静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ わたしにとっての平成30年 ≫   30年に及ぶ平成天皇の象徴天皇制具現化への試行錯誤から 国民は何を学んだか?

2018-12-27 06:52:10 | トーク・ネットTalk Net
 1988年1月8日、天皇制元号が昭和から平成に変えられた。来る2019年4月30日、予定通り天皇譲位で平成元号が終了した場合、30年と113日に亘る。
これは昭和の(64年)、明治の(45年)、応永の(35年)に次ぐ第4位の長さとなる。第5位は延暦の25年。 因みに「応永」は西暦1394~1428年、
「延暦」は782~806年。

ご承知のとおり、明治以前の江戸時代まで元号は<一世一元>ではなく、様々な理由づけで天皇の意思により変えられた事を思うと、明治以後の『皇室典範』で<一世一元>を定めた
意図は明白に政治的である。伊藤博文が明治憲法制定にあたり、欧州世界のキリスト教における「神=God」を持たぬヤマトにおける【絶対者】の存在として天皇を措定したのと呼応する。
 天変地異や色々な縁起担ぎなどでコロコロ元号が変えられた時代を生きた者に、恐らく明治以降の<元号=自分にとってもひと時代>という意識づけなどまるで無かったろう。
同じ天皇のもと、呼び名が不意に変えられるだけの事なので、個人個人の一生と結びつける動機は希薄だ。だからこそ、幕末を生きた尊王派にとり、来るべき天皇制国家では
国民の人生が時代意識で天皇と直結せねば天皇を頂く革命(=倒幕による明治維新)の意味は失せる。明治維新で天皇を担いだ意義づけもそこに見出したに違いない。
これが<一世一元>の編み出された背景だと思う。


その<一世一元>の仕組みで昭和天皇は在位したが敗戦で明治型国家の終焉を迎え、明治憲法の廃止で現行憲法における象徴天皇となる。若いうちに激しい環境変化に晒されたわけで、
恐らく昭和天皇自身は混乱/失意に苛まれ、新しい役割をどう演じたらよいのか苦悩したことだろう。それは察するに難くない。それを皇位継承者として注視していたのが平成天皇だ。
 平成天皇が編み出した戦跡慰霊の旅や被災地慰問の繰り返しは、父親であった昭和天皇のような国家主義下の君主ではなくなった「国民統合の象徴」の実体を必死に模索したものであり、
国民もそれに気づき、高く評価するようになった。これが天皇制からみる平成30年間であった。
 では、平成天皇自らが明治憲法精神の否定/払拭に努めた30年間、国民自身はどこまで軍国主義を招いた明治型国家主義に決別したはずの戦後を創り上げただろう? 
此の点で私は実に恥ずかしい。平成天皇夫婦に申し訳ないと感じているのだ。 平成天皇ほど国家主義の過去に学び、象徴天皇の意義追求で憲法精神の実践に努力した人はいまい。


 奇しくも高度成長/バブル経済に浮かれた後にやってきた時期は平成に替わった後でもあり、此の間、日本人は立ち止まって過去に学ぶどころか、右往左往しては成功体験を呼び戻そうと
あがいただけだった。経済優位の喪失が自信喪失になり、頭をもたげた銭ゲバ体質は理想や価値の追及を(ダサいこと)に貶めた。<成功体験よ、もう一度>がプライド回復と結びつけられ、「愛国」「クールジャパン」「取り戻せニッポン」といったスローガンが踊っている。明治型天皇制国家に戻れば失地回復でき、再び世界に雄飛できるニッポンになれるのでは?
などと夢見る集団心理が醸成されつつある。東京五輪/大阪万博などは単に景気浮揚以外に、こういう成功体験再起をも狙っており、滑稽ではすまない、危険な妄動だと私は感じている。 

皆さんはこのように感じないか? 過去から学ばない国民と政治家が<人権と民主という普遍の価値観>を羅針盤とせず、混迷する世界をキョロキョロ日和見的に泳ぐ毎日を良しとするか?
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≪ 見過ごせない 明治回帰へのあからさまな策動 ≫  道徳の教科導入は教育勅語復活の伏線  貴方はこれを許すのか?

2018-12-25 09:09:50 | 時評
 教育勅語復権へじわり 「今日にも通用」下村氏、局長答弁を変更か 【中川聡子/毎日:統合デジタル取材センター】 
  https://mainichi.jp/articles/20181224/k00/00m/010/124000c?fm=mnm
☆彡 これは毎日新聞の特集記事である。 第一次安倍内閣の時から一貫して自民党が画策し続けている一連の≪教育勅語に替わる国民精神の復活≫の流れを整理した内容だ。
  本件に今まで関心が薄かった人にも是非とも読んで戴きたい、との思いで紹介している。何故なら小学校/中学校に「道徳」が正式科目として導入される、その意図と中身について、
  いったいどれほどの国民、父兄、教員が考えているのか甚だ心もとないからだ。
   経緯を、おさらいしておこう。

<(安倍首相は)第1次政権で首相直属の「教育再生会議」を作り提案させたが、文科相の諮問機関「中央教育審議会」は「無理がある」と一蹴。第2次政権が発足するや
 「教育再生実行会議」を作り、2カ月後の13年2月に教科化を提言させた。問題の中教審は同月、メンバー30人の半数近い14人が入れ替えられ、そこには安倍首相に近い
 桜井よしこ氏が含まれている。中教審は14年10月、実行会議の提案した教科化を追認。今春に小学校で実施し、来春には中学校でも始まる。>

<短兵急な教科化の過程では「国や郷土を愛する態度」の点で検定意見がついた小学校道徳教科書で「パン屋」が「和菓子屋」に変わり、製パン業界が反発するなどの混乱もあった。>

※ <2018年10月に柴山昌彦文部科学相が「道徳に使えるという意味で普遍性がある」などと述べ、4年前にも当時の下村博文文科相が教材利用を容認した。
  文科相だった下村氏は2014年4月8日の参院文教委員会で、柴山氏とほぼ同様の答弁をした。その舞台裏を、当時同省の局長だった前川喜平氏が毎日新聞の取材に証言した。

  2014年4月8日の参院文教委員会で予定されていた「学校で教材利用すべきだ」という趣旨の質問に、前川氏は従来の見解、即ち、
  <教育勅語は軍国主義の精神的支柱だったとして国会で排除・失効が確認された。それ以来、文科省は学校で教材として利用するのは適切でないとの見解を取り続けてきた。>
  に基づく局長答弁を用意した。
   ところが、当日早朝の打ち合わせで下村氏から「今日にも通用する普遍的な内容が含まれ、この点に着目して教材使用は差し支えない」と書き直すよう命じられた。
  「大臣自ら局長答弁変更を指示するのは異例だが、従うしかなかった」と前川氏は振り返る。> 


 ← 貴方が組織に働く人なら、命令に逆らえなかった前川氏を責められますか? ・・・こうして自民党は憲法の精神を法案制定段階で捻じ曲げ、議席多数を恃んで変質させてきた。
  其のやりくちは今も変わりないことにお気づきだろうか?  これを良しとする人は一体この国をどういう国にしたいのだろう? 問うまでもない。明治憲法と同じ天皇制国家に
  戻したい、敗戦までの国家優先の社会に回帰したい、そういうことだろう。  国民が主人ではなくなり、国家が個人に命令/指示する社会に 貴方は戻りたいですか?? 
  
 以前も此のコラムで書いたが、人間として身に着けるべき基本道徳や倫理は成績評価の対象にしてはならず、間違っても愛国を含むべきではない。郷土愛イコール愛国ではないし、
 協調イコール集団主義ではいけないからだ。とかく『長い物には巻かれよ』が否定されず、個人をおろそかにしがちな歴史伝統が強い日本だからこそ、口を酸っぱくして言い続けねば
 簡単にこの国は『いつか来た道』に舞い戻ってしまう。  それは何が何でも止めなければいけない。。
 
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≪ 国際捕鯨委員会からの脱退決定 ≫  遅きに失したが 政府を断固支持する!  科学論理無き情緒だけの捕鯨反対国に付き合う必要はない

2018-12-20 14:52:50 | 時評
◆ 日本政府、国際捕鯨委脱退へ 商業捕鯨再開に向け https://mainichi.jp/articles/20181220/k00/00m/010/077000c?fm=mnm
・ <脱退後は南極海と太平洋で行っている調査捕鯨を中止する。世界的に批判されている公海での大規模な捕鯨から撤退する代わりに、来年にも日本の排他的経済水域(EEZ)で
  商業捕鯨を再開することで最終調整している>。
・ <日本政府は9月にブラジルで開かれたIWC総会で、資源が豊富な鯨種に限った商業捕鯨の再開などを提案したが、オーストラリアなどが「あらゆる形態の商業捕鯨やいわゆる
  『調査捕鯨』に断固反対する」と主張。政府は「IWCが異なる立場や意見の共存を受け入れないことが明らかになった」(吉川貴盛農相)として脱退を視野に対応を検討していた。>
 ※ デモス(=民衆)一人ひとりが異なる立場と意見をもつことを互いに尊重しあうということは、相手の文化まで抹殺否定しないこと、それがデモクラシー(=民主主義)だ、と
  言い始め世界に広めようとしてきたのは当の欧州人ではないか!! (アメリカ人もオーストラリア人も欧州人の末裔である)。


 ⇒ 捕鯨絶対反対を主張する諸国は資源管理からの科学的討議すら頭から拒否してきた、しかも30年の長きに亘ってだ。よくも辛抱してきたと褒める一方で、キリスト教的動物愛護
  活動の底に横たわる欺瞞性に一神教信仰の諸国民は日本の脱退を知り、気づくのか、何とも思わないのか? ・・無論、気づくどころか自分たちの傲慢な振る舞いに想いを馳せる事なぞ
  まずはあり得まい。

 ⇒ マグロ等において報復は予想される。だが、商業ベースへの養殖完全実用化を急いで、外洋に頼らなくても日本人が腹を満たせるだけの供給さえ沿岸で確保すれば恐れることは無い。
  それまで何年かかるか不明で不便は続くだろうだが、30年も耐え続けた理不尽から身を解き放つ自由を想えば、マグロ好きも我慢できる筈だ。
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書評 084-2〆  「哲学・宗教の授業」    佐藤 優 著  PHP研究所  2018年 10月 刊

2018-12-20 09:12:56 | 書評
昨日の<書評:084-1>の後半で、アメリカが物量にモノを言わせて『ナチスドイツ・ファッショイタリア・神道軍国日本』の三国同盟勢力を打ち破った結果、欧州に端を発した産業革命が
もたらした科学技術万能への反省や個人と国家の在り方への洞察が吹っ飛んでしまった、とする佐藤氏の指摘に触れた。

ここで見落とせないのは、戦勝国側に回ったソ連、共産中国も欧州型デモクラシーを採用しないイデオロギー主導体制であったため、アメリカが欧州になりかわり、戦後世界に向かって「善」「徳」を説教する”18世紀までの啓蒙主義”に回帰したとの指摘である。 ≪世界の警察官≫たらんと積極的に振る舞うアメリカは、ヴェトナムでの敗北を経ながら、ソ連の解体と中国の国家資本主義への変貌で啓蒙に自信を強め、パキスタン以西のイラン・中東全般へ介入を深めていく。 ← これが奇しくも<平成30年の世界史>だった。

 ところが、である。冷戦後のアラブ中東に生きる人々にとり、アメリカの”啓蒙”はユダヤ/キリスト教側からのお節介であり侵略と映る。然るに、一神教で生きて来なかった日本人は、
キリスト教以上にイスラム教について知識が無い。なぜイスラム教徒は自爆テロまで敢行してキリスト教と闘うのか?すら理解できない。理解できないので、現在も続く混乱を解きほぐす
視座を得られないまま、政治家も国民も右往左往している。
 
 家庭や学校で教えないので、成人しても「哲学」「宗教」の視点から自己と周囲、特に異文化を観る訓練がゼロなのだ。効率や損得実利だけを教え、「存在価値と理由を問う」思考訓練は
大学に至るまで見事に欠如している。所謂【リベラル・アーツ】と呼ばれる人文科学全般の基礎教養を高校/大学で教えないのが日本である。無論のこと、社会人になっても大多数の人が学ばない。・・その現状に警鐘を鳴らす、これが本書の解題であり、目的でもある。・・・異文化を学ばないできた社会が大量の外国人を住まわせようとしている。


★ 本書で最も私の蒙を啓いてくれたのは、キリスト教カトリック派の抱く世界戦略についての指摘だ(181-187頁)。要約すると、ヴァチカンに居るローマ教皇は、イスラム教徒過激派の
 採用したテロ作戦を封じ込めるには武力ではなく、イスラム諸国内部の穏健派ならびにキリスト教徒でない「無神論者」をも味方につけ、<内部から崩してゆく>戦略をとっている。
 戦後のヴァチカンが掲げた第一の目標は共産主義の撲滅だったが、これはソ連崩壊で計画よりも前倒しで実現した。次の目標はイスラム世界との争闘を消すことだ、と佐藤氏。
 トランプを選んだアメリカが介入を完全に止めたら、世界の混乱はどうなるのか?  ヴァチカンの戦略が功を奏すのだろうか???

★ 中国におけるカトリック司教の任命・人事権を巡る攻防。これに佐藤氏は注目し、これもヴァチカンの遠大な戦略だと位置づけて視るよう巻末で勧めている。報道ではヴァチカン側が
  譲歩したように聞こえるが、真相はどうなのか? 経済成長の観点ではなく、領土内に抱えるイスラム教徒の居住地域への影響、都市部でのキリスト教徒への浸透から中国の内部が
  どうなるのか? どうもならないのか?   大いに注目したい。 
                               < 了 >
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書評 084-1  「哲学・宗教の授業」    佐藤 優 著  PHP研究所  2018年 10月 刊

2018-12-19 23:44:59 | 書評
 本書は、過去から現代世界に至る国際政治の動静を宗教に起因する動機から解析するとどう見えてくるか? とりわけ、一神教が人々の行動に影響を及ぼし続ける世界での争いや
 駆け引きでこの200年余り世界史がどのように動いてきたか? という視点に立ち佐藤氏が筑波大学で行った全20回の講演録が基になっている。
  知られているように佐藤氏は同志社で神学を研究した後、外交官になった人。ふつうは経済力学の側面で国際政治を語るものだが、佐藤氏は指導者だけじゃなく一般民衆の抱く
 宗教観/神話ならびに日常行動の集積こそが、フランス革命から今に至るまで、一神教圏に属す国家集団の振る舞いを動かしてきた、とみる。 一方、日本を含む多神教(=非一神教)
文化圏は此の振る舞いの影響を受け取る側に過ぎないまま、泳いでいるだけだ。

 著述の意図・主眼は上に述べた流れだが、講演の前半は哲学と各宗教における「存在論」「認識論」比較を切り口に、我々は近代から現代に至った社会をどうとらえるべきかを
説いている。  前半で特に印象深く読んだのは、次の指摘だ。
 ≪フランス革命を19世紀の開始(神権から人権への移行)と置き、第一次大戦で19世紀は終わったとみる。然し第一次大戦後の欧州世界が共有した筈の近代科学技術偏重の生き様への
 反省がありながら、即ち<実利至上の情勢論=認識・存在論の軽視>への反省があったのに、其のアンチテーゼとして現れたファシズム(伊)とナショナリズム(独)の融合による
 揺れ戻しに抗する術を欧州人はもてなかった。 
  ところが欧州世界が共有した19世紀型発展への反省を共有しないまま遅れて工業化に成功したアメリカが物量で第二次大戦に勝利したことで、科学技術万能は蘇り、戦後の世界秩序は
 欧州世界が一度は抱いた<考える人々の世界>には戻らず、世界は思考停止状態に逆戻りした。 理念よりも実利が優先される思考形態で人が行動するようになり、七面倒くさい議論を
 避ける、言葉を軽んじる世の中になったのは当然の流れだろう。日本も無論その例外ではなく、昨今の不毛な精神状態が生み出す貧しい国民の知性を『阿呆の画廊』と著者は例える≫


「理想を語る前に明日のメシが先だ」との俗諺が大手を振ってあらゆる国で行動原理になりつつあるのではないか? それでは決して良い国にはならない、との危機感を国民がもたねば、
 其の国の住民は心貧しいままであろう。 今の日本はそういう目線で捉えると どうだ? 物質的な過不足をあげつらう前に、我々は心の底から迷わず「いいクニだ」と言えるか? 
 可笑しなことだらけなのに『何故?』と問い続けるのを放棄する国民。 これでいいのか?と自分の存在を問う習慣を捨てる人々の集まり。  
      < つづく > 
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