静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

「国の催事やで!決まったことやで!」 吉本興業前会長・大﨑洋氏が万博延期論を一刀両断

2024-01-31 16:57:17 | 時評
★ この大崎という人は70歳だとある。戦後の昭和を通ってきた世代であるが、私は大崎氏の「クニ」「国家に役立つ」に驚き、天を仰いだ。
――大﨑さんやダウンタウンの関わりなど、万博に肩入れしているようにも見える。
「肩入れというか、だって、国の催事やで! 決まったことやで! それに、参加することに、別に法律で決まってないけど、法律で決まったのと同じように、国の催事に参加すること、こんな名誉なっていうか、有難いっていうか、一国民としてそこに参加して少しでも国のための役に立ちますっていうのは何ら悪いことではない」

* <クニの行事だから名誉><決まったことだから止めてはいけない>この理屈。。。ヒト昔前の帝国翼賛議会議員のセリフに瓜二つではないか。
  たぶん国民の大半は同じなんだろうな。

* 自公政権が圧倒的に支配できる国会を創り出した有権者に、関西・大阪万博をなぜストップさせなかったのか? という反省は? 有る筈ないな。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評182-3】〆    信時 潔 音楽随想集  ~バッハに非ず~     信時 裕子 編   (株)アルテスパブリッシング    2012年12月 発刊

2024-01-31 15:28:04 | 書評
 私が22本の中から選んだ6つの随筆で、日本の音楽界全般について信時氏が思いを述べたのは『日本音楽界の現状と其の将来についての随筆的考察』唯、ひとつだ。
本書に収められていない文章の中に同種のモノがあれば別だが、最も真近に居た編者の眼に留まらなかったのなら、これが多分唯一だろうと解釈しておく。

 氏が『考察』に挙げているポイントで私に印象深いのは、明治維新以後輸入された西洋音楽は楽器・楽譜・演奏技術・教育方法全てにおいて一方通行の受容であったが、
かといって邦楽は駆逐されず、西洋諸国に見られたような破壊的争いも起きず、静かに共存し続けてきたという指摘だ。これは洋楽の輸入と振興に政府が介入したのが学校教育
だけであり、交響楽団、歌劇団、演奏劇場やホールの建設、啓蒙活動や洋楽演奏家育成は民間の自発努力に任せてきた歴史と関連しているという。
 信時氏が若かりし明治、洋楽に関わる者は(変わり者・奇人)扱いだったというから、一部のヒマとカネの有る者による(かぶれ)という始まり方だったのだろう。

 外国から到来したものを排斥するのでなく横目に受け入れる長年の所作。邦楽に物足りない部分を感じたら洋楽から取り入れる試みは大正・昭和と変わらずにきた。だが、
邦楽に和声は無く「詩」に歌をつける構えなので、声が楽器を従える伝統の真逆な西洋の器楽作品や大音響の交響楽とは相容れない。能・狂言・歌舞伎のセリフと単旋律の伴奏音楽がオペラに近寄るか? といえば、邦楽の側から西洋音楽に融合しようとする努力が無いわけではないが、孤高を保つほかないのでは?というのが私のみるところ。

 信時氏は『考察』の最後で<器楽の進展は音楽国際化の一要件である>と述べ、≪日本将来の詩が新しい音楽性を加えて、読む詩・朗読する詩の他、歌うに適する詩へと進み、内容に・形式に・音楽との結合条件が更に豊かなものになって欲しい≫と結んでいる。『考察』の書かれた1960年から早くも65年近い。氏は1965年に没しているので、その後の日本の洋楽・大衆音楽・邦楽の変化を観る事がなかった。 武満徹氏の歌曲などはどうだろう? 日本の音楽は信時氏の願った通りの道を歩んでいるのか?   < 了 >
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

≪ 見過ごせない報道 ≫  ハーフライフル銃の規制    儒教伝統と自由資本主義    日本人の「高い識字率伝説」の原因?

2024-01-31 13:58:00 | 時評
◆ 【文春オンライン】若手ハンターが巨大ヒグマに接近して駆除するしかなくなる? 規制が近づく「ハーフライフル」とは何なのか 「石動 竜仁」
* 今回の警察の銃刀法改正案の背景には、2022年の安倍元総理銃撃や、2023年の長野県中野市での4人殺害事件といった、相次いだ銃による犯罪が挙げられている。しかし、安倍元総理の銃撃に使われたのは手製の
  散弾銃だ。中野市の事件ではハーフライフル銃が使われたが、被害女性2人は刺殺で、残り2人の警官は乗車中のところを運転席の窓から至近距離の発砲を受けて死亡したと報じられている。
   ハーフライフル銃の利点である有効射程の長さと全く関係がなく、ただの散弾銃であっても近距離から撃たれたのなら結果は同じだったと思われる。つまり、今回の銃刀法改正案で、ハーフライフル銃を規制する
  理由としては不適当だろう。

 ⇒ 規制理由が非論理的であることため大型獣に苦しむ各自治体から規制撤回を求める声が日に日に多くなっていると聞く。これは信じがたいほどの感情論であり、
   典型的な日本型法規制である。撃たれた警察官遺族の声が言わしめているのだろうか。 もしそうならば、遺族当事者には大いに反省を促したい。
   規制がハンターの減少を助け、人命の危険や獣害の拡大に結びついたら、遺族は責任をとれるのか?


◇ 【Record China】韓国を旅した米有名作家が「世界で最も憂鬱な国」と評価:(翻訳・編集/麻江)
 * 2024年1月28日、韓国・聯合ニュースは「人口10万人当りの自殺者数が経済協力開発機構(OECD)加盟国で不動の1位を記録する韓国のメンタルヘルス危機について米国の有名心理研究者が語った動画が話題と
   なっている」と伝えた。「その『決断』がすべてを解決する」などを執筆したベストセラー作家でインフルエンサーのマーク・マンソン氏が先ごろ、自身のYouTubeチャンネルに「世界で最も憂鬱(ゆううつ)な
   国を旅した」とのタイトルで約24分の動画を投稿した。
    動画の中でマンソン氏は「韓国のメンタルヘルス危機を理解するには、1990年代の人気ビデオゲーム、スタークラフトにさかのぼる必要がある」とし、このときに得られた成功公式がその後いくつもの産業に
   複製されたことに注目すべきだと語っている。例として、K-POPスターやスポーツ選手が幼いうちから合宿生活を送っていることなどに触れ、「もっと上達せよと強要し、優秀な結果を出すために社会的圧力を
   加え、競争させることは効果的な公式だと立証されたが、心理的な落ち込みを招いた」と指摘した。

 * 結果、経済は成長したが、「みんなのために自らを犠牲にすることを強要する儒教文化が根深いことも、社会的孤立と孤独を深めた」としている。韓国人は儒教的な基準で常に評価されながら、個人的な成果を
   出すことも強要されていることが問題だと指摘。「韓国は不幸にも儒教の最も悪い部分を残し、最も良い部分である家族・地域社会との親密感は捨ててしまったようだ」
   「資本主義の最悪の側面である物質主義と生活費問題を抱え、最も良い面である自己実現と個人主義は無視した」とし、「このような矛盾した価値観の組み合わせが大きなストレスと絶望につながるのでは」
   との見方を示した。
  ⇒ <儒教文化の長短+資本主義の長短>の両方にマンソン氏が触れているのは秀逸だ。然し、これは日本社会にも当て嵌まることではないか?


★ 【産経新聞】日本人の識字率は高いのか 揺らぐ根拠、戦後教育にも影響?:(大泉晋之助)
                      
 此のQRコードは連合国軍総司令部(GHQ)の意向を受けて昭和23年に行われた調査票の現物写真。結果は26年に「日本人の読み書き能力」(東京大学出版部)として
公表された。調査は全国の15~64歳を対象に約1万7千人が参加。全90問の90点満点で、0点(1・7%)は「かなさえ正しく読み書きできない」と評価され、これに「かなはどうにか読み書きできるが漢字はまったく読み書きできない人」を加えると計2・1%だった。約70年間、この数字が引用され、「日本人の識字率は極めて高い」との評価につながってきた。
  お読みいただくと一目瞭然だが短文に漢字を並べただけの選択式回答であり、しかも漢字には全てルビが振られている。其の内容は『漢字や言葉を意味と併せて識別する
能力』を判定するのに適切な設問か?素人の私でさえ首をかしげてしまう。これでは「日本人の識字率は高い!」と誇示したがった敗戦後の劣等感の裏返しとしか見えない。

 漢字に限らず<言葉や字を識別する>とは、意味の違いに加え、読み方の正誤判定も入るのでは? 書かせるのでもなく、ルビを振るのでは読めない人を「識別」できない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評182-2】  信時 潔 音楽随想集  ~バッハに非ず~     信時 裕子 編   (株)アルテスパブリッシング    2012年12月 発刊

2024-01-29 09:50:50 | 書評
 私が読了後✔をつけた随筆6本のタイトルは、以下の通り。
①「私の洋楽遍歴とバッハ」②「聴覚を失ったベートーヴェンが何故作曲できたか」③「とわれるままに」④「日本音楽界の現状と其の将来についての随筆的考察」
⑤「歌詞とその曲」⑥「南方熊楠翁ーー荒野のひと月」
  娘である信時裕子氏が本書のタイトルに『バッハに非ず』と銘打ったのは、ベートーヴェンがバッハを讃えた言葉から、と冒頭の短いエッセイ<バッハ小感>にある。
独語bach は英語でstream/creek と翻訳されるのだが、ベートーヴェンが「バッハは小川どころではなく大海だ」と尊崇したくらい父信時氏も尊崇した、との思いからだろう。

 信時氏のバッハへの思い入れは①と②に強く現れている。19世紀ヨーロッパ音楽隆盛の源がベートーヴェンにある事は何びとも否定しない。そのベートーヴェンが若き日、
バッハの作曲技法を深く研究したことも良く知られている。同じ言い方をするなら、ハイドンやモーッアルトも先人と仰いだのはバッハ&ヘンデルであった。
 一度は教会音楽の霧の彼方に埋もれたバッハの価値を再発掘したメンデルスゾーンは、自身の作品価値は別に、バッハにスポットライトを当てた功績だけをもってしても
後世の我々からどれほど感謝されても余りある偉人だ。

 19世紀ロマン派作品は現在も西洋古典音楽の中心的存在でプロ・アマ問わず演奏機会の大半を占めるが、内省的時間に浸るひととき、人生を想う束の間、私の脳裏を流れるのはバッハとヘンデルであり、コレルリやヴィヴァルディなどのバロック作曲家たちの遺した世界である。ヴァイオリンの函を開けて演奏を楽しむ時、指ならしにすさぶのもバッハやヘンデルのソナタだ。(ベートーヴェンやブラームス、フランクのソナタとなると、思わず両眉が寄り、眉間に皺が走ってしまい、疲れるのだ)

 思えばそれは少年時代に始まり、大学でオーケストラに行かず室内楽サークルに入ったのも、60年代に人気を誇ったバロック音楽の魅力に心安らいだからであった。ただでさえ不安な年齢であった当時は社会が騒然として大学は大荒れに荒れ、何のために進学したのか?これから日本はどうなってゆくのか? などなど心が揺れた。そんな日々、
静かで澄んだ和声と明るく輝かしいイタリアンサウンドや無機的にも聞こえるバッハの建築構造物的世界は、此の世離れした神々しさに溢れ、私のオアシスであった。

 私が言うまでもなく、音楽学でいえばバッハの功績は「対位法」の完成が一番だが、未だ楽器が19世紀に比べ未成熟で種類も少なかった18世紀前半の環境であれだけ普遍的に胸を打つ作品を残した点は幾ら強調しても足りない。ハイドンやモーッアルト以降、19世紀に華開いた作曲家たちのメロディアスな抒情とは違い、ヴィヴァルディ、ヘンデル、バッハの旋律の抒情性は時代が異なるから当たり前なのだが、まるで世界が違う。安らぎが違う、といおうか。

 基本的に信時氏の西洋音楽認識・評価は、バッハ~ベートーヴェンに流れる太い潮流の賛歌がバックボーンにあり、ここは不肖私も同感だ。恐らく異を唱える御仁は居まい?
さて本書のもう一つのポイント、それは明治から戦前までの日本の音楽界&音楽教育に対する信時氏の切なる想いを述べた随筆だ。次はそれらを観てみたい。 < つづく >
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評182-1】  信時 潔 音楽随想集  ~バッハに非ず~     信時 裕子 編   (株)アルテスパブリッシング    2012年12月 発刊

2024-01-28 21:04:37 | 書評
  本書は戦後になって書かれた随筆22本、座談会記録3篇、3人による追悼文から成っている。此の内、随筆6本と並び、私が興味深く読んだのは意外にも座談会だ。
其のわけは、座談の相手が音楽界の人であれ、美術界からの場合でも、日本と西洋の文化対置から日本の音楽や芸術全般の将来を案じる信時氏(1887-1965年)の真摯な姿勢が
終始一貫しているからだ。それは、氏の生きた時代背景に照らすと頷ける。77年の生涯最後20年が戦後であり、前の57年は明治期に成人してからの人生であった。

 同時代を生きた山田耕作氏(1886-1965)が東京音楽学校の指揮科を出てドイツに留学したあと、日本初の交響楽団づくりに奔走し、オペラ上演に燃えた生きざまと比べ、
信時氏の歩みは対照的に質素きわまりない。弟子だった高木東六や団伊玖磨によれば「女性関係にルーズで猥談好きだった」という奔放な山田氏と信時氏は対極を生きた。
唯、山田・信時の両氏が残した作品の殆どは歌曲だが、山田と違い信時が遺した作品に映画音楽・管弦楽曲・交響曲はなかった。此のあたり信時には「唱歌」「童謡」「歌曲」の作曲が精一杯のレベルだったと言わざるを得ない。

 戦時中は両氏とも軍部の圧力で戦意高揚歌・軍歌を創らされたが、山田が作った曲の数はここでも信時とは比べ物にならないほど豊富だ。戦後の戦犯追及に際し山田は無言だったが、信時は本書で遠慮した言い回しながら『海ゆかば』が学徒出陣や戦意高揚番組のテーマ音楽に用いられた悲しみを冷たく述べている。
よほど辛かったのか、随筆で饒舌な信時はそこにいない。とかく信時の名前は『海ゆかば』に紐づけられがちだが、それはジャーナリズムの狭量さを示すものだろう。

 さて、次からは、印象に留まった随筆6本から私が感じ取った事について述べてようと思う。           < つづく >
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする