでいたザビエルは、日本人をインド人・中国人或いは他のアジア人と比較する視野を持っていたのに対し、日本人の方は何もかも初めて尽くしだった。この個人単位ではない”集団としての巨大な異文化遭遇”、それが16世紀の真ん中に、国中が戦乱に明け暮れていた日本で起きたのである。
 此の遭遇に際し、キリシタンに改宗した大名や高級武士でさえ、国の統治構造における異教徒勢力の扱い、または活用の仕方について貿易の効用以外に深く考えていたとは言い難い。 
ところが織田信長ひとり、単に貿易による利益や武器調達メリットを飛び越え、イエズス会組織の活用を真剣に練っていた、と著者はみる。だからこそ信長は安土城にフロイスらを接見し、自分の眼で異教徒/異人を見極め、布教の許しを与えたのだ。然も、此の頃、朝廷/将軍ともに禁教令を発していたのに全く無視するやりくちが、後の『本能寺の変』を生んでゆく、とは著者の卓見だ。 
 このあたりの経緯も、著者は「信長記」だけでなくローマ教皇庁への報告文書を紐解いている。  非常に興味深い展開が待っている。     < つづく >
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書評 074-1 「 クアトロ・ラガッツィ 4人の少年たち 」  若桑 みどり(わかくわ みどり)著   2003.10 刊 集英社 

2018-01-11 11:16:02 | 書評
                                      【 解 題 】
 本書は「天正の少年4使節」として知られる日本イエズス会による使節派遣の前後から徳川の鎖国令までの歴史を追うノンフィクションである。16世紀は西欧が中世から近代に乗り出す激変の時代だ。『四大発明』と称される<印刷技術/紙の大量生産/火薬の進化/羅針盤の進化>は宗教改革による教皇や王権による絶対支配崩壊と大航海時代をもたらした。その典型である南蛮船渡来とキリスト教布教活動を拒否、鎖国に至った日本の権力者(秀吉/家康)のお蔭で、日本は中国同様、西洋世界に水を大きくあけられる結果になった、という指摘である。
 <中央集権封建体制に閉じこもり続けた東洋 vs 封建権力からの自由獲得で市民社会に進んだ西欧>この違いに発し現在に至る様々な文明/文化/社会統治における西欧との落差こそ、16世紀日本権力者(朝廷も含め)たちが冒した誤りの報いだと著者はいう。 全くそのとおりである。 中央集権は今も日本では続いている!!

 著者は1935年生まれ。東京芸大美術学部からローマ大学に留学、爾来、イタリア美術の研究に。2007年に亡くなったので、文字通り本書が遺作である。
ローマ・ヴァティカン・ゴア・マカオそして日本に残る史料を8年間に亙り調べ上げたうえでのライフワークだ。本職とは無縁なテーマを選んだところに著者なりに日本の現状を強く憂う感情が容易に見て取れる。たぶん、それが15年前の作品ながら、再び取り上げられた所以かもしれない。
 虚構を排することに徹したと著者は何度も本文中で語っている。さりながら冷たいノンフィクションタッチではなく、面白いのは、史料の不備や登場人物による誤謬/誤魔化し/すり替えに いちいち著者が自分の声でコメントや私的怒りを差し挟みながら進めて行く点だ。例えば、吉村昭・沢木耕太郎といったノンフィクション作家に、そういう筆致は無い。

 此の本の存在を何で知ったかというと、ひと月前くらいの新聞書評欄だった。然し、発刊が2003年だから新刊書の紹介ではない。何故いま取り上げたのか、評者の説明を正確には忘れたが、それは本書を読み進むうち理解できた。 2004年、大佛次郎賞を獲得している。
 本書の規模だが、2段組で1頁当たり1,242文字、つまり400字詰原稿用紙換算で3枚。(目次+本文+後書きまで)520頁だから、原稿用紙およそ1,600枚近くに相当する大作である。近代化への対応以外にも大事なテーマ、或いは論点は実に多彩であり、私の書評も従って相応に長くなりそうだが、ご容赦願いたい。
 第1から8章まである。逐いち追いかけての書評形式はとらず、主な論点と私が捉えた部分について、或いは印象深いものについてのみ 紹介かたがた述べてゆく。  < つづく >
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