静夜思

愁多酒雖少 酒傾愁不来

★ 2015.10.31  ≪ いま スターリンの粛清追悼式典とは? ≫ 

2015-10-31 13:42:14 | つぶやき
 ★ ロシア:ルビャンカ広場で粛清悼む式典 http://mainichi.jp/select/news/20151031k0000m030136000c.html
・ 独裁者スターリン支配下の1930年代、ソ連で数百万人が犠牲となった「大テロル(粛清)」の死者を悼む式典が29日、モスクワ中心部のルビャンカ広場で
  開かれた。朝から夜まで12時間にわたった式典では、集まった市民が犠牲者の氏名、年齢、職業、処刑日をリレー方式で読み上げた。プーチン政権のロシアで
  第二次大戦に勝利したスターリンを肯定的にとらえる見方が強まる中、異質のイベントとなった。

 ⇒ 本当に我が目を疑った。今、なぜ? いわゆる”ガス抜き”?  いや、そんな必要に政府が迫られているようには報道からだけでは思えないが。
  スターリン時代のような圧政を自分たちは行っていないよ、という宣伝だろうとは容易に思いつくが、人権団体の主催と銘打っているところが曲者ではないか。
  今の中国と表面的には異なり、一応、複数政党から成る2院政議会をもつが、選挙制度をみれば欧米式の完全普通選挙とは呼べないうえ、様々な影の圧力が欠けられるようだ。 どういう意図、或は前触れなのか。  注視したいものだ。
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  ≪ 直接選挙による議会制度経験を持たない 現代中国/国民の不幸 ≫ 

2015-10-29 09:43:02 | 時評
 ☆ 木語:  2000年前から法治=金子秀敏 http://mainichi.jp/shimen/news/20151029ddm003070064000c.html?fm=mnm
・ タイトルは、毎週木曜の毎日朝刊コラム「木語」担当:金子氏によるもの。
習近平主席が英国訪問時、英国下院で演説した際、バーコウ下院議長が、「ここでミャンマー民主化運動のシンボル、アウンサンスーチー女史が演説した……中国が強い国で、かつ道徳的霊感を与える国になるよう望むととげのある紹介をしたのに切り返し「「英国は最も古い議会制国家だが、中国も2000年前から法治を始めた」と法治では中国が先輩だとやり返した事についてである。
 習主席が念頭に置いたのは、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の時代の冷酷な宰相、李斯(りし)の「法治主義」と見られる。近代議会制は中国には不要なのだ。 2000年前の王朝を支えた政治理論に云う<法治>が、近代議会制民主制度と両輪の法治主義と同じでないことは高校生でも知っている。 習主席が本気で秦の時代の「法治」と英国で産まれた近代議会制度と選挙制度が同等だ、と思ってはいまい。いまいが、それでも強弁するところに滑稽さを通り越した悲哀すら私は感じる。
 中華民国が誕生した1912年から16年後の1928年、1院制の”立法院”が設置された。だが、国内外の混乱を理由に国民による直接選挙は行われず、国民党が指導的立場に立って国家を運営する<訓政期>とされたため、立法委員(=国会議員)は全員が国民党政府の任命であった。 その中華民国が政府の任命ではない国民の直接選挙を行ったのは、日本が大陸から敗北して去った後の1948年。 此の凡そ20年の間、順調な選挙や議会制度運営の経験をもてなかったことは現在の中国にとり誠に不幸なことであった。その責めの大半が大日本帝国の侵略による妨害であったことを思うと、結果論だが、日本は自らの手で非全体主義の中国を潰してしまった。実に愚かしいことだ。 台湾に逃れた中華民国政府は、紆余曲折を経ながらも現在は国会から市町村レベルまで直接選挙を実施する国になっている。
 1949年の中国共産党による武力革命後、現在まで中国国民は一度も直接選挙の経験は無い。「郷」「鎮」と呼ばれる村単位での自治運営委員を直接選挙で選ぶことが一部の地域で始まったというニュースは流れているが、周知のとおり政党政治は否定されており、複数政党により構成される統治制度は中国国民の手にはない。そのことを一般大衆が本音ではどう思っているのか、聞こうにも弾圧を恐れるあまり誰も口は開かない。
   嘗て、小平がシンガポールのリー・クワン・ユー首相(当時)と会見した際、リー首相が将来の直接民主主義導入の可能性について尋ねた。然し、小平の答えは「ノー」。その理由は”専制統治でなければ中国は統一を保てない”との信念であった。その信念とは長い多民族興亡の歴史からくる恐怖であろう。(このあたりはリー氏の自伝などを読まれたい。)新疆やチベットを武力制圧し、決して放そうとしないのも非漢民族からの圧迫への恐怖心でしかない。或は、中華民国時代の軍閥割拠を招いた<弱い中央政府の教訓>もあるだろう。開発独裁が建国期にはデモクラシーより効率的だということもあっただろう。

 ソ連がそうであったように、専制統治を崩壊させるのは経済破綻による軍事力低下だ。共産主義イデオロギーをかなぐり捨てた中国一般国民にとり、もはやイデア・理想の為に民族や国家を守るのではなく、豊かな生活を守るためにしか国家と共に歩むモチベ―ションは無い。だから資産を持てる豊かな人々は海外にリスク分散し、ひたすら経済的安定の維持が国是となっている。そのためには、なりふり構わず、どんなに笑われようが、ダメ元で国際秩序に挑戦してでも己が利益を守り、昂進させようとしている。 国家など信用しない歴史を長く生き抜いてきた中国人は、日本人以上に現世的・現実的な計算高さ・狡猾さを(悪)と思っていない。 そういう生き様が哲学的/倫理的に幸せか否か、など知っちゃいない。
 だが、近年の海外旅行で日本を始め外国を訪れる一般国民が増えるほど、物質的豊さだけでなく、生活する人々の彼我の違いに素朴な疑問をもつ人は増えるだろう。   そう期待したい。・・・・時間はかかるであろうが。
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 ”マンションの青田売り” に潜む日本製造業の倨傲   < 文化論として>

2015-10-28 14:46:15 | 時評
* 日本の分譲マンションは、「青田売り方式」で販売される。建物ができる前、ときには工事が始まる前に分譲が始まる。建物ができる前に販売を開始し、
  購入者は別棟の販売センターで模型や完成予想図、モデルルームを見て購入を決める。逆に言うと、この「建物引き渡し日が正確」であることを前提に、
  「青田売り」が可能になっている。
* 総戸数が数百戸の大規模マンションであれば、数百の人生・金融取引が建物引き渡し日に向けて進行する。その結果、建物引き渡し日は間違っても
  変更はできないという状況が生まれる。

* 日本を除く世界の国々では「青田売り」は行われない。建物の外枠ができ、後は内装や設備を入れるだけ、の状態で分譲されるのが主流である。内装や設備は
  購入者が決まってから工事される。  この方式を「青田売り」に対し、「スケルトン売り」と呼ぶ。建物の基本部分ができてから、実物を見せて分譲が
  行われるわけだ。
◆「スケルトン売り」が行われる背景には、「建設工事は、完成が当初予定より遅れるのが当たり前」という社会認識がある。訴訟大国のアメリカでも、
 「工事完成が遅れたから」という理由の訴訟は起きない。予定通りにいかないのが建設というものだと認められているのだ。
  だから、「青田売り」はできず、建物の基本構造が完成するのを待って、販売を行う。このやり方であれば「工期の制限」を受けることはない。
  くい打ちに失敗すれば、やり直す時間があるわけだ。
  「スケルトン売り」には、もうひとつ別の利点がある。それは、建物完成時の相場価格で販売されるので「工事費用の不足」を補いやすい、という利点だ。
  逆に日本で一般化している「青田売り」方式では、工事費用が不足しやすい。

日本人が得意な製造業では、工程の途中で組立やり直し/部材の交換をしてでも、品質管理を行いながらサイクルタイムを守り、生産計画通りに仕上げるのは当たり前であり、「予定通りにいかないのも赦す」風土は存在しない。然し、それを地面や天候という人間の制御不能な要素を含む建築作業まで工業製品の「製造管理理念」を適用し、殆どの場合は成功してきた。それは諸外国と比べ、相対的に云える事実なのだろう。特にプレハブと一般に呼ばれる建築様式は、工業生産の概念に建築をいっそう近づける作用を果たしただろう。

 いわば、日本の製造業文化の精華たる大量反復生産管理理念と管理技術への過信が、今回の”傾斜マンション事件”にしっぺ返しとなって顕れたというところだ。 
  そもそも、新しいマンションに住みたいとき、買いたいとき、その時点での販売価格で売り/買うことが 何故がまんできないのだろう???
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★ 2015.10.28.  ≪ 「させていただきます」の無礼 ≫ ≪ 「ユネスコ記録遺産」の政治利用合戦 ≫

2015-10-28 14:13:40 | つぶやき
★ 「させていただきます」に不快=自営業・奥山敬子・56 http://mainichi.jp/shimen/news/20151028ddm005070024000c.html?fm=mnm
・ 久々に新聞投書欄から。「やらせていただきます」「歌わせていただきます」「演じさせていただきます」と「させていただく」のオンパレード。
  思わず「頼んでないよ」と不愉快になることもしばしば。ネット通販のメールでも「お送りさせていただきました」と来る。丁寧すぎて心地悪い。
・ 「させていただきます」の乱用は、自分を一段下に置いて「一応断っておきますね」と周囲の顔色をうかがう、そんな生きにくい社会のかがみでしょうか。
  勿論、心からの「させていただく」もあるのでしょうが、こうも耳につくと丁寧さを通り越して、謙遜を装った厚かましさが潜んでいるような感じがします。
 
 ⇒ 此の「頼んでいない」のに丁寧そうに何かを<やらせてもらうよ>と先回りして断りをいれる、それが不快で厚かましささえ感じる、と投書した女性は言う。
 なぜ不快なのか理屈では説明が難しいだろうが、其のフィーリング、わからなくもない。 唯、私が「おやっ」と感じたことは、「~になります」「~で宜しかったでしょうか?」式の<言い切りを忌避する言い回しの流行>と同根の『顔色を読む』『逃げ』が慇懃無礼さを伴なうようになることを「させていただく」も秘めている、と投書女性が鋭く見抜いている点である。

★ 布施広の地球議:ヒトラーへの進言? http://mainichi.jp/shimen/news/20151028ddm007070094000c.html?fm=mnm
・ 記事のタイトルは、イスラエル首相がパレスチナ人への憎しみの余りか<ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)をヒトラーに進言したのはパレスチナ人だ。
  ヒトラーはユダヤ人を追放したいだけだったのにパレスチナ人が「焼いてしまえ」と言ったのだ>と“強硬派”ネタニヤフ節全開だと云っている話題で始まる。
・ 手元にあるイスラエルの百科事典「ジュダイカ」を開くと、確かにフセイニとヒトラーがひざ詰めで会談した写真が載っている。
  そのパレスチナ人はエルサレムの大ムフティ(イスラム教の最高権威者)だったハッジ・アミン・アル・フセイニ(1896?〜1974年)で、フセイニが
  ナチスの協力者、扇動者であり、ユダヤ人絶滅計画を支援した人物だったと厳しく指摘するものの、彼がホロコーストを進言したという記述はない。
   そもそもヒトラーが「ユダヤ人種の絶滅」を説いたのは面談の2年前(39年)。時期的にも、フセイニをホロコーストの仕掛け人とするのは無理がある。
・ ちなみに日本と同盟を結んだナチス・ドイツは、ユダヤ人迫害への同調を再三求めたが、日本は応じなかった。重要閣僚で構成する五相会議が、ナチスとの
  親善も大切ながら他国民同様、ユダヤ人を排斥せず公正に扱うべしとする「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決めたのは38年のことだ。

私の思い過ごしなのか、最近の中国にはホロコーストと南京虐殺を殊更に結びつける動きもあるが、ユダヤ人の恩人を顕彰するイスラエルの「ゴールデンブック」には、杉原千畝をはじめ少なからぬ日本人が名を刻む。そんな日本をおとしめるべく、600万人以上が殺されたホロコーストと南京虐殺を並べるのなら、イスラエルは喜ぶまい。政治的意図で歴史をゆがめてはいけない。日本にも言えることだ。(専門編集委員)
 
日本は旧ソ連による”シベリア抑留”をユネスコ記録遺産に申請し登録された手前、同じ土俵に上がったのだから他国の政治利用を非難する資格は無い。泥試合覚悟で無益な争いにエネルギーを割くしかないとは,・・・実に馬鹿馬鹿しい。
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書評051-3  『 アーミッシュの赦し Amish Grace 』 < 赦しは悲劇をどう超えたか > 亜紀書房

2015-10-26 09:01:43 | 書評
2. キリスト教徒の国民にとって、そして全ての先進社会にとり 『アーミッシュの赦し』がもつ意味あいとは何か?
 まず、キリスト教徒ではない私が此の問いかけをする意味があるのか? と疑問をもたれるかもしれない。私が問う理由は、アメリカ市民に代表される現代の生き方・暮らしぶりを(非キリスト教徒でありながらも)表面的には共有する我々日本人にとっても、【A】が突きつけた「罪と罰の峻別」「報復の放棄」の意義は無視できないと考えたことによる。
  昨日の<1.アーミッシュ:Amish (以下、【A】と略す)とはどういう特徴をもつ基督教徒の集団か?>で触れたとおり、【A】が他のキリスト教宗派と自らを区別する特徴の一つは「神」への「集団による絶対服従」である。此の「集団主義」と「絶対服従」が求める行動、それは現代北米市民の暮らす文化的習慣セットと真っ向から食い違う。
 (1) 間違いを犯しがちな教会指導者の決めた規律に従う?・・・【A】の教会指導者は持ち回りの輪番制であり、神学教育制度も無いが、
                                「聖書」の教えの理解/伝達が特別な人間でなければ不可能とは考えていない
 (2) 個人を称えたり顕彰してはいけない?・・・・【A】は、個人の尊厳・自尊心・自立心を「神」への傲慢な態度と排斥する
 (3) 哲学的な知的探求を慎め?・・・【A】は「神の霊性」や「来世での救済保証」すら疑問の対象にしてはならないと教える
 (4) 男女同権ではない性差別役割を守れ?・・・【A】は、中世そのままの男女別役割を遵守せよと教える
 (5) 個人に固有な権利を守る闘いさえも否定し放棄せよ?・・・【A】にとり「神」の前ではどの個人も集団を超えることはなく、固有の権利など無い
 (6) 祖国のための戦い・兵役も拒否する?・・・【A】にとり地上世界に守るべき国は存在しないので「神の王国」以外に命を奉げる対象は無い

 ひとことで別の表現をするなら、【A】の人々が暮らす文化とは、宗教が<怒りや復讐の正当化>にではなく<善意と赦し/恵みを導く>ために使われる文化だ、と著者グループは要約している。この指摘は、宗教の名のもとに殺戮と報復の連鎖を続ける1神教徒たち[ユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒]の振る舞いにアメリカ人自らが鋭く反省を迫るものである。 この自己の痛みを伴う省察、それを言葉にする勇気と知性に私は感服した。

 もうひとつ私の心に響いたのは、集団的絶対服従に伴う制約を重んじることで<地域コミュニティの維持><現世世界への帰属意識><個人のアイデンティティ保持>という3つが見事に【A】の社会に息づいている、其れは誰もが追い求める≪満足と幸福≫を満たす要素ではないか?との指摘である。 自由の飽くなき追求、消費資本主義、テクノロジー万能、自然からの乖離などにより現代人が失ってしまった3つの要素が【A】の暮らしには在るという。 自分の目で確かめてはいないし、1神教世界の文化風土に生まれ育ってこなかった私はここでストップするしかない。

翻って、宗教が文化に占める役割/存在意義と著者たちが本書の最後の方で提起したことを考える。多神教の東洋世界において、個人の解脱と来世救済がせめぎ合ってきた仏教は、現代文化でどういう役割を果たし、存在意義を見出そうとしてきたか。我々自身はその問いかけをどう捉えてきたのか? 
 無論、答えは無いが、読了後の私は「罪と罰」「赦し」の向こうに永遠の問いかけを視た。           ≪ おわり ≫
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