静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ 「いいとこ取りでチャッカリ」 にも先が見えた中国の経済政策? ≫ ≪ 日本式緻密管理が専売特許でなくなる日が来た ≫

2016-10-30 11:54:42 | 時評
  ◇ 今日は、国際ビジネスに絡む二つの話題で、日本の今後を考えてみた
1)中国の買収にドイツ「待った」 投資の流れ一方向 欧州の不快感映す http://www.nikkei.com/article/DGXMZO08951730Z21C16A0TZN000/?df=2&dg=1
 ・ 日経が転載した英国フィナンシャル・タイムスの記事は、EUにおける最近の中国企業による欧州企業買収に欧州各国が警戒感を深め、規制に乗り出したことに関するもの。
 ・ ポイントは、中国が中国への外国企業進出に合弁を半ば強制して技術移転を強いるほか、外国による自国企業買収には様々な条件や規制で事実上困難となる政策を続ける
   現状に、ようやく欧州各国が対抗手段に出始めたことだ。米国は外国からの投資/買収に連邦政府が審査/許認可する機関を備えるが、EUはそういう機関を持たない。
   その不備への反省でもあろう。
 ← これが日本に示唆することは、巨大市場の魅惑と引き換えに日本企業が技術移転を必要悪的に許しつつ、ひたすら売り上げ拡大に邁進してきた姿が、今後は自国産業の
   地盤沈下のみならず、不公平な投資環境の弊害を欧州同様に自覚し、自制すべき時が既にやってきている現実を直視せよ、ということである。
 中国も、巧妙に既存WTOル-ルを逆手に執る「いいとこ取り」で自国保護を貫こうとする国際経済政策は、結局、自国産業のレベルアップには繋がらないという黄金則に従い、
 国家統制型半資本主義は放棄すべきだ。   ・・・・だが、共産党独裁との抵触が怖くて、それもできないか? 

2) タイの自動車鋼板 「全員参加」で日本並みの品質 http://www.nikkei.com/article/DGXKZO08818460W6A021C1X11000/
 ・ 詳しくは記事をお読み戴きたいが、私の要点は、嘗て、そして今も日本の製造業の強さのバックボーンである「緻密で制度の高い工程管理/生産管理」
  「<白無垢追究>的品質管理マインド」が、何と日本人でない人々によりマスターされた事実に、どこまで我々が警鐘を聞き取るかだ。
・ 海外生産工場で長く國際購買実務に携わった私にとり、自動車用鋼板を巡る此の記事は、「とうとうタイ人が成し遂げたか!」との驚きと感慨である。
 
私の経験が告げるのは<アメリカ人同様、中国人も粗雑さに於いて同様なので、上に挙げた日本式の緻密な工程&品質管理を身に着ける日は来ない>であり、それはコンサル
時代も含めた現業職を離れて10年余後の今も揺るがない。 世界中で日本製造業の此の強みに伍してゆけるのはドイツ人だけであり、アジアで若しフォロワーとなるとすればヴェトナム人かも、と私は感じていたが、工業化の歴史と経験で勝るタイ人が先を越した。然し、タイの文化風土、興行かの歴史、タイ人の民族性を知るヒトに、それは不思議でもマグレでもない。
 既に、工作機械&金型製造技術という製造業の核心を為す重要分野で日本企業は独占優位にない。買収や技術移転を招いた元凶が中国資本への身売りであり、それは上の話題で述べた警鐘と重なる。 品管を含む製造管理においても日本独自の優位性が失われるならば、成長戦略どころか、足元の貿易立国そのものが危ういのである。  ここが最も肝腎なポイント。  日本の製造業はもう、そこまで迫られているのである。
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 ≪ 長生きの公私にわたる弊害を直視しよう ≫  長寿化で麻痺したリスク管理 個人も社会も

2016-10-29 08:53:57 | トーク・ネットTalk Net
 * 走った道「覚えてない」 87歳逮捕 横浜・通学の小1死亡 http://digital.asahi.com/articles/DA3S12631718.html?rm=149
 * 高速逆走、最多 昨年259件、目立つ高齢者・進入時多発 http://www.asahi.com/articles/DA3S12631783.html?ref=nmail_20161029mo   
・ 高齢者の運転による痛ましい事故がまた繰り返された。 高齢者ドライバーに対する認知症テストが5年に1度という頻度だということに問題が潜んでいる。 
  此のテスト実施頻度を短縮し、且つ、交番巡査による近所の聞き込みなどで認知症症状有無を事前キャッチしてはどうか?
・ 高齢運転者の免許返上の話が出るたびに反論されるのが、公共交通手段が乏しい地方・山間部・漁村部などにおける不便をどうするか、というポイントだ。
  然し、全国くまなく調べれば、旅行などに自動車を使うケースを除き、日常生活で本当に鉄道/バス/乗合タクシーも一切使えない自治体がどこにどれだけ有るかは直ぐに判る。 
  そこを特例地域と指定し、日常行動距離範囲内に限定した運転を認めるが、それ以外の私的使用は運転させない。仏事など特殊な機会でどうしても運転した方が経済的という
  場合のみ、例外的に認め、GPSで追跡すればいいのではないか。 或は、運転させない代償として公共交通費の公的補助も考えられよう。それでも高齢者の起こす交通事故に
  伴う公私全般にかかるトータルコスト、失われる若人の人生の損失に比べれば、安いのではなかろうか。 一部の努力は既に自治体で行われているようだが、財政規模の
  小さな自治体にそれを任せるのは酷というものだ。  免許制度全般の見直しと絡め、全国レベルでの改善に踏み出すべきだと思う。

長寿高齢化の劇的な進行とあいまち、80代、90代になっても運動ができ、痴呆にもならず幸福そうに暮らす老人の姿がメディアで盛んにもてはやされ、健康食品/若返り関連商品などがビッグビジネスとなった。60代はとっくに「鼻たれ小僧」と化し、70代で亡くなっても誰も「天寿を全うした」などとは言わなくなっている。80代で世を去れば「フツー」の感覚になっているのでは?    
 この結果として現在はびこっているのは、長くなってしまった残り時間をどう生きればよいのか途方に暮れ、スーパーマン・スーパーウーマンでない一般大衆にとり、長生きはやり場のない当惑でしかなくなり、途方に暮れつつ毎日をやり過ごす姿である。 若き日とは違う<厭世観>が日本の老人に忍び寄っている。
 これまでも、それなりに一生懸命生きてきた男女に「もっともっと、まだまだ先は長いぞ。 めげずにガンバレ!」と発破をかけ続ける社会になっている。 
 然し、誰もがいつまでも頑張れるわけはないのだ。 そして残酷にも、「ポックリ死」の幸運は僅か5%の確率でしか訪れてくれない。

 世の価値観に<絶対>は無いとする立場をとるならば、『長生きは無条件に常に良いことだ』というのも然り。 個人としても社会としても、ノーだ。
病弱あるいは障害を持って生まれ、または人生の途中でそうなった人の立場からは、「そうはいっても、長生きは目出度く讃えるべきことだ」と言うだろう。 
 この設問自体が健常者の贅沢且つ不遜な悩み・戯言に過ぎない、と。 そうかもしれない。だが逆に、障碍者に、際限なき長寿が健常者にもたらす怨嗟/厭世感はわかるまい。
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≪ 自民党総裁任期の延長と議院内閣制 ≫  ≪ 電柱埋設はゼニの問題じゃなく 街を愛するかどうか ≫

2016-10-26 10:27:28 | トーク・ネットTalk Net
* 安倍自民総裁の任期、3選なら戦後最長視野 http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS25H3U_V21C16A0PP8000/?n_cid=NMAIL001
・ この件に関し、9月24日、本コラムで私は述べている。今の議院内閣制の下での政権与党の総裁は事実上「首相」であるから、その任期を自党の都合、或は、政局絡みの
  戦術で変えることは国全体の政治に大きな影響を及ぼす。加えて、首相が衆議院を解散できる根拠法があるため、政権党総裁の任期イコール首相の任期とも重なり合う
  事例が起こり得る。 後者は議会制度を見倣った英国では弊害を理由に廃止されたことも追記した。
 ⇒ 9/24に書いたものの要点は上に尽きるが、国民一般から本件に対し、意見やコメントが強く見受けられないのは如何なる背景だろう?

 私が思うには、議員及び総理を含む国務大臣の責任/権限/任期というものを考えたうえ、厳しく問う姿勢が不足していることが大きいと思う。投票結果に不満足であっても、とにかく出した結果をフォローする政治意識が薄い、ということでもあるだろう。 
 選挙制度や票の格差が議論になっても、その歪みの土台の上に構成される国会の運び方、内閣を構成する政権政党の在り方になると国民大衆は深い議論に入ろうとしない。 
ここが日本の国政のひ弱さ/未熟さである。 <首相の解散権>が政局取引に利用される、それは議員当人達にはエキサイティングだろうが、国の在り様として正しいのだろうか?

★ 【毎日社説】電柱の撤去 知恵を絞って進める時だ http://mainichi.jp/articles/20161026/ddm/005/070/103000c?fm=mnm
・ これまた何度も繰り返し取り上げられては立ち消える話題だ。 うんざりだが、「東京五輪のため」「観光客増加策として」などという動機づけが 無いと動かない、
  日本人の心理構造自体に重大な問題が潜む、と考えたい。
・ 地中に埋める工費が高くつく、というのは明治このかたの都市計画の貧困がスタート。維新の頃の都市化状況を考えれば、人家少なく、江戸でさえ道路も新たに造成したのが
  殆ど。当時、若し明治政府が法令化していれば電柱の無作為な乱立は起こらず、都市化の拡大と軌をいつに電線埋設は円滑に行った筈だ。

◆ さて、過ぎし昔を愚痴ってもしようがない。欧州・アメリカでは何故、郊外を除き、電線が世に普及した19世紀末以来、都市部で最初から地中に埋めたのか?
 答えは簡単。美しい都市を守ろう/創ろうとの意識が為政者/市民双方に疑いなく溢れていたためだ。<観光客を増やそうとか、~の行事に為に>ではなかったろう。 
 ここが日本人との決定的な差だ。 『街の美しさを守る理念/理想のためには金が幾らかかろうが、大局的/長期的視野にたち、醜い電柱は立てない』

 人口減少でもう都市部以外で集落が増えることは殆どないので、既存の都市部でも埋設指定地域を選別すれば、全国3,500万本といっても実際の対象は減るだろう。全国一律に電柱ゼロを目指す必要は毛頭ない。 観光地優先、大都市優先は避けられないが、30年から50年計画を描けばよい。都市計画税に費用負担を含むことは当然だろう。
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≪ 生前退位 vs 元号 ≫ 「元号=時代感覚」肯定の危険性   君主制と主権在民の並立を どう守るか?

2016-10-22 14:48:13 | 時評
 ★ 私の意見/5止 元号の意味づけ変化も 的場順三・元内閣官房副長官 http://mainichi.jp/articles/20161022/ddm/002/040/054000c?fm=mnm
・ 生前退位が実現すれば、元号制定に関して少なくとも二つの影響が出る可能性があると考えている。一つ目は内々に行われてきた選定作業を続けることが困難になるかも
  しれないこと。
・ 二つ目は、改元を「一つの時代の区切り」と捉えてきた国民の意識が変わるかもしれないことだろう。
・ 多くの国民は元号を単純な記号ではなく、「時代を表象する言葉」と捉えてきた。「昭和」と聞けば、人によって抱く印象は異なるが、私の世代の多くは「敗戦と復興」を
  想起するだろう。昭和天皇が亡くなった際は、戦争とは無縁の時代に入ったと感じたものだ。
  一方、生前退位による改元となれば、「世代交代」的な感覚は生まれても、「時代の終焉(しゅうえん)」という感覚にはならないかもしれない。
⇒ 的場氏の此の指摘こそ、明治以降の天皇制が秘める<一世一元号>が日本の歩みに果たしてきた役割がどういうものであったか。そして、<「時代」感覚を天皇が体現する姿での天皇制を肯定する立場に立つ君主制の在り方論>を考えさせてくれる重要な視点である。

◆ 周知のとおり、欧州の君主国に「元号」は無い。例えば<ルイ3世><ジョージ〇世>といった具合に君主個人の名前が王朝の称号でもあった。
  東洋では、辛亥革命以前の清朝まで、中国の王朝は出身民族を問わず「~帝」が生死とは別に元号を複数回名乗った。日本でも、飛鳥時代このかた江戸時代までは
  天皇あるいは上皇などが何度も改元している。 改元の意図は其の君主なりに治世の間の平和を祈る気持ちや天変地異からの復興を願う祈りでもあった。
  それは明治から現在までの改元意図でも同じだろう。だが、その素直な気持ちと<一世一元号>の必然性には何の脈絡も成り立たない。

 私が問題にしたい疑問は、もし生前退位したら今上天皇は元号「平成」とは切り離されるわけで、新しく即位する次の天皇が共に居るからといって、国民の「時代感覚」に何か変化は生じるだろうか? 生じたとして、それがどうした?という点だ。 寧ろ<天皇が亡くなったことを惜しむ気持ち=時代感覚=ひとつの時代の終わり>という定型化は、象徴天皇といいながら、結局この国は天皇が支配する主人だ、との伝統的情緒を擁護する働きをするのではないか?  其のマイナスこそ問題視すべきではないのか?
  明治維新から約150年、明治政府が創った新しい天皇制も150年。それは≪憲法は変わっても、国民と君主の関係性は変わっていない≫150年であるから、君主制という本質的には主権在民とは対立する仕組みの中で、(主権在民/象徴天皇)とどのように併存させてゆくのか?
 生前退位は(安倍首相が口した意味とは恐らく違う視座から)国の根本的な在り方を国民が逃げずに考えるチャンスを平成天皇が与えた、と考えたい。

洋の東西を問わず、君主制を廃止した国が全て民主的な国家になったわけではないが、日本は、支配者ではない君主をたてた立憲君主制という極めて難しい仕組みを選んだのだ。  あくまでも国民の大多数が君主制を肯定している事実は、主権在民の推進と両立させるべきものだ。
       間違っても、天皇制擁護を国家主義的強権統治に回帰したがっている勢力の口実に使わせてはいけない。
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≪ ”土人”+”シナ人” 大阪府警機動隊員の妄言 ≫ 琉球/蝦夷への植民地意識 150年経っても抜けず

2016-10-21 08:56:11 | トーク・ネットTalk Net
 ★ (社説)「土人」発言 差別構造が生んだ暴言 http://digital.asahi.com/articles/DA3S12617948.html?rm=149
・ インターネットの動画サイトに2人の隊員が「どこつかんどるんじゃ、ぼけ、土人が」「黙れ、こら、シナ人」とののしる様子が投稿され、発覚した。
  ヘイトスピーチを想起させる発言を、公務中の警察官がすることが不適切なのは言うまでもない。菅官房長官は「発言は許すまじきこと」と述べ、警察庁が対応すると説明した。
・ 驚いたのは、大阪府の松井一郎知事が自身のツイッターに、「表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。
  出張ご苦労様」と書き込んだことだ。 沖縄の人々の気持ちや苦難を思い、寄り添う姿勢がみじんも感じられない。加えて記者団には、工事への抗議活動に疑問を呈する
  発言までしている。
⇒ 暫く多忙で本コラムに向かえなかったが、TVニュースで此の暴言を吐く若い機動隊員の顔を捉えた動画を視たので、必ずコメントせねばと思っていた。
  更に驚いたのが大阪府知事の発言だ。これでは幾ら官房長官がお決まりの殊勝で当り障りの無いセリフを吐こうが、府知事が政権党と寄り添う<日本維新の会>の体質を
  見せつけたわけで、ああ、やっぱりな、と今の政治状況に私は深い絶望感を覚える。

 だが絶望感で終わってはならず、此の差別語は<日本社会の差別構造>という抽象的且つ聞きなれたメディア用語で読者の耳を通り過ぎさせてはいけない重さを持っていることに気づかねばならない。何故なら「土人」は<未開で遅れた者ども>という見下しであり「シナ人」は徳川末期までは独立した国であった琉球王朝と清朝が近かった事実を踏まえた<敵対意識>と<中国人蔑視>を顕わしているからだ。

 これらの差別語は、日本本土に住む国民一般の心の奥底に潜む歴史認識を鮮やかに炙り出した。幕末近く、江戸幕府は薩摩藩に命じて琉球へ侵攻させ、琉球藩と名づけたうえ、チカラづくで編入した。明治4年の廃藩置県後に「沖縄県」としたことは歴史の授業で習ったことである。これは文字通り武力による併合で、日本の領土拡大の一環である。
 また北に眼を向けると、北海道は明治以前まで「蝦夷」と呼ばれていた。北海道の歴史は平安期から連綿と続く北への領土拡張の最終章にある。アイヌ人を武力で制圧した和人(=今の我々)が、江戸期には函館近辺を支配し、明治維新後は千島列島迄を含む大日本帝国領土に編入した。これまた日本史の教科書に書かれている。 
<日本は単一言語の単一民族国家だ>という刷り込みが嘘八百であることは、此の琉球と蝦夷への侵略/編入を考えると直ぐにわかることだが、明治政府このかた現在も此の神話は正当化されている。 
 大阪府警機動隊員の暴言にはこの様な歴史認識=<日本は単一言語の単一民族国家だ>という刷り込みが横たわっている。これを無理やり言い込める限り、今後も絶対に同様の差別意識は我々から抜けないし、暴言は繰り返され、侵された側の人々を傷つけ続ける。 そう私は断言する。 
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