静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ 今朝の3題 ≫  震災復興描けるか?2020東京五輪映画  

2018-10-30 08:40:01 | トーク・ネットTalk Net
1) 「復興」の映像=玉木研二 https://mainichi.jp/articles/20181030/ddm/003/070/044000c?fm=mnm
・ 五輪映画が国家威信の高揚をはかりたい国家主義者や政治家に利用されてきた歴史はオリンピックの歴史でもある。ヒットラーに起用されたレニ・リーフェンシュタール監督の
  「オリンピア(1936年)/ベルリン大会」が顕著だ。 東京五輪(1964年)での市川崑監督がその苦い歴史を頭に入れたうえで制作したが、当時の自民党政府要人は不快だった。
・ さて、玉木氏は監督就任の決まった河瀬直美氏に期待をかけるが、現下の保守国粋派が有力な政権下、どこまで彼女が存在希薄な「復興」を盛り込めるのか?
 ⇒ 福島原発破壊からの復興がままならない現状を、どう描くのか? 2020年時点での政治状況次第になるのか?

2) <入管法改正案>自民部会了承も左右が挟撃 道険しく https://mainichi.jp/articles/20181030/k00/00m/010/122000c?fm=mnm
・ 改正に慎重または反対の立場が指摘する受け入れ態勢整備に関する諸問題、確かにそのとおりだが、ここで私の根本的疑問を再び掲げる。
 ⇒ 「移民受け容れへの政策転換なら反対する」との主張、これには野党勢力も含まれるようだが、どうして<移民を受け入れる事>そのものを拒否するの? 根拠は?

3) 平成あと半年/上(その2止) 「事前公表、伝統破壊だ」 保守派「天皇の元号」死守 https://mainichi.jp/articles/20181030/ddm/003/040/032000c?fm=mnm
・ 「元号」と天皇制度を巡る論争、これを外国の人から眺めると 恐らく「何を争っているのだろう?元号がなくても王制を続けている国々は有るのに、どうして日本人は拘るの?」
  ということだろう。 日本国籍を背負って生まれ育った私だが、同感である。
 
天皇制そのものを国民大多数が支持し、存続に反対していない現状で、何故ここまで「元号」そのものに天皇制との意義づけをしたがるのか? 
 答えは、やはり、明治憲法下で定めた天皇制国家を帰るべき姿と理屈抜きに信じる情動、これなんだろうな。
   では此の情動そのものを国民のどれほどが支持するのだろうか? 「あれば便利」「なくても不自由・不都合は無い」というのが本音では???
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 落語 ≪ 桂やまと ≫ 独演会を聴いて 10月28日@日暮里サニーホール    将来有望な名人候補ではないか?

2018-10-29 09:39:24 | 文芸批評
 誘われて久しぶりの落語、然も寄席ではなく独演会なので食指が動いた。誘われるまで「桂やまと」の名前もを知らなかったくらいなので、マネージャーを務める奥様はじめ関係者には
 悪いが、正直あまり期待していなかった。だが、将来性というか、伸びしろというのか、器の大きさを感じさせた。真打に昇進して4年の若干44歳というので、これからが楽しみだな
 というのが率直な所感である。  こういう肯定的な印象を持った了解に立ち、以下、素直に私なりに評価を述べたい。 演目は次の2題。◇ 「井戸の茶碗」  ◆ 「百年目」

◇ 「井戸の茶碗」  
  これは様々な噺家が演じて来た。それらに比べ、素人評価ながら大きく見劣りしないと感じた。だが、”彼でないと出せない味がある”領域までは未だ達していない?
◆ 「百年目」
  これまた江戸人情話であるが、「井戸」よりも完成度が低いな、というのが私の第一印象だった。 何故そう感じたのか? 帰りの電車の車中であれこれ考えると、以下のような
  私なりのまとめになったので披露したい。

 * 申すまでもなく落語という話芸を特徴づける要素は実にたくさんあり、複雑に絡み合っている。 複雑さ/難しさは、とても講談の比ではないと私は思っている。
   <声色の使い分け><各人物ごとの表情使い分け><ストーリー展開の間合い><登場人物の仕草><聞かせ処での間の取り方><くすぐり><枕の自然さ>
   <最終落ちフレーズへのもって行き方/リズム/声の高低>などか。

☆彡 私の所感を上に挙げた要素に照らすと、桂やまとの場合、今少し物足りないのが ①<声色の使い分け>および②<ストーリー展開の間合い>である。
   ① 声色;これは、音程の高い低いの使い分けに加え、しゃがれ声か(若々しい/女の)声か、話す速さの使い分け、間の取り方などなど多くの要素を一瞬のうちに使いこなすスキル
    であり才能だろう。 桂やまとの場合、話すスピードが自身の年齢もあってか、速い一点張りで、「商家の旦那」「武士」などを演じる際、速度の落とし方が不足している。
  ② 間合い;これは必ずしも声色の使い分け不足だけの影響ではなかろうが、複合的に解決して欲しい点だ。彼ならここはこなしてゆくだろうと期待する。 蛇足だが、
     彼は東京育ちらしいが、妙に江戸弁を前に押し出そうとしないのが好ましい。江戸弁によりかかるのは上方落語が大坂弁に固執するのに似て、時には嫌みなモノだ。

 逆に彼の才能が光るのは<各人物ごとの表情使い分け><登場人物の仕草><聞かせ処での間の取り方><くすぐり><枕の自然さ>だ。とりわけ、落語家にとり表情の使い分けや
 仕草は努力だけでは不十分で、持って生まれた顔つきや体格に左右される面が大きいだろうから、この点で「彼は天賦の顔にも恵まれている、さぞかし親に感謝してるだろう」と私は
 彼の顔を眺めながら思った。
  上に述べた若干の伸びしろ/改善点を遥かに上回る才能を彼は確かに持っている。真面目で努力家であるのはにじみ出ており、将来の名人有望候補だと私は素直に感じた。

* 最後に、これは全ての噺家に共通するが、最後の締めくくりに当たる『落ち』へのいざない方、あれは何とか一工夫できないものか?  
   つまり、最後のセリフで演題全体を示唆する『落とし』が、其のセリフ廻しの巧拙だけでなく、お辞儀をして笑いながら「~でございますから」などと言いつつ締める、
  あのパターンが、私には昔からわざとらしく、どうも物足りない。 そう感じるのが私だけなら 致し方ないが・・・・。
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≪ 今朝の2題 ≫  心貧しき銭ゲバぶりを暴露した高級住宅地住民たち      安倍首相の軽率で危うい 外交浮かれ

2018-10-28 08:21:28 | トーク・ネットTalk Net
1) <東京・南青山>児童相談相は迷惑施設か? 住民「資産価値下がる」 https://mainichi.jp/articles/20181028/k00/00m/040/037000c?fm=mnm
2) 『余禄』ヨーロッパ映画「少年と自転車」(2011年)は… https://mainichi.jp/articles/20181028/ddm/001/070/072000c?fm=mnm

 両記事は奇しくも、上流意識で人生を幸せだと思って暮らす人達の多くが抱く「あらゆる差別への無理解」「経済力だけで人生価値を測って憚らない優越感」を露骨に表わしており、
 勝ち組固有の醜い生きざまを天下に晒した。
・ でも考えてみれば、産業/都市廃棄物処理施設、原発廃棄物処理関連施設、少年鑑別所、自衛隊や米軍基地などが自分の周囲に建設/移設されるのを拒否する有権者と同列にみえる。
  ・・見えるが、これらが悪臭や騒音・事故災害の物理的リスクを伴うのに対し、児童相談所の場合、「触法少年の徘徊」などというのは言い訳に過ぎないほど軽微な可能性に過ぎず、
  拒否の本音は実体のない<土地ブランドイメージへの悪影響>でしかない。これが傷ついて困るわけは”土地資産成金と老後保障+パラサイト提供”が崩れるからに他ならない。   
     ああ、田中角栄のもたらした災い、土地があぶくゼニになるという魔法で人心を卑しめてしまった罪は、誠に重いと言わざるを得ない。


3) 日中首脳会談:安倍首相の「3原則」波紋 外務省は否定 https://mainichi.jp/articles/20181028/k00/00m/010/087000c?fm=mnm
・ 此の記事を読まれた方は等しく感じたのではと想像するが、外国トップとの会談で「~原則」という語句を直接口にするには、事前のすり合わせが無ければ為すべきことではない。
・ 外務省が直後から火消しに慌てたところをみると、安倍首相は其のプロセスを飛ばし(忘れたのか?知らなかったのか?)軽率にも習近平に投げかけた。案の定、中国政府は
  唐突な「3原則」を公式に無視した。  下手すると、後日、「日本はあの時、こう言ったではないですか?」と逆手に取られるかも知れない、という想像力が欠如している。


 ⇒ 先のアジア東方フォーラムでは、プーチン露大統領がいきなり「今年中にでも領土案件抜きで平和条約を締結しないか?」と安倍首相に投げかけた。これは実は思い付きで
   言ったのではなく、ソ連時代から言っていた「領土交渉あとまわしでの平和条約締結」提案を蒸し返したに過ぎない。安倍首相の根回しなき「3原則」提唱とは種類が違うのだ。

 **  今更だが<個人的信頼関係の演出で外交を運ぶ>・・これはオールマイティではない。寧ろ稀有な幸運でしかない。 安倍晋三は、軽はずみにもここを勘違いしてないか? 
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≪ ”憂さ晴らし”の情動とネット言論について ≫  

2018-10-27 14:57:45 | トーク・ネットTalk Net
★  ”憂さ晴らし”・・これは誰でも時には誘惑を感じる情動だ。ムシャクシャの原因は千差万別だろうが、昨今のSNSが憂さ晴らしをしたい者に格好の武器となってしまった感がある。
   これを、経済格差の拡大による不満・鬱屈が背景にあるのだから当然であり ”憂さ晴らし”を「新しい時代の大衆言論だ」などと持て囃し利用する者も居る。
   
*  これまで大衆言論の場は新聞/雑誌の投稿欄であり、例え匿名の寄稿であっても、現代のSNS言論との決定的な違いは、筆を執って文章を練り、投函するまで手間がかかることだ。
    深く考えもせず言葉を書き殴りキーボードを押すだけで発信できる今のネット言論に比べ、其の知的作業の手間と時間は、一定のブレーキとなり、知的平均水準の維持にも
   貢献していたと思う。 早い話、僅か400字の原稿を書くだけでも如何に持てる思惟力と言語能力を推敲しつつ全脳力を動員せねばできないか、SNSブロガーには想像つくまい。

☆  今回も繰り返されている「解放された安田氏」への賛否応酬のうち、危険な地域へ敢えて乗り込む報道活動の重要性を尊重する賛成擁護の立場は何となく旗色が悪そうだ。
   本件については既に私の見解を述べてあるが、ざくっと言えば、価値観を巡る複数の視点と必要な論旨を熟考しながら組み立てる作業を避ける人は、感情的反応こそが真理を含む、 
   とでもいうが如く、一時のカタストロフィーを満足させているように見えてならない。
   中でも ”安田氏が過去にも拘束された経験者だから・・・”という切り口は、自由で民主的な社会におけるジャーナリズムの存在価値を巡る議論とは無縁の指摘だ。
   好い例が無謀な登山や山歩きで死亡する人、死なないが、捜索隊が動員され多大な費用を発生させる人。こういう人へも安田氏へと同列の非難が過去に浴びせられたか? 
    好んで危険な行動をした点では同じじゃないか?  山歩き/冬山登山を好む人々全てに 同じ非難を貴方は浴びせるか?  然も、登山/山歩きは仕事ではなく、趣味でしかない。

★☆ これを大きな絵でみると、SNSでの憂さ晴らしトークに潜む鬱屈感情は、<動機無き無差別殺人、通り魔、公共機関への妨害行為、建造物への悪戯/落書き、あおり運転>などと
   同系統の行為でもある。 表面の行為ではなく、行為を起こさせる情動において同じ系統ではないか? と私は言っている。

〇  勿論、これらの犯罪行為を実行してしまう人間における「やぶれかぶれ」「やけっぱち」「生きる幸福の喪失感」と同じ強さの感情をSNSトーカーが持ち合わせているとは必ずしも
   言えないだろう。あそこまでは行かないが、何となく、軽い気持ちで”参戦”して片時のゲーム的興奮を楽しむ。大多数のSNSトーカー、ブロガーのノリは是だろうと想像される。

  ⇒ 無論、こうした憂さ晴らし情動そのものを根絶する術など無いし、今後も無くなるまい。然し、社会格差が小さかった高度成長期でさえ同じ類の不可解な事件は有ったのだから、
    何でもかんでも経済格差の所為にするのは誤った不公正感を増大させるだけなので、止めたいものだ。
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≪ 安田氏解放をめぐるバッシングの愚かさよ ≫  自衛官・警察官の拘束・殉職だって「自己責任」ではないの?  自衛官/警察官も自らの職業選択だろ?

2018-10-26 08:52:51 | 時評
★ 拘束中「虐待続き心身疲弊」 「可能な限り説明する責任」 安田純平さん帰国 https://digital.asahi.com/articles/DA3S13740470.html?rm=150

・ 安田氏の解放から帰国まで、案の定というか、これまでの類似事件と同様、「自分の意思で行ったのだから」「救出に罹る費用は税金だぞ!」といったバッシングが早速出回っている。
・ 「自己責任論」を唱える人の論拠は<好んで危ない戦地へ赴いたのだから、リスク覚悟だったのだろう? そんな人が拘束されようが殺害されようが、税金を使ってまで助ける必要は
   ない>ということだろう。
 ⇒ 実際、私の身の回りでも、この耳障りの好い論旨を口にする人は居る。然し、この「自己責任論」に欠けている見落とせないポイントは次の2点だ。

 1) 政界の不祥事に限らず、相手を問わず戦乱・虐待など隠された悪行の現場に出かけ、真相を明るみに出そうとする精神、これが『ジャーナリスト魂』であり、悪事の当事者は
   当たり前ながら、それらの事実を否定したり、取材を妨害する。それでも使命感を感じる一握りの勇気ある人が危険を顧みず近づいてゆく。 
    これは古今東西同じであり、古くはスペイン内乱におけるゲルニカからヴェトナム・ソンミ虐殺、そして最近のアフリカ・中近東の紛争まで変わらない。 
    「自己責任だから死んでも勝手だ」と言い放つ人は、世界に貢献するジャーナリストの此の姿勢をも無価値だと断定するのに等しい。

 2) 私はヴェトナム戦争取材に出かけ命を落としたカメラマン・一ノ瀬泰造「地雷を踏んだらサヨウナラ」を思い起こす。今も鮮烈な記憶と涙がこみ上げるほどの感銘を忘れない。
   片や、イラク周辺で戦乱激しいおりに殉職した外務省職員、或はカンボジアで命を落とした警察官などなど・・。 このような人々は政府・公務員であったがゆえ”殉職となる。 
  だが安田氏も一ノ瀬氏も『自分の意思で行ったから』仮に死んでも”殉職”視されない。
 命令で仕方なく危ない任地へ行かされたのだから”殉職だ”との理屈だろう。
  では、尋ねる。・・まず、<官の命令>だから仕方ないが<民の意思>だから放っとけ、は【官尊民卑の肯定】だということにお気づきか? 危険な国家主義を許す道だぞ。
   
  次に、そもそも<自衛官/警察官も潜在的にリスク覚悟の職業であり、それを承知で自分の意思で選択>した筈だ。 其の点で、戦場ジャーナリストと諸君は何が違うのだ?
   戦場に近い自衛官や警察官は安全保障での貢献はしている。だが、ジャーナリスト達と同じ質の報道でも世界への貢献ができるのかい? 
 
* 国家安保への貢献と真相報道への貢献;この間に価値の差はあるのか? ・・・イデオロギーを離れて論証できるなら差別待遇を認めてもいいが、できゃすまい?。
    
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