静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ 必要な労働人口を自国民では賄えなくなった日本 ≫  まだ虚構の”純血神話”に拘るか?  もう『待ったなし』 移民と共に住む練習に入る時期だ

2018-07-30 10:21:59 | 時評
★ 人手不足が迫る政策転換 問われる覚悟  https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33257160R20C18A7SHA000/?n_cid=NMAIL007
・ <6月27日の党首討論では「移民政策」の定義を問われ「一定程度の規模の外国人およびその家族を期限を設けることなく受け入れる政策はとらない」と答えた。
  裏返せば、大規模ではなく期限を設けて開国する宣言だ。
   保守層を支持基盤とする首相。治安悪化などを理由に保守層には外国人受け入れに慎重論が多いとされ、首相も「移民政策はとらない」と繰り返してきた。
  だが新たな宣言で移民の定義を狭めたことで、外国人労働者をさらに増やせる。>
 ⇒ 技能研修生制度は破綻した。貧しい国の出稼ぎ労働者は国際的な取り合いだ。日本は観光先としてではなく『住みたい国』になっているか?  ← 此の反省は?

▼△ さて、皆さん”治安悪化などを理由に保守層には外国人受け入れに慎重論が多いとされ、首相も「移民政策はとらない」と繰り返してきた”。 問題なのは此の部分だ。

 治安悪化は根拠なき表向きの口実に過ぎない。周囲に言葉も文化習慣も違う外国人の住みつくことに慣れない大衆心理を利用しただけだ。
 安倍首相を支える”保守層”が <外国人が日本に定住するのを拒否せず、本人が望めば国籍も与える>政策=移民を受け入れる政策を渋る本当の理由、賢明な読者にはお見通しだろう。
 保守国粋主義者のココロの中にある「ヤマト民族は単一の純血集団だ」という誤謬に満ちた虚構/ストーリーを維持したい一心。これを源泉とする神話が崩壊するのを恐れる情緒が、
 移民導入への抵抗を支えているのである。 建国神話の公的否定は<神道を国家が保護してきたクニの在り方>を死守したい勢力にとり、「とんでもない」ことだろう。

 この「とんでもない!」という感情は、理屈や価値判断以前の原始的エネルギーに満ちているから、パワーは強い。だから国粋勢力はいつまでも絶えることなく、根を張り続ける。 
だが、無い袖は振れない。 絶対的に日本人だけで此の国が回らなくなる最悪の段階になり、ようやく守旧国粋勢力が方針転換したとしても、もう遅いだろう。だから、今から外国人と共に生活する技術と仕組みを準備せねば 共倒れになってしまう。

【1】真っ先に必要な政策は、日本語習得環境づくりを(企業、民間語学学校、ヴォランティアやNPO等)に依存するのではなく、公の仕組みとして予算をつけ、計画的に
   整備すること。そうせねば、外国人の生活安定は望めない。”安定した生活が望めないから非行/犯罪に走る”のは日本人と同じだ。「外国人だから治安が悪化する」という
   プロパガンダが如何に嘘っぱちか、少し考えたらわかることだ。
【2】次に並行して進めるべきは職業訓練学校の拡充だ。従来から在った学校は工業(製造業)に偏っていたので、これの拡大だけでなく広範な業界/業種に対応する訓練体系と
   教員の確保。  ここでも 高齢者労働力の活用余地は有るのでは?

 先を見越した構想力は、この人口減少にまつわる諸問題解決においてこそ致命的だ。誰も助けてはくれない。 大きな意味での”自浄能力”が問われているのではないだろうか?
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≪ 権威への追従=言われたことをしたまで ≫  言われた事/決まった事に忠実なだけでは 知らぬ間に 国を亡ぼす

2018-07-29 08:35:46 | 時評
☆ 【朝日】(社説)わたしたちの現在地 深まる危機に目を凝らす https://www.asahi.com/articles/DA3S13611561.html?ref=nmail_20180729mo
・ <■忠誠が生み出す罪悪>
 来月3日まで東京・岩波ホールで公開されている映画「ゲッベルスと私」の主人公ブルンヒルデ・ポムゼルは、第2次大戦当時、ユダヤ人虐殺を進めたナチスの宣伝相ゲッベルスの
 秘書として働いた。顔に深いしわが刻まれた103歳が語る。「私は、言われたことを忠実にやっていた」
 彼女が担った役割は、ナチスの犯罪のごく末端にすぎない。だがそうした小さな悪の集積が大きなうねりとなり、当時のドイツを破滅に追いやった。
 「私に罪はない」とポムゼルは言う。たしかに自分もその一人ではあった。でも、みんなが同じく加担したのだ、と。>
 ⇒ 日本でも戦後似たような言葉で「我々は騙されたのだ」という人がいた。 日本でもドイツと同様、≪でも、みんなが同じく加担したのだ≫

・ <戦後逃亡して1960年に逮捕されたアイヒマンもまた、自らの裁判で、上司の命令と当時の法、つまり総統ヒトラーの意思に忠実だったまでで、自分に罪があるとは感じていない
  と述べた。法廷を傍聴した政治哲学者のハンナ・アーレントは、権威への追従が重大な罪につながる「悪の陳腐さ」を指摘している。
  <大きな流れのなかで一人ひとりの罪の意識は薄まり、上に立つ者の意を踏まえた無責任の構造が、「悪」を行うことへの抵抗をなくしていく。>

★★ <黒を白と言いくるめる。国会を愚弄(ぐろう)し、反対意見にまじめに向きあわない。権利や自由を縛る法律を力ずくで制定し、憲法を軽んじる。そんなことを続けても内閣支持率
   は底堅い。 不満はあるが、経済はそこそこうまく回っているようだし、何よりとって代わる適任者が思い浮かばない。モリカケ問題が日々の生活に直接悪い影響を及ぼしている
   わけでもない。そんなところが理由だろうか。>  実に其の通り。 この怒り無き傍観者の様子見。 この態度こそ、不誠実な連中を付け入らせていることに気づきもしない!

<だが民主主義は、適正な手続きと真摯(しんし)な議論の交換があってはじめて成立する。その土台がいま、むしばまれつつある。危機の兆候を見逃したり、大したことにはなるまいと思ったりしているうちに、抜き差しならぬ事態に立ち至る。歴史が警告するところだ。> 
 ← ヒトラーは代議制民主主義のもと、合法的な選挙で選ばれ、国を滅ぼした、とされる。 だが、正しくは”ヒトラーがではなく、ドイツ国民自らが滅ぼした”。 大日本帝国も同じ。

 さて、今の国民の大多数は、中央官僚にみられる≪権威への追従が重大な罪につながる「悪の陳腐さ」≫を他人事だと見誤っているのでは?  
ハンナ・アーレントの言う、自分たちも≪大きな流れのなかで一人ひとりの罪の意識は薄まり、上に立つ者の意を踏まえた無責任の構造が、「悪」を行うことへの抵抗をなくしていく≫ 
危険な状態に近づいているのでは? という疑いを抱いたことは一度でもあるか?  

<そうさせないために何をすればいいか。政治への関心を失わず、様々なルートや機会を通じて、社会とかかわり続ける。あきらめずに行動し、多様な価値観が並び立つ世界を維持する。
それらを積み重ねることが、くらしを守る盾になるだろう>。 
 でも、政治の話から逃げ、新聞の社説/論説を読まない人々は 『政治への関心を失わず、様々なルートや機会を通じて、社会とかかわり続ける』人々ではない。デモにも行かない。

          <なんだか息苦しい。そう感じたときには、もう空気が切れかかっているかもしれないのだ>。     いつ 息苦しいと気づくか? 
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≪ 国会議員の驚くべき人権認識不備 ≫  ≪ 罰と贖罪意識 其のはざま ≫  ≪ 自力単独防衛できぬクニにとっての”平和” ≫

2018-07-27 09:46:55 | トーク・ネットTalk Net
★ 自民党の小野田紀美参院議員(岡山選挙区)「義務果たせば権利」と投稿、批判広がる https://mainichi.jp/articles/20180726/mog/00m/040/002000c?fm=mnm
・ 小野田議員のことばについては上に引用した記事に当たって戴くとして、私が最も注目して欲しい指摘は次の南部義典・慶応大元講師(憲法)の言葉である。
 <「今の憲法は性別や身分、立場の違いを乗り越えてまず個人として人権が保障されるのが出発点で、この感覚を意識していないのではないか。為政者が国民にどんどん義務を課し、
  その範囲で権利があるという発想は明治憲法以前の世界だ。とりわけ立法に携わる国会議員が『義務』という言葉を使う時は慎重であるべきだ」>
 ⇒ 南部教授の指摘で、ふと思い出すことがある。それは「為すべき義務を果たしてから権利を主張するべきだ」という言い回しだ。最近もこういう言い方が世間のどこかで続いて
  いるのか知らないが、私の記憶ではかなり幼い頃から聞いたように思う。私が幼かった頃に大人だった人々は言うまでもなく戦前までの国家主義道徳を刷り込まれた世代ゆえ、
  戦後になっても本音は変わらなかったのであろう。

・ 此の言い回しこそが<「自由法曹団」常任幹事の渡辺輝人弁護士も「憲法に定められた人権は、人が生まれながらに持つ権利であって、義務と引き換えとか、義務を果たした対価として
  享受するものではない」>と記事中で述べられる大事なポイントに真逆な「交換条件」式の権利意識である。人権とは≪生まれた時から誰にも等しく与えられた権利≫であり、
  与えられ方に如何なる差別・条件もない。これが基本中の基本。これを理解しない、或は否定する人が国会に限らず全てのレベルで人々の代表に選ばれてはいけない。 ピリオド!

☆ 【オウム事件】6人それぞれの贖罪 水墨画で実母への思い https://mainichi.jp/articles/20180727/k00/00m/040/183000c?fm=mnm
・ オウム真理教集団の起こした大量殺人事件の「罪」に対する「罰」は死刑判決の確定した首謀者全員への死刑執行で 昨日、区切りを迎えた。死刑制度を持続することが世論で支持
  されるクニである限り、司法制度としての決着なのだが、一方で「事件の背景分析と再発防止の観点」から真相解明の機会が失われたとする批判も遺った。仮に受刑者が真情吐露した
  として、再発防止にどれだけ有効かどうか誰にもわからない。
・ 片方には、<被害者側の哀しみと死刑による懲罰応報の間に横たわる乖離>は消えずに在り続ける。これは永遠に交わることのない二つの直線に例えられ、反省や更生の兆しが
  有るように見受けられる人物が居たにせよ、それで此の乖離が消滅することはなく、何も解決されはしない。 解決されないから、じゃ死刑は無駄・・か? 

▼ 日本の平和主義=西川恵 https://mainichi.jp/articles/20180727/ddm/003/070/034000c?fm=mnm
・ <近年、日本人の安全保障観を大きく変えたのは尖閣諸島問題と北朝鮮の核・ミサイル開発だ。前者は、「ここは日本の領土」と主張していれば領土が保全できるわけでなく、
  島の周囲に配置する巡視船の物理的な力によって守っていること。後者は、日本の排他的経済水域へのミサイルの着弾や上空通過という形で軍事的脅威をじかに見せつけた。>
・ <ただその前から変化はあった。北朝鮮による拉致問題は、我々が他国からの主権侵害にいかに無頓着であったかを教えた。また冷戦時代、韓国の金大中事件や、同国の権威主義的
  体制を批判する一方で、同国が西側世界の防波堤となっていた事実をどこまで理解していたか。日本は守られていることにあぐらをかいていたのではないか、との反省は以前から
  あった。>
全く正しい指摘だ。<自分の国が平和でさえあればいいという一国平和主義は、尖閣諸島と北朝鮮の核・ミサイル問題で行き詰まった。平和は広く国際社会の理解と協力を得なければ維持できないこと。そのために日本も他国の平和に関与する義務があることを教える。同じ平和主義でも内実は大きく変わりつつある。>
 
ここを従来から野党は認めず、対案も出せないまま”平和憲法”と呼号するだけだ。自国一国で防衛できる能力を日本は持たない/持てない。此の確認からスタートすれば、東アジアで組むべき相手は好き嫌いに拘わらずアメリカしか居ない。 ここを否定/たぶらかす?  其の先に何がある?  私はアメリカが決して好きではないが、所与の条件だから仕方ないのだ。。
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≪ J-Pop/ロック表現:  ハエがぶんぶん飛ぶ音? ≫  此のサウンドが好きな人にとり ヴィヴァルディ/バッハも同じように聞こえてるんだろうな 

2018-07-25 21:35:37 | トーク・ネットTalk Net
★ <JーPop>に限らず、プレスリー&ビートルズ以来、ロックリズム&シャウト(=叫び)に満ちた演奏を耳にすると、私は自分の音に対するシャッター扉がスルスル降りるのを
  毎回感じる。 何故そうなのかを分析する手間も惜しいのは、単純に生理的な拒否感ゆえではなく、彼らの叫ぶ言葉であれ発する音であれ、用いる音や道具が何を表現したいのか? 
  私には伝わらないからだ。それに尽きる。
 尤も、これらロックソングには踊りが伴う。これまた別のチャームポイントらしく、容易に推察できる。だが、脚や腕を速く振り動かすだけで、バレエやモダンダンスとは異なり、
 体の動きに感情や思いを乗せる、そういう感情表現を、私にはどうしても感じられないのだ。 極言すれば、あれはリズムに合わせたマスダンスでしかない。

さて、真逆の方向から西洋19世紀までの音楽<=いわゆるクラシック音楽>は、ロックミュージックで生命の震えにおののく若者に、どう聞こえてるのだろう?
< すぐ終わらない/言いたいことに辿り着くまでが長すぎる/感情の抑揚が複雑過ぎてついてゆけない/要は辛気くさい >などなど?  そういうことだろう。

 シャウトするロックの世界。そこに、古典音楽が醸し出す”心洗われる美しさに満ちたメロディーに酔う心情”は無縁だ。「聞こえ来る音に しみじみもの想う」も有るまい。
 緻密な音の重なりに心象風景を重ねる操作もロックリズムには無い。心臓が動き続ける限り、鼓動に張り合うかのような雄たけび。これが若い時の特権のように思われてきた。
 しかし<イエスタディ><ミシェル>など、当時20代の若者が人生の意味を問う、数少ない不朽のメロディ。この延長線上に、今どのロックミュージックが互角の位置にあるか??

 更に聴こう。バッハもヴィヴァルディもヘンデルも、君たちと同様に血が騒ぐ若い時は等しく在ったのだよ。生きた時代が違うだけだ。科学技術発展の速度の違いはあり、同じ24時間の区切りでも、感情のたゆたう長さは長かったろう。  だが、大事なのは、何を訴え何を人の心に刻み付けられるか?  ここに、時代/時間/生活スピードも無縁だ。
 ロック世代よ、なぜ 速い表現のアリーナしか君の音楽表現の選択幅にはないのか?   じゃ、スローバラードを・・・ではない。

自分が言いたい複雑なココロの奥底を表現するには、幾層にも考えた構成が求められる筈で、繰り返しビートの反復だけでは限界がある、ここから抜け出よう! そう思わないかい????
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≪ 杉田議員の人権否定は『思想が右翼か左翼か』とは次元が違う ≫  自民党幹事長の弁明は的外れで すり替えに近い

2018-07-25 13:39:53 | 時評
★ 「自民は右から左まで…」二階氏は問題視せず https://mainichi.jp/articles/20180725/k00/00m/010/033000c?fm=mnm
・ <「右から左まで各方面の人が集まって自民党は成り立っている。別に大きな驚きを持っているわけではない」と述べ、党として問題視しない姿勢を示した。>
  此の言い方は、米ソ冷戦真っ只中の戦後45年間、ソ連崩壊まで頻繁に言い古された常套句だ。 50代以下の若い世代には記憶が薄い表現だろうが、敢えて解説しよう。
・ この言い回しは「社会主義的政策ないしは生産手段の公有化による共産主義計画経済を信奉する勢力=左翼」という定義づけに対し、「自由市場経済を前提とする資本主義経済体制を
  是とし、保守する勢力=右翼」と便宜上、二項対立的に並べられた。

注意すべきは、日本の場合、「右翼」には単なる「反社会主義思潮」「反共」に加え、およそ西欧型議会民主主義精神のみならず、国連の人権宣言にも反する基本的人権の否定思想<男尊女卑、性差別、民族差別>までを含む伝統価値の肯定が入ることだ。 西欧ならドイツの<ネオ・ナチズム運動>支持者が似た範疇になるだろう。

 問題なのは、杉田議員の寄稿内容並びに言動が、嘗ての右・左区分や保守革新の区分けとは異次元の人権否定及び性差別肯定思想に属するのにも関わらず、自民党幹事長は政治思想的立場の違いを指した「右左」で摩り替えている点にある。  ここを見逃してはならない。

ヘイトスピーチを行う者を「言論の自由擁護論」で庇う立場と二階幹事長の言葉は酷似しており、度量の広さを装う疑似的パフォーマンスでしかない。
* <人権否定、差別の助長>、これらは政治信条や自由論とは無縁の「悪」であり、絶対に許してはならない。 いかなる弁解も いっさいあり得ない。  < 了 >
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