静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ 今朝の つぶやき 2題 ≫  難民認定基準と国内での差別    1949年以前は母体であった台湾の「独立」とは 論理矛盾では?

2023-03-31 11:37:21 | トーク・ネットTalk Net
★ 日本政府、LGBT迫害を理由とした外国人の難民申請を初めて認める
・ これはウクライナから日本に避難してきた2,000人余りに適用している一時的な処遇≪避難民≫ではなく、国際条約に則った正式の難民認定である。
  何故、此の報道に注目したか? 一つは、国際的にも批判されてきた日本政府の余りにも少ない認定却下の殆どが「政治的意見への迫害」を申請理由としてきたから。
  もう一つは『難民該当性判断の手引き』を出入国在留管理庁が今月、公表したからだ。其の内容は以下のURL.https://www.moj.go.jp/isa/content/001393172.pdf

・ 読んで気づくのは、先ず、判断基準は日本が批准している国際文書をフォローしながら、どのように申請者の申し立てる迫害状況を認めるかの判断は「ケースバイケース」
  とされ、そこに出入国在留管理庁担当者の主観なり上司からの判断目安が恣意的にいくらでも働く余地がある、という点だ。
   共通の国際条約文を遣うのはどの国でも同じ条件だとすると、認定件数が他国と比較にならない程少ない実績は何を物語るか? 言うまでもない。
  与党の意向を汲んだ法務省トップの態度が其のあからさまな違いを生み出しているということだ。

* もう一つ気づくのは、この国際条約に書かれている差別や迫害の定義文言は日本国内にそのまま適用できる内容であることだ。従い、国内のヘイトスピーチや差別言動、
  宗教・政治的意見・性差別・LGBT:これらを禁じる法制化を進めようとしない与党&保守勢力は、国内法だからと国際合意の文面を無視・拒否していることになる。
   ⇒ 法制化を推進する立場の人、野党は、此の矛盾を突かねばならないのでは?

★ <台湾独立は許さない>と中華人民共和国政府が言うのは正しい主張か?

・ 以前も取り上げた記憶があるが、1949年、毛沢東が北京で中華人民共和国の発足を宣言して以来、中華民国は国連の代表権を失った以後も、大陸とは異なる統治体制を
  維持し続けている。国名はそのままで一つの国家の体裁は変わっていない。だから、台湾島に逃げ込んだからといって国家で亡くなったわけではない。
   以前の国名・体制の異なるクニとしてまで存在してきたのだ。大陸の共産党政府は「二つの中国は認めない・許さない」を日米ほかと国交回復の条件としてきた。

・ だが「中国」とは中華民国建国(1912年)後、一度も正式国名ではなく、詩文の世界で用いられた抽象的総称でしかない。従い「一つの中国」とは抽象的理念に過ぎない。
  共産中国の側が「中国」概念を使い、敵対する別の国家<中華民国>も自分の内に属すべき対象というのは飽くまでも政治理念だから『独立』の概念とは合わない。
   『独立』とは母体を離れる意味であり、寧ろ母体だったのは中華民国ではないか? 従って≪台湾が独立する≫・・は論理矛盾でしかない、というわけだ。
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≪ 袴田さん 再審開始へ ≫ 冤罪の例がまた一つ  死刑は止めて 恩赦無しの終身刑にしたら?

2023-03-30 16:17:44 | トーク・ネットTalk Net
 かねてから、死刑廃止論をめぐる議論に、どんな判決も冤罪を見逃す可能性が否定できない現実がある以上、終身刑に統一すべきだと私は主張してきた。
袴田さんの事例は、死刑執行の孕む危険性を指摘する多くの意見の正しさを証明するものである。あとになって冤罪と判断される事例がどんなに少なかろうが、例え一例でも、冤罪と判断されるべき人の命を奪う事は赦されない。

 被害者遺族の恨みと憎しみの感情は死刑執行で相殺されるわけではない。かといって罪を犯した者が罰を受ける原則は守る必要がある。

そこで適用すべきが、圧倒的大多数の冤罪ではない受刑者たちが死刑以上に苦しみ、死ぬまで反省の時間を与えられる「終身刑」と言う選択だ。
無論、皇室の慶事或いは国家行事ゆえの恩赦や特赦も当てはめない字義どおりの終身刑でなくば、懲罰の意義が失せる。
そして「終身刑」なら、万一の冤罪ケースにも対応できる。 これは現在もある「無期懲役刑」ではない。「終身」:身が終わるまで刑に服すのである。
 冤罪に備えつつ、且つ、重大犯罪の罪を最大限償わせる妙案は、他にあるか?
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「私」を主語に立て 中立性を隠れ蓑にしない発信を心がけた与良正男さん お疲れさま:第二の人生に幸あれ!

2023-03-30 08:14:02 | トーク・ネットTalk Net
★☆ 特集≪熱血!与良政談≫「私」を多用してきたわけ=与良正男(専門編集委員):最終回  <抜粋>
・2023年3月31日で私は毎日新聞社を定年(65歳)退職する。つまり今回が最終回となる。以前の「発信箱」欄時代も合わせ、20年間、週1回のコラムを連載してきた。

 何をテーマとするか、時に七転八倒したけれど、本当に幸せな新聞記者だったと思う。賛否両論、多くの意見をいただいた。とりわけ、お年寄りからと思われる数々の
 手書きの手紙が忘れがたい。戦前、戦後のつらい人生を切々とつづり、今の政治への不安や怒りを率直に伝えてくれる手紙も多かった。

  「与良さんなら分かってもらえるかもしれない」と思って書いていただいたのなら、私の大きな財産であり、誇りである。

・お気づきの読者も多かっただろうが、このコラムでは「○○と私は思う」をはじめとして、「私」という主語を頻繁に使ってきた。それには理由がある。
 とかく新聞は客観性にこだわって「○○と批判を集めそうだ」等々と主語をあいまいにしがちだ。だが、毎日新聞は他社に先駆けて、かねて記事には取材・執筆した記者の
 署名を原則的に入れている。ならば堂々と「私はこう思う」と書いた方が、潔いだろうし、書いた本人の責任も、より重くなるのではないか。

・「そんなに自分が目立ちたいのか」と上司にたしなめられたこともあった。でも従来の「新聞の常識」を少し変えたかった。最近の国会議論でいえば、「中立性」にこだわる
 ほど、まるでひとごとのようになってしまい、読者の心に響かないと考えたのだ。日々起きる事柄には、さまざまな見方がある。にもかかわらず、マスコミが十把一からげに
 して「国民は怒っている」と書くのも傲慢だと思ってきた。私はこう考える。でも、あなたの意見も謙虚に聞く。そんな姿勢を貫いてきたつもりだ。
  今後は文字通り、組織を離れた「私」としてジャーナリズムの世界にかかわっていきます。でも、書いたり、話したりする内容、そして熱い思いは、これまでと変わらない
 はずです。 みなさん、またどこかでお会いしましょう。
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 大手新聞は「国家主義肯定 vs 多様性&個人の自立肯定」の対立軸で(読売・産経)対(朝日・毎日・東京)の2陣営に分かれているが、2001年初の帰国以来、毎日新聞を
相対的に最も中立性/客観性が高いと感じ、私は20年余り購読している。1990年代以降、政治経済の低迷と混乱が続く日本にあって、世紀替わり当初に起きた政界再編も元の
木阿弥に終わった。民主党政権の挫折と分裂の挙句、安倍総裁下の自民党は党内世論形成の伝統を放棄し、小泉首相以来の劇場型・官僚支配と選挙必勝政治に走った。
 編集委員や専門記者などが執筆する毎日新聞の特集記事はいずれも視点が鋭く、公私とも座標軸を見いだせぬ不安からポピュリズムに流れやすい国民に警鐘を鳴らしている。

 与良氏は、例えば(安保と外交・沖縄・原発)政策に関し、青木理氏ほど鮮明な政府批判の立場を表明していない。それよりは、選挙のありかた・政党政治と国会の在り方を中心に現代日本が抱える代議制民主政治の歪みや遅れを指摘してきた。個人対国家の”虫の視座”から社会と政治の望ましい在り方を問い続けてきた、と私は評価している。

与良氏が強調している「私」を主語として発信する重要性。それは、客観性・中立性の美名のもと己の意志・見解を明解に表わさない態度が招く【個の主張不在と自律の喪失】の回避だ。それは何もマス・メディアやジャーナリズムに携わる者だけが避けなければいけない事ではない。我々ひとりひとりが他者と向き合う際に心がける態度である。

『人はああ言っている』『世間ではこうだから』『世の中がまだそうなっていない』『自分だけ目立つのは損だ』などの理由付けで自分個人の意思表示から逃げ、周りを見渡す日本人の習性。これが与良氏の言う「私」を主語としない生き方であり、日本社会に【個の主張不在と自律の喪失】をもたらしている原因である。
 協調的だと褒めそやし排他性を同時に呼び込む、このような逃げの姿勢を捨てない限り、私達個人々は集団に呑み込まれてしまい、多様性どころか「私」が消滅してしまう。


*主語「私」の忌避は、タモリが取り上げた「~とか/~になります/~みたい」に象徴される≪ 断定回避の言い回し定着 ≫とも符合する。タモリの言挙げを単なる老人のボヤキ
 などと打っちゃってはならない。国語学者を名乗る人から「~とか/~になります/~みたい」は必ずしも最近の流行ではなく古代に語法もあったなどと擁護する発言もあるが、
  
 古い・新しいの問題ではなくタモリが問うているのは、断言を避ける心理を否定しない世代への危機意識だ。これは「ラ抜き言葉などの音数短縮追及」とは異質なのである。
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「山の名前を言うときは、名前の前にMt.をつけます」・・この説明が何故 英語教科書検定では”不適切”とされる?   

2023-03-28 19:17:05 | トーク・ネットTalk Net
* 2020年度に5、6年生の正式な教科となり、今回が2回目の教科書検定となった小学校英語。前回18年度検定時から学習指導要領は変わっていないが、
 付いた検定意見の数は前回の計143件から計285件へと2倍近くに増えた三省堂の小学6年の英語教科書にあったこの説明。今回の検定で
 「学習指導要領に示す内容に照らして、扱いが不適切」との意見がついた。

* 文部科学省の担当者は「小学校の英語の学習指導要領では、意味のある文脈で繰り返し触れることが求められている」と指摘。
  「『山の名前の前にMt.をつける』との知識を教えることは、学習指導要領が想定していない指導になる恐れがある」との判断だったと話す。
  検定意見が付いた結果、同社は「山の名前は、Mt.Fuji(富士山)、Mt.Asama(浅間山)などのように表します」と修正した。

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★ 皆さん。このやり取りから何を納得しますか? 私は、文部科学省担当者が言っている訂正要求論理そのものが理解できなかった。 どういうことか?というと。

【1】山の名前にMt.と付けるのは日本語で「山/岳/峰」と名付けるのと同じ。この世界共通な地理常識と「英語教育では意味のある文脈で(言葉が)繰り返し触れることが
   求められている」との関係性は何処にあるのか? という単純な違和感だ。 違和感というよりは、論理崩壊のダメ押しでしかない。
  「意味のある文脈で(言葉が)繰り返し触れることが求められている」場面でいう「意味のある文脈」とは、何? 山の名づけ法は、純然たる名詞に関わる表記法の話だ。
   ≪ 言葉を繰り返し述べる事が意味を生むシチュエーション ≫は文学的・哲学的表現の場で起きるモノであり、山の名付け方表現の当否とは何も関係ない!

【2】「学習指導要領が想定していない指導になる」とは何? これまた抽象的言い回しの典型だが、何を指導要領では指導したいのか???
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 月末あるいは会計年度末が近くなると、交通警官は違反切符きりのノルマに追われる。 それと似ているのが本件ではないのか? 先般、高校向け地理教科書で
地名表記の誤りを検査官が見逃したまま出版され、2年も使われたままだったのが発覚した。  その汚名挽回とばかり、イチャモンを付けただけにしか見えないな。
 私に限らず、様々な人が素朴な疑問を呈しても、霞ヶ関の官僚は一切説明しない。それじゃ開かれたクニにはならないのだよ。 それで良いのかい? 
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今の生活を変えたくない日本人・・・みんな等しく貧しくなる日本 「高齢者世代がいなくなる時が本当の日本の危機」 

2023-03-27 22:09:51 | トーク・ネットTalk Net
〇 抜粋<週刊朝日> 2023年3月31日号:中央大学・山田昌弘教授(57)
  山田教授が述べているのは、私だけでなく、殆どの高齢世代が日々慨嘆し、若い世代が早く気づいて、アクションに結び付けて欲しいと念じている内容だ。
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 少子高齢化が進む日本で、若い世代の社会保障負担が重くなっているのは事実です。ただ、それが極端な世代間対立につながっているわけではありません。
若い人は「損をしている」とは思っていても、格差是正を求める大きな運動にはなっていません。日本で問題なのは、世代内の格差がそのまま次世代に引き継がれていること
です。貧しい親の子どもは貧しいまま。日本はパラサイト(寄生)社会ですから、経済的に豊かな親の恩恵を受けている子どもも多い。
 東京都立大教授の宮台真司さんが、大学内で男に切りつけられる事件がありました。容疑者とみられる無職の男は死亡しましたが、親が年金保険料を払っていたそうです。
成人した子どもの生活費だけでなく保険料まで親が面倒を見ることは、欧米では考えられないことです。ただ、これは日本の文化なので、そう簡単には変わりません。

 だから制度を変える必要があるのですが、日本人は制度が変わるのが嫌なんです。なぜ、変わるのが嫌なんでしょうか。それは「今の生活を変えたくないから」。
例えば、格差是正のために高等教育の無償化を目指したとします。そこには財源が必要で、どこかで痛みが出ます。でも、その痛みは自分に降りかかってくるかもしれない。
だから制度を変えたくない。

 官僚は優秀なので、消費税の税率を上げるのが大変なことはわかっています。代わりに、社会保険料を少しずつ上げていく。気がついたら、昔は年に2回行けていた旅行が
1回になる。そうやって、みんなでだんだん貧しくなっているのが今の日本です。それでも、みんな等しく貧しくなっていくのなら、日本人は気にしないのではないでしょうか。外圧や戦争といったことが起きない限り、この国は変わらないのでしょう。  (← これこそ、私が同年輩の友人と交わす嘆きの言葉そのものである)
   ★では、子どもを援助している今の高齢者世代がいなくなるとどうなるのでしょうか。おそらく、その時に日本の本当の危機が訪れます。
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【日本の本当の危機とは?】・・・すぐそこに見えている姿
 私の周囲にもパラサイトで子供を囲い続けている高齢世代は多く居る。皆さんだって同じだろう。土地が有る場合はアパートを建て、家賃収入で子供を食わせている。
或いは、莫大な相続財産が有る人や、医者などの高報酬を得る人も働かない子供を養っている。そこまで行かなくても、自分の年金で食わせている親はゴマンとみかける。
こういった高齢者世代が世を去ったあと、寄生で生きてきた未婚中年世代は、勤労生活と切れたまま老いてゆき、亡くなった親から貰った生活基盤は朽ちるだけ。
 現在もみかける空き家・所有者不明の土地は高齢世代の退場で幾何級数的に増えるが、強制収容はできないので有効利用は不能。

 この現象に輪をかけるのが(未婚率の上昇)と(少子化)そして(出産を選択しない夫婦)の増加で、其の人口比率は高くなる。これでは、資源なき日本が輸出で食い扶持を稼ぐための財貨生産は細る一方。・・これが山田教授の描く『共に貧しくなる』シナリオである。   嗚呼!! 
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