静夜思

愁多酒雖少 酒傾愁不来

ヘイトスピーチ:「問題だ」が9割    都道府県・政令市、国の規制求める--毎日新聞調査

2014-08-28 12:24:42 | 時評
 先日から私も本ブログで取り上げているが、上記の調査結果が報道された。  詳しくは;http://mainichi.jp/shimen/news/20140828ddm001040152000c.html
 都道府県と政令都市の反応やコメントは概ね私が予想した範囲であったが<現状認識については、全67自治体のうち、59自治体が「問題だ」と回答。28自治体が「規制が必要」と回答し「規制は必要でない」はゼロだった。しかし「憲法に保障された表現の自由との関係もある」(栃木県)との懸念も多く、明言を避ける自治体が39に上った>との記述は気になる。
  そもそも「思想の自由」とは頭の中でどのようなことを考えようが、そう思うこと自体を何人も規制されない自由である。だが「表現の自由」とは、例えば殺人肯定の言葉を表現する自由は認めないことではなかろうか。何故なら、宗教・文化を問わず古今東西、殺人は<人間存在の根底と社会生活の存立を脅かす行為>ゆえ、人類は等しく「他人の命を奪う自由」を認めず、それを自由として表現することも認めてこなかったからだ。(戦争による殺し合いが何故いけないことか、の理由づけもこれなのだ。)

 ヘイトスピーチは特定の民族・人種に対する差別・軽侮の感情と意識を言葉で表現する行為であり、<人間存在の根底と社会生活の存立を脅かす行為>という点では殺人に匹敵する他者の存在否定なのだから「表現の自由」で保護されるべき行為ではない、と賛同するならば<「憲法に保障された表現の自由との関係もある」(栃木県)との懸念>が人間として正しい懸念かどうか? ・・・・改めて言うまでもない。

                     【 明日より9月6日まで 旅行ゆえ投稿を お休みします 】
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

安倍首相:戦犯法要に追悼文 4月  「魂を賭して祖国の礎に」

2014-08-28 10:42:55 | 時評
 今朝の毎日朝刊に上記の記事がある。記事によれば<安倍晋三首相が4月、A級、BC級戦犯として処刑された旧日本軍人の追悼法要に「自民党総裁」名で追悼文を送っていたことが27日分かった>   ← 4ヶ月も過ぎた今頃になってわかったとは驚いた。 いや、伏せていた?
 <法要は4月29日、和歌山県高野町の高野山真言宗「奥の院」で行われ、処刑された戦犯を「昭和殉難者」として追悼した。共催した旧陸軍関係者や自衛官OBで作る「近畿偕行会」によると、首相の追悼文は書面で寄せられ「自らの魂を賭して祖国の礎となられた昭和殉難者の御霊(みたま)に謹んで哀悼の誠を捧(ささ)げる」とした。首相の追悼文が届いたのは昨年に続いて2回目。法要が行われた奥の院の追悼碑は、連合国軍の戦犯処罰を「歴史上世界に例を見ない過酷な裁判」と記している>。
 <菅義偉官房長官は同日の記者会見で「私人としてのメッセージだと思っている。政府としてのコメントは差し控えたい」と述べた。菅氏は会見で、「我が国はサンフランシスコ平和条約において裁判を受諾している。このことは再三申し上げている」と述べ、東京裁判に関する政府の立場に変更はないと強調した>。

 ここまで読み、外国人(中・韓に限定しない)がこの記事を目にした時、どういうふうに解釈し、疑問を抱くとすれば、どういう点だろうかと考えてみた。

 1) 日本国内では、極東軍事裁判で戦犯とされ処刑された人が「殉難者」として追悼され続けている。この仏式法要は私的体裁をとるが、現職の首相が(安倍晋三ではなく)     政党の総裁名で追悼文を寄せるというのは、総理大臣として靖国神社に参拝するのと同じ意味をもたせた"公の行為"である。
 2) この行為は、現在の日本国政府と国民の多数が(たとえ反対勢力が存在しているとはいえ)戦犯を追悼し続けることで、過去の侵略戦争の責任者を弾劾せず、寧ろ赦すことを   肯定していると理解することになる。 ひょっとして侵略行為自体をも否認し始めているのか? では村山談話はいったい何だったのか、あれは嘘か?
 3) 神道、仏教いずれにせよ日本人は「たとえ犯罪人でも死ねば供養するのが文化伝統だ」との論理で釈明しているが、国家としての戦争責任を裁いた極東裁判を日本が受諾し   た以上、これらの戦犯の死は(宗教や文化伝統の範疇で処理されてもよい)個人としての死ではなくなっている、という戦後処理の国際了解を否定するものである。日本文化の   特殊性として逃げようとしているのではないか?
 4) 内閣官房長官の言葉は、この戦後処理の国際了解を否定しないというかたわら、「私人としてのメッセージ」なる言辞で明らかに公的行為であることを否定している。この矛盾   に満ちた発言は首相や閣僚の靖国参拝時に繰り返されるのと同じ<言いくるめ>でしかない。

 どうであろう、ここまで。私が想像する外国人の論理ではこう解釈されていると思う。 ≪だから何だ?  1)から4)までのとおりでどこがいけない?≫ と仰る方が老若問わず国民の多数派なのだろうか? 正直、私は掴み兼ねている。
   仮に私が想像した論理で多くの外国人に捉えられているとすれば、その先にあるのは・・・・・日本国・国民への不信感ではあるまいか?
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

再びサッカーサポーターの人種差別言動について    <連帯責任の悪弊>

2014-08-26 09:21:07 | 時評
 今朝の新聞報道では<Jリーグの村井チェアマンは横浜マでは初めてのケースであることを考慮に入れ、「2010年5月の仙台-浦和戦での浦和の最初の差別的行為(に対する処分)が基準になる」とした。この時、サポーターが外国籍選手へ侮辱的やじを飛ばし、制裁金500万円が科された。
 今年3月に浦和サポーターが差別的横断幕を掲げた際は、2度目の差別的行為であり、横断幕を撤去せず放置するなどクラブ側の対応にも問題があったため、無観客試合の厳罰を科された。一方で横浜マは差別的行為をしたサポーターを試合中に特定し、無期限入場禁止処分とするなど迅速に対応したことからも、無観客試合などの重い制裁にはならない見込みだ>とある。
 また、毎日は社説で<この反省と教訓が今回、横浜マの素早い対応につながったと言えるだろう。その日のうちに男性に対し無期限の入場禁止処分を下すことを決め、週明けの25日には社長がJリーグに出向き、村井満チェアマンに「差別的挑発行為」と報告した。Jリーグは早期に制裁を科す方針だ。
 スタジアムと社会はつながっている。差別は絶対に許さないというメッセージを社会に発信する契機ととらえ、JリーグはFIFAなどにならい、「ノートレランス(非寛容)」の精神で臨むべきだろう>と取り上げている。

 これを読み「これが今の日本での解決策なのだな」と改めて思うと同時に、やはり私は何か割り切れない。制裁金・無観客試合・無期限入場禁止処分などの処置が有効でないとは言わない。このチームに限らずサポーターの輪の中では徐々に戒めは浸透してゆくだろう。だが、これは飽くまでも、横浜マリノスを興行運営するチームがサポーター組織を連帯責任でかばい、且つ指導する構図であり、チーム代表/社長?が親になりかわり説諭する姿が垣間見える。未成年かもしれないが、差別的行為をした当人がどこまで制裁を理解し行動を改めるか、社会全体には見えてこない。
  
 日本では集団の中で、連帯責任という網の規制のみが個人の行動を他律的に支配する。それは「皆に迷惑がかかるから」「XXさんに叱られるから」~してはいけませんと幼児から教える家庭/学校/社会教育の延長でしかない。
 他人への迷惑だけではなく<何故、それは人間として行ってはいけない言動なのか>の理詰めの説明で諭す躾け・教育が欠落する延長線上に一連の対処はあると思えてならず、徹底さを欠くまま人種・民族差別は続くだろうと私は暗くなるのである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

横浜マリノスサポーターの人種差別行為   <人種差別言動は刑事犯罪の対象にするよう法規制すべきだ>

2014-08-25 16:04:54 | 時評
 <23日のサッカーJ1の横浜マ-川崎戦で、横浜マの10代後半の男性サポーターがピッチに向かってバナナを振る人種差別的行為をした問題で、横浜マの嘉悦朗(かえつ・あきら)社長は24日、川崎の武田信平社長に電話で経緯を説明し、謝罪した。また横浜マは、このサポーターが直筆で書いた謝罪文を川崎に提出した>という。
 先だって外国でバナナを振る同様の行為に対し、対象とされた有色人種の選手が黙ってバナナを食べた行為が話題になったことを記憶されている方もいよう。食べて見せたスマートな対応が話題になったため、今回の少年はメディアの注目が単に欲しかったのかもしれない。だが、10代後半といえば「してはいけないこと」を弁える思考力が身についている筈の年齢では?・・・・と私は期待するが、最近は異なるのだろう。
 仮に軽薄な模倣行為だったにせよ、如何なる言い訳も許されないことを本人はどこまで理解して謝罪文を書いたのか。(保護者が居るならば)保護者は日本的言い訳の「世間を騒がせたから・・・」ではなく「人種差別言動は何故してはいけないことなのか」の本質を説諭して欲しい。
 
 人種差別を味わう口惜しさ・怒り・哀しみは体験せねばわからないものだ。私自身、米国での体験者だから痛いほど解る。それは人間の基本的権利(=人権)を傷つける点で、立派な犯罪行為なのだ。(いたずら、悪ふざけ)で片づけることなどできないシリアスな犯罪である。人権意識の高い欧米諸国が、何故あれほど厳しく取り締まるのか? その歴史と背景を日本人はもっと考えないといけない。
 <大久保は欧州でプレーしていた時に人種差別的な言動を受けた経験に触れ、「重い処分が必要。その人(サポーター)だけの処分で終わらせるのは良くない」と断罪した>とある。大久保選手のいうサポーターだけの処分で終わらせないとは具体的にどういうものか、私にはピンとこないのだが、間違いなく、謝罪文だけで終わらせないことには大賛成だ。

 では、どうすれば良いのか? 私の答えは、ヘイトスピーチ等も含む一切の人種/民族差別言動の刑事犯罪化である。何故なら、民族/人種差別は言論・思想の自由で擁護されるものでは断じてないからだ。
 被害者が提訴せねばうやむやにされる風土を変えるべく大阪では裁判沙汰になったが、幾ら裁判を起こしても、刑事罰の対象になるほど重大な人権侵害であるとの社会教育が欠如し続けるなら根絶はとても無理だ。刑事犯罪にすることでようやく確信犯的行為も模倣行為も減少し、波及的効果として部落差別改善への好影響も期待できるかもしれない。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

北九州の旅 <#2>   大刀洗平和記念館・・・平和を祈るとは?

2014-08-25 08:29:44 | 旅行
 。
 22日、JR・長崎本線で基山(きやま)へ。前夜の豪雨の影響が残り特急の運休が続くせいか、私が乗った「特急かもめ8号」は超満員。然し長崎・佐賀から福岡県に入るあたりから雨は小降りになり、基山から甘木鉄道で大刀洗に向かう頃から晴れ始めた。・・・・雨男ならぬ晴男かな、とくすぐったい。
 大刀洗駅を降りると直ぐ目の前に記念館がある。想像していたよりも大きな建物だ。受付周辺に60年配の男数名が忙しげに立ち歩く。元警察官もしくは消防官か、と想像させる所作だ。展示は1階がメインになっており、大刀洗が昭和の初めから陸軍の航空基地と訓練施設として発展した歴史を前面に出している。輝かしい航空技術発展史と共に歩んだ誇り、とでもいおうか。展示パネルの説明は悉く栄光を忍ぶトーンに満ちている。<特攻出撃>に触れる説明は探すのに苦労するほど影が薄く、私はいささか拍子ぬけした。

 先月ずっと取り上げた<いま靖国から>で紹介されたゼロ戦が、入口から直ぐの場所におかれている。確かに目立つ展示にはなっている。説明にあたっていた人の説明では、南洋某島のジャングルに墜落したままになっていた機体を修復したものだそうだ。ここに百田尚樹が来てアジテートしたのか、と想像すると心地よくはない。客寄せパンダです、と運営側は割り切ったつもりでも利用する側には目算がある。
 小中学生とみられるグループを引き連れた説明員はゼロ戦の前では1分も割かず、同じ1階フロアーに展示される九七式戦闘機(平成7年博多湾から引き揚げられた)の前では熱が入る。勘ぐれば、ゼロ戦は海軍所属であり、ここは陸軍基地だった、という想いが如何にも滲み出ている。
 1階中央に丸く壁で囲んだスペースがある。中は昭和20年3月の空襲で亡くなった人たちの名前入り遺影が壁一面に掲げられていた。何と驚いたのは、その空襲時、飛び立った戦闘機に体当たりされ墜落したB-29搭乗員も同じ壁面に飾られていたのだ。また、別のブースでは映画上映と「空襲被害の語り部」ボランティアによる朗読も行うという(但し、予約した団体のみが対象)。
 ここまでお読みになり感じられたと思うが、想像してたのと違い、展示・説明・全体の雰囲気には国粋的な戦前の礼賛めいたものは感じられず、「東洋一の航空基地であった栄光」「それゆえ受けた大規模空襲の悲惨さ」がメインテーマとして絡み合った演出だ。・・・だが、私には違和感がどうしても残った。何故か? 同記念館のパンフレット表紙に<平和の大切さを語り継ぐ情報発信基地>とあるからだ。

 空襲被爆の悲惨さ・酷さは<戦争の愚かしさ>を訴える反戦教育にはなる。然しながら、民間人を含む戦死者の犠牲を悼むことが美談に仕立てられるのはどこでもある容易な短絡であり、その延長線上にゼロ戦展示があるように受け取られやすいのも否定できない。それが<戦争の犠牲を払ったから今日の平和がある>という言い方に結びつくのは正しい論理展開ではない。詮じつめれば<特攻含む戦争遂行と犠牲がなければ平和にはならなかった>というすり替えが働いているためだ。このすり替えに靖国を頂点とする様々な国家主義潮流の忍び寄る余地が潜むのである。愚かな道を突き進む戦争に敗れた結果として<戦争をしない国、平和に徹しようと誓う国>ができたと教えるのが本筋ではないか??そこに犠牲の逸話は許されても、美談は介入してはいけない。

 愚かな戦争は繰り返すまい、そのためにはどうすればよいか・・・との訴えが伴った展示になってこそ、美談に包まれた戦争肯定を排除し、単なる悲惨さだけをアピールする消極的な反戦平和教育から脱皮できる。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加