静夜思

愁多酒雖少 酒傾愁不来

Free Thinker (FT)

2014-05-31 09:55:04 | つぶやき
 
 Freethinker(FT) というのは基督教世界で”神”及びイエス・キリストの”復活”を信じない人を指す。
だが、私がFTにこめた意味は“復活”どころか、一切の超越存在を認めない意味でのFT。即ち、「一神論」
でも「汎神論」のどれでもなく、「超越者を戴かない自由」に生きようという意思を表している。
 ここでいう「超越者」とは、既存宗教の掲げる超越者だけでなく、自分をつき動かす内在的な信仰や
価値観自体も含む。<自己実現>とやらを生きる意味や働くことの意義づけに設定するのも、かような
価値観のひとつに過ぎない。

 今年の元旦を期してこのFTに想いを致したのは、残された人生を再びそのような「超越者」を追い求め、
すがって生きていく真似はしない、との決意でもある。

 釈迦が説いた原始仏教哲学、(縁起)(無)(空)の3つが、今の私を最も素直に納得させる。
後の人が大乗・小乗などと言う前の3つの教え、いや世界認識こそ、私にはすんなりくるのだ。
この3つを受け入れ、生きていくのは、「超越者を戴かない自由」に生きることであり、無論、極めて辛い
自由だ。が、私は自由の語義オリジナルどおりに生きたい。

 人生を囲炉裏に例え、私の今の心境を描こう。

 < 炉にくべるモノを自力で探し出し、盛大に炎を上げることが誇らしく嬉しかった壮年期。
  時には、思わぬ煙に涙を流したり、余りの熱に焼かれ、驚き、慌てたこともあったろう。
  だが、もはや夕暮れが迫り、薪を探すのもままならないのに、君はまだ、憑かれた如く燃えるものを
  探そうと、血眼で暗い外をうろつくのか? どうして、ゆるりと消えゆく炎を楽しまないのか?
  私はもう新たな薪を探しには出ない。有るだけの薪が燃え尽きるまで、炎を見つめる穏やかな時を
  大事にしたいのだ。 >
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書評 # 007 自立をすっ飛ばした文明開化の末路

2014-05-31 09:49:54 | 書評

* 夏目漱石「現代日本の文明開化」

 西洋科学技術の習得・発展が、富国強兵の必要に迫られた幕末以来、こんにちまでの日本を未だに
ドライヴし続ける姿。その挙句、荒廃した精神風土を招いた皮肉。人質の低下。教育/政治の迷走など、
現代日本社会の矛盾の原因を見事に予言しています。「考えることまで節約の対象と教えた教育」の
もたらす自業自得です。壊れゆく日本、亡国というフレーズが絵空事でない予感に私は怯えはじめて
います。

 理系教育偏重は、経済成長が唯一の救済策と今もしがみつく成功体験亡者が世を牛耳っているゆえ。
経済の拡大が心の救済・心の幸福と無縁な社会、それを看過する貧しい精神風土。これらは、「本当に
楽しいこと・しあわせとは何か?」を考えることは非金銭的価値について考えることだ、と教えない
教育につながっています。

 では、どうすれば非金銭的価値について考えさせる教育は公的に実現するのか?
例えば、宗教/道徳/倫理などについて考えさせさえすれば、こんな荒廃を打開する鍵になるか? 
ノー。宗教/イデオロギーと結びつけた国粋教育が精神風土を豊かにする鍵とならぬのは、戦前の日本や     今の中国が失敗の実例ですから、これも答えではない。

 薄々ながら、私が確信しつつある見解は、個の自立を促し、個あっての社会を前提にする社会構造への変革しかないというものです。何故なら、考えることを面倒くさがる情緒の根幹は家制度を含む他者への依存、及び長いものには巻かれろ精神ですから、「自立した個人と集団の厳しい緊張関係が支配する社会」に導かない限り、個々人が人生の価値を考える習慣は身につきそうにない。

 換言すると、全てが天然現象のように「~なる」社会ではなく、人間が「~する」社会へ移行せねば、
”誰かが考えてくれるさ、それが仕事だろ・・”と政治家・教育者に丸投げし、受動的に社会参加する性癖は消えません。 ← 昨今流行りの「~になります」式の断定忌避表現、これが好例ですね。

 この見地から、明治以来の中央集権的統治機構の解体と地方自立は、行政効率向上だけでなく、主権在民 意識教育の観点、民主主義の前進からも最重要課題だと私は考えます。天皇制を残しながらも、日本はもっと共和政治に接近できる筈です。確かにぬるま湯的な穏やかな社会でなくなり、欧米のような刺々しい社会、闘う社会になってゆくでしょう。(在米生活で私が最も辟易したのがこれで、帰国の動機のひとつでもありました。) 

 でも、世界が狭くなり、闘う個人が当然の諸外国と深く付き合わざるを得なくなった<グローバル化>に足を踏み入れたいま、ホンワカ社会のまま日本が今までどおり孤立を楽しむ桃源郷では最早あり続けられない、と思います。  情緒的には名残惜しいですが。
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書評 007:謝罪を越えて 馬立誠

2014-05-29 17:43:23 | 書評
 本書は、2004年2月、日本での出版のため書き下ろされ、文芸春秋から「日本はもう中国に謝罪しなくていい」の邦題タイトルで発刊されたものの文庫版である。2006年の文庫化にあたり、著者の強い希望で原文の意を汲んだこの書名に戻されたという。読んでみると、単行本で文春がつけた題名はいかにも日本人受けを意図したもので、本書の内容から逸脱しかねず、著者が強く原題に戻すよう求めたのは頷ける。商業ジャーナリズムだからとはいえ、文春らしい偏りは気持ちのよいものではない。

 馬氏は2002年当時、人民日報高級評論委員にあり、同年の訪日後、論文<対日関係の新思考>を発表し、中国国内で大きな論議を巻き起こしたという。だが、本書を素直に読むと誰にもわかるとおり、日中いずれにも肩入れしたものではなく、国交回復時の請求権放棄の決着、戦時賠償の替わりと双方が意識したうえでのOAD援助の貢献などを公平に認識し、謝罪はもう充分なされたと中国国民に呼びかけたものである。そのうえで、両国の官民双方におけるナショナリズムは百害あって一利なしゆえ互いに慎もうではないか、と訴えている。

 この本が世に出てから、小泉元首相の靖国参拝、石原都知事(当時)の尖閣購入宣言でしかけられた国有化などがあり、馬氏の訴えたことが吹っ飛んでしまったのは実に残念至極だ。中国漁船の海保船体当たり事件が寧ろ中国にとってではなく、逆に石原氏による仕掛けの呼び水に利用されたのは遺憾である。

 本書の第1章から5章までは10年経過した今となっては過去の描写になった。だが、第6章<日本は普通の国になりつつある>では、日本が嘗ての軍国主義国家もは再びなれないと強調しており、その感覚は来日中国人の増加でいっそう確実になりつつある一方、昨今の安倍首相が進めようとしている動きは、せっかく馬氏が自国の人々に向かい説こうとしてきたことに冷水を浴びせるものだ。

 第7<中国新指導者は歴史カードを切らない>・第8章<中・日・韓経済一体化を実現せよ>の2点は、馬氏が本書を著した時期から今に至るも依然として正しく目指すべき一里塚だ。然し、今日現在、事態は我々の期待にほど遠い。

 中国によるエネルギー資源確保の為なら何でもありの<なりふり構わぬ力の行使>と安倍政権の<集団的自衛権行使・抑止力強化>は鶏と卵状態、且つチキンレースになってしまい、双方に打開の糸口がない。先般、胡元主席の長男が来日し安倍首相と密談、ブレイクポイントとして総理大臣の靖国参拝停止を突破口にしたい旨打診されたという報道を見た。案の定(安倍氏は国際政治の現実論ではなく神道教義や霊魂論議に終始したのか)物別れに終わったようだ。

 政冷経熱などと気楽にいうが、政治の安定あってこそ中国は良い市場でいられるのだ。
 どこか上滑りな安倍氏に任せておいて良いのか? 私は日に日に心配になってきた。
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Silk Road <# 4> 天山北路

2014-05-28 14:20:52 | つぶやき
 DVDもいよいよ最後の6枚目。

 第11集<天馬のふるさと>は、第10集までのカラコルム砂漠にまつわる映像とはうってかわり、遊牧諸民族の広大な広がりを縦横に見せてくれる。現在の国境とは無縁であったろう遊牧騎馬民族の西への繋がりは、我々には体でわからない。

 同行のスタッフから「何故、少数民族にそれほど興味をおもちなのか?」と問われた司馬遼太郎氏の答えが 奮っている。
 曰く、暮らしを変えず、多民族社会に溶け込まない、その頑固さに品格を感じる。また、この果てしない草原の大空間で昔のまま何ももたず、何も残さず空っぽのまま何千年も生き続けてきたことが私をどうしようもなく惹きつけるのでしょうな、と。 司馬氏の小説などを貫く大陸ロマンへの憧れ、その根源を聴く思いがした。

 第12集<民族の十字路>では、今もなお紛争の巣窟であるパミール高原周辺の秘める複雑さが峻険な地勢とあいまち、ひたひたと伝わった。シルクロード沿いの交易で常に花形商品だったという絹織物だが、遠いギリシャでは漠然と、絹を産する地域として今の中国(人)をセレス(Ceres)と呼び、タリム盆地から東のあたりを国名としてはセリカ(Serica)と呼んだという。

 カシュガルあたりの人々はもう西方の顔立ちであり体格も大きい。そんな彼らの中に人民服・人民帽を身に着けた人が混じっている。容貌とマッチせず、どうみても似合わない。たぶん文化とはこういうことで、必ずしも少数ではない異民族を漢族が統治する摩擦は自ずから想像がつく。

 長い長い歴史でみれば、PRCが新彊ウイグル自治区と称してこれらの地帯を支配する時間はまだ僅か60年余であり、これからはどうなるのか、誰にもわからない。人間どもの争いなどいつでも吞み込んでしまう巨大な空間。人を寄せ付けぬ高山。

 この6枚目はあらゆる面からみて、シルクロード全体を包括し、古代と現代の間に横たわる時を巨大空間のうえで結びつけてくれた。まさに時空を越えた、人間の営みが何たるかを私に教えてくれた。

                                         《 了 》
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靖国神社の存在をめぐる諸争点

2014-05-28 09:34:45 | つぶやき
 争点・論点が多すぎ、国民としてどう考えを整理すべきか、考え始めては途中で諦めてしまう人も多い。
 私もそんなひとりだが、敢えて挑戦してみた。

 1.靖国神社の在り方自体にまつわる争点・今日の問題

  1)幕末以来1945年の敗戦まで一貫しているのは、賊軍または反政府勢力そして無名の戦没者を追悼・慰    霊の対象から除いてきたことだ。千鳥ヶ淵戦没者墓苑をわざわざ無名戦没者用と差別のうえ建設した    狙いはこの差別を是認するものであり、見過ごされていいのか? 無名であるだけで、国家のために亡くなった  戦没者に違いはない筈だ。

  2)米国のアーリントン墓地は国立墓地だが、ここは南北戦争の敗軍(=反逆者?)である南軍兵士も平等に   埋葬されているほか、埋葬形式は全ての宗教が許され、埋葬の決定権は施設側でなく遺族にある諸点     において、靖国神社とは建設の意図、運営が全く異なる。

     地位・立場を問わず、政府関係者が参拝するのを<信教の自由>だと擁護するなら、戦没者遺族が    靖国への合祀取り消しを求めた過去の訴訟を棄却し続けた司法判断は論理的に矛盾しているのではな      いか。

  3)敗戦後、GHQは靖国神社を日本軍国主義を支えた支柱と看做し廃絶をはかったが、1946年「宗教法     人法」を成立させ、国家による護持施設の性格は離脱した、としたことで存続が許されている。

   ところが、現在までの運営や歴代政府、日本遺族会、保守派等の言動をみると、靖国神社が国家護持肯   定の思想で支えられていることは明白だ。また、横井庄一氏・小野田寛郎氏が「靖国で会おうといったのに、  戦争に負けたら国が靖国とは別の施設をつくるのは死んだ人間に対する裏切りだ」と述べたというが、この   発言が咎められないことこそ、国家護持思想が続いていることの傍証でもある。

  4) さて、私は戦没者を国家が追悼・慰霊し施設護持することそのものを否定するのではない。神道を宗教   でないと強弁する人は論外として、靖国神社が政教分離を示す憲法に違反する存在を続けて国家護持の    役割を担うことが問題の核心だと言うのである。


 2.戦犯の存在・合祀/分祀をめぐる争点

  1)戦争犯罪という概念自体の是非を問う論議は続く。古来絶えなかった戦争に犯罪の概念を持ち込むのは   納得性がない、勝者の裁きに過ぎないとの立論には確かに頷けるポイントがある。
   然し、大日本帝国はポツダム宣言を受諾し降伏したのであり、日本国は極東軍事裁判そのものを受容する   とサンフランシスコ講和条約でも署名した。これを否定しては全てが瓦解する。これは中国だけでなく米国    はじめ全ての国が同じ思いであろう。 
    昨年10月、米国の国務/国防両長官がわざわざ靖国でなく千鳥ヶ淵を訪問したのは、上に述べた点への   明確なメッセージである。これを日本政府或いは靖国神社支持派はどう理解したのか?政治に相手がある   以上、戦後秩序の現実を無視したり、挑戦することには無理がある。そもそも、今の日本にそんな挑戦を通   す実力はない。

  2)神社側が分祀は神道教義からできないと回答しているが、学理上の当否よりも、上記1.2)で言及した   ように、何よりA級戦犯遺族の中には分祀希望を出したのに無視され、訴訟に至った経緯がある。

以上みてきたように、単に明治以来の帝国主義的膨張の歴史に直結する存在ゆえに靖国神社がいけないといういうのではなく、国家主義の否定に立つ現憲法で再スタートした筈の日本国としてなすべきは、特定の宗教法人:靖国神社に国家護持の役割を担い続けさせるのはやめ、無宗教・無差別の国家施設を建設することだと私は思う。集団的自衛権懇談会の副座長を務めた北岡氏ですらそう言っているのだ。

これを拒否し続ける限り、中韓や戦勝国のみならず、地域を問わずすべての外国から<日本人はまだ軍国主義時代の歴史を肯定したいのだ>と看做され続けるだろう。国際政治の場では、日本だけの文化主観や神道がらみのアニミズム習俗は靖国護持の言い訳にできない。これをいい加減受け入れようではないか。
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