静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

【書評153-3】   安 楽 な 最 期 の 迎 え 方    ~ 超長寿社会で死ねない時代 ~   島 田 祐 巳 著   徳間書店  2020年5月 初版 

2022-04-30 22:31:47 | 書評
  【優生思想】とは、平たく言えば(優秀な生命を尊び、劣悪な種を間引く)ことであり(老若問わず、劣悪者は世の中の邪魔になるから消す)。こういうことだ。
人類史上、いつの時代にも【優生思想】は絶えることなく続いてきた。直近の最も端的な例は<ユダヤ人抹殺>を唱えたヒットラーのホロコーストである。
  片や、民族間の憎悪や宗教絡みの大規模な殺戮は<自分の役に立つ優秀な種か?>の判定から発生していない。

 では、誰が<優秀な種ではないから邪魔な奴は消せ>の価値判定をするのか? そもそも判定して良いのか? 良いわけがない・・この根本的な否定は正しい。
★ では、昔からある「生後間引き」「堕胎/妊娠中絶」最近の「劣性遺伝子児出産の回避」などは【優生思想】と何がちがう? 私たちは此の反問に答えをもっているか!

 このような命の選別が投げかける【優生思想】への根源的な問いと、明確な意思を表明できる障碍者や老人・難病不治患者が自らの終わりを望むことは同じ地平にない。
安楽死とは、他者から生き続ける価値の有無を判断されるのではなく、本人が自分の価値観に基づき自らの存在の終わり方を決めることであり【優生思想】と本来は無縁だ。
積極的か消極的かを問わず、制度濫用は回避しつつ、耐えがたい苦痛から解放して楽にしてあげる事自体を咎める権利・根拠は誰にもない。
 医師の使命とは命を助けること・長く保つこと。原則としてそれは間違っていないが、だからといって患者本人を超越して、本人の価値観まで否定することは許されない。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
 「安楽死」「尊厳死」を許容するかについて、NHK放送文化研究所が行った調査を島田氏は引用している。長寿化を反映してか、当然と言えば当然の傾向だろう。 
                  2002年    2014年
   <安楽死を許容する>      70%      73%
   <尊厳死を許容する>      80%      84% 
 此の調査から8年経過した。人生100年時代などと喧伝される今、劇的な変化ではないが、高齢化が止まらぬ限り「死を選ぶ心理」はじわじわ増え続けるだろう。

 前節で触れた「安楽死」の積極性と消極性にみる日本人の特性、即ち、延命拒否や鎮静剤服用による自然死の補助はしても自殺支援だけは嫌う傾向の背景は何か? 
「God」を介した1神教世界における「人間が人間以外の自然界を支配する」価値観にあっては、動植物の品種改良は当然なので、そこに種の選別は当たり前。
 要らない命と自分が判定すること自体はおかしくない、何が悪い?となる。
  一方、「God」を介さない東洋全般では人間の命も他の生き物の命も自然界の同類ゆえ、人間が王者として自然を利用・支配する発想は無かった。従い、命は大自然の
 摂理の中で人智の及ばぬ掟に従うものだから「自分で命の終わりを決めてはいけない」となり、積極的安楽死だけはすべきでない、となった? 
  日本でよく言われるフレーズ;『命と身体は御先祖・親から授かったものだから粗末にしてはいけない』も、上述の自然観から来ている。

さて、皮肉にも自然の摂理に逆らってまで不自然に生き続けるよう強制され、死ねなくなった日本の老人に、自らの良心に従い死を選ぶ道はあるか?    < つづく >
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【書評153-2】   安 楽 な 最 期 の 迎 え 方    ~ 超長寿社会で死ねない時代 ~   島 田 祐 巳 著   徳間書店  2020年5月 初版 

2022-04-30 08:00:04 | 書評
  島田氏は「安楽死」選択にまつわる内外の懸念と課題を挙げた次に、日本では「安楽死/尊厳死」がどういう経緯で国民意識の変化と共に動いてきたかをまとめている。
「安楽死」と言う訳語が定着するのは戦後であり、明治時代までは「安死術」が用いられてきた。その「安死術」を施そうとした実話として有名なのが森鴎外の話だ。
鴎外が百日咳の高熱と呼吸困難で苦しむ自分の娘を、同席する医師の合意のもと永遠に眠らせようと注射器を取り上げたが、妻の父に止められ、娘は3日後に生還。
此の体験をもとに鴎外は小説『高瀬舟』を産み出すのだが、全くの創作ではなく江戸時代の随筆集<翁草:117巻>にある「流人の話」が元になっているらしい。

 江戸の昔から事実上の安死術は行われており、死刑または流罪に問われたのだが、軍医として日清・日露戦争の前線に赴任した鴎外は、瀕死の重傷に苦悶する負傷兵を前に
大いに悩んだに違いない。こっそりと眠らせることだってあったかもしれない。耐えがたい苦痛から解放して楽にしてあげる、この素朴な心配りは今も昔も変わらない。
これが古今東西の「安楽死」の源にある。自身が或は身内がのたうちまわる時、それでも此の心配りを咎められる人はどれほどいようか?

 西洋で用いられた”euthanasie”に「安死術」の訳語をあて、1904年に書いた「医師之権利義務」と言う本の中で「安楽死」の考え方を日本で初めて主唱したのは、
市村光恵という法学者だった。『高瀬舟』の発表は1916年。ところが敗戦後、「安楽死」概念は太田典礼と言う人物の活動で大きく影響を受けることになった。
 太田氏は産婦人科医。1947年日本社会党から衆議院議員選挙に出て当選すると「優生保護法」成立に尽力した。太田は避妊リングの発明者であり<産児制限>を主張。
1963年「日本安楽死協会」設立を提唱したが無反応に終わる。そして「葬式無用論」を1968年に共著で編纂。翌69年「老人の孤独」を(思想の科学)に発表したのだが、
以下の文章が日本に於ける「安楽死」「尊厳死」普及を未だに進ませない遠因となった、と島田氏は断じる。これを読めば、島田氏に私も肯かざるを得ない。

 ・・”老人の孤独の最高の解決策として自殺をすすめたい(中略)自殺は個人の自由であり権利でさえもある。老人が、もはや生きている価値が無いと自覚したとき
    自殺するのは最善の社会的人間的行為である”・・・と主張した。

太字にした部分は老人に留まらず障碍者や社会的弱者の存在を認めない考え方へ容易に結びついてしまうわけで、幾ら老人自身がそうじゃないと声を挙げようとも、危険な
【優生思想】の源となってしまうだろう。2016年に発生した相模原市の「津久井やまゆり園」で起きた大量殺傷事件がそれを証明してしまったわけだが、「生きる価値」は
誰が判断するのか?と言う根本的な問いを「安楽死/尊厳死」は我々に投げている。それは<優生思想の否定は正しい>とは別次元の事で、今後も変わりないと思う。
 私は、心臓弁幕症に苦しみ19歳で自死した親友の事、そして江藤淳が99年に自裁した事を併せ、「安楽死/尊厳死」を考えている。


 1972年『恍惚の人』(有吉佐和子)がベストセラーとなり”認知症”が日本で現実のものと意識され出した。此の気運を受けて太田氏は1976年「日本安楽死協会」を設立した。
而も同じ1976年にアメリカで「カレン事件裁判」が話題になり、世界的に積極的&消極的安楽死が表立った議論となる転機になった。ところが「日本安楽死協会」は1983年に
「安楽死」から「尊厳死」に改称している。欧米で進んだ積極的安楽死受容が日本社会に馴染まないとの判断からだろう。 積極的安楽死を認める方向が容易に【優生思想】を誘発するとの懸念は日本も欧米も同じ筈だが、何が違うのか?  これは異文化論の中核を占めるテーマでもある。            < つづく >
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【書評153-1】   安 楽 な 最 期 の 迎 え 方    ~ 超長寿社会で死ねない時代 ~   島 田 祐 巳 著   徳間書店  2020年5月 初版 

2022-04-29 20:00:22 | 書評
  『生き物である限り、動植物を問わず(一部の例外を除けば)殆どの命は短いもので、すぐ終わりがやってくる』それは人間も同じ筈?だった。
然し人間だけが例外となり、20世紀後半から爆発的に進んだ科学技術の恩恵に浴すことのできた僅かな国民は、死ぬまでの時間が嘗て誰も想像しなかった程長くなった。
其の最先端を行くのが我が日本人の集団だ。60歳までに大半の人が亡くなっていたのは僅か70年前。だが、今や70歳代でなくなると「お若いのに残念でしたなぁ~」
などと真面目な顔で悔やみを言われるようになった。・・この激しい変わりようが僅かひと世代の内に起きてしまった、我々はそういう時間を生きている。

 ひと昔前まで、大自然の摂理どおり狂いなく訪れた生命の終わりが、ざっと30年近く後ろへズレた。栄養と医療技術が良くなり疾病でなくなる率は下がったといえ、
(スーパーマン/~ウーマンは別にして)最大公約数に属す者の体力は65を境にズドンと衰える。5年毎に衰えは進行するので、自営業でなく被雇用者ならば、若い世代に
職場を譲るしかない。自営業ならば、次世代への継承を自分が邪魔しない為にはどう振る舞えばよいか? 此の悩みが尽きない。

・・・「はて、俺は何をしてこれからの30年をすごせばよいか?」・・・外国はいざ知らず、これぞ日本に生まれ育った多くの男性が史上初めて出くわす難問だ。
長く生きるほど、心身は不本意なトラブルに巻き込まれ、煩わされるケースは増える。<昔なら、こうなる前に死んでいたのに・・>と言いたくなる現象の何と多いことか。
誰も歓迎しない苦しみの中を、先が見えぬまま我々は苦しみ、生き続けねばならない。
 ここで本書のメインテーマ;想定外に生きてしまい、自然に死ねなくなった時代で、どう自分らしい死に方を選ぶか?:が迫ってくる。

★ 著者は本書で「積極的安楽死=自殺支援」と「消極的安楽死=尊厳死」それぞれについて、諸外国での現状と日本における課題を次の様に整理している。
 【1】積極的安楽死の導入と実施における懸念・・・オランダ・スイス・ベルギー・アメリカ 一部の州
   ① 病の不治を認定する際の科学的精度をどう制度的に担保するか  ② 認知症患者が軽症時に安楽死を希望した意思表示をどう認定するか
   ③ 元気な時に意志表示した希望が老いて「気が変わった」場合、どう扱うか

 【2】消極的安楽死<=尊厳死>・・・日本での実施における課題
   ① 法制化が進まない中にあって、本人の意志(延命措置拒否)確認を公的にどう担保するか  ② 救命措置が回復に繋がる稀なケースへの留保をどうするか
   ③ ターミナルケアでの持続的鎮静措置に関する本人及び家族の意志統一をどう図るか 

 日本で【1】は自殺幇助の刑事犯罪とされ、過去にも何度か裁判になった。が、「安楽死」概念自体の否定はなく、全て執行猶予付きの判決になった。然し、抵抗は強い。
 他方、皆さんの中にも、身内を巡り【2】に絡む決断の場を潜った方は少なくないだろう。それは必ずしも老人に限らず、若くして末期癌に苛まれ悩んだケースもある。
 私の義兄のケースがそれであった。義兄は意識が混濁しないうちに医師・家族へ鎮静措置を要望したのだ。立ち会った私は妻子の満足した顔をみて安心した。

 では、②の延命措置を拒否する意思表示に対し日本の医学界はどう対応してきたか? 日本尊厳死協会が推進する「Living Will(生前の意思)」提示の効力は如何に?
 日本における尊厳死法制化が前進しない理由、そこには複雑な背景がある。                      < つづく >
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【書評152-6】〆   時 代 小 説 の 戦 後 史    ~ 柴田錬三郎から隆慶一郎まで ~   縄田 一男 著    新潮選書   2021年12月 初版 

2022-04-29 09:39:18 | 書評
 一つ、ミスに気付いたので、お詫びし、訂正します;柴田錬三郎氏のペンネームは本名だと【書評152-3】の冒頭に書いたが、本名は齋藤 錬三郎。

 いよいよ4人目の隆慶一郎(1923-1989)。この人は、今まで観てきた3人と戦時体験も文学上の傾向も、戦後人生の歩みも全く異なる。
まず、東京赤坂生まれなのに旧制同志社中学・第三高等学校を経て東京帝大仏文科に学んだ。少ないながら此の時代にもあった父親の転勤なら腑に落ちるが、さもなくば何故に
京都で青少年期を送ったのか? 縄田氏は此の小さな疑問に触れていないが、脚本家・池田一郎あるいは小説家・隆慶一郎としての足跡に何らかの影響はあるのだろうか?
 隆氏は東大在学中、学徒動員で大陸へ渡ったが、配転された宮崎で終戦を迎える。昭和21年復学した東大で辰野隆(ゆたか)や小林秀雄に師事した。卒業後暫く務めた創元社から私立大学での仏語教師を経て映画やTVの脚本家(池田一郎)に転身し、晩年にわかに時代小説を書き始めるが、僅か6年後、呑みすぎで世を去ってしまった。

 大陸に送られた隆氏が肌身離さず携行したのが『葉隠』。其の中ほどをくりぬいて『地獄の季節(アルチュール・ランボー)』を膠で貼り付け、忍び込ませたという。
そして、既に入手困難な『中原中也詩集』から≪山羊の歌≫と≪在りし日の歌≫をノートに書写し持参した。此の3編の中に、時代小説家としての隆慶一郎を理解する鍵がある、
と縄田氏は言う。氏は<葉隠・ランボー・中也>のトライアングルをキーワードにしているのだが、いったいどういうことか?

 『葉隠』といえば<武士道とは死ぬこととみつけたり>のフレーズが浮かび、軍国日本で若者を戦いへ駆り立てるスローガンに使われた、唯それだけで片付けられてしまう。だが、隆氏は復員後に読み返すうち、此の有名なフレーズとは別に後半部に描かれた鍋島藩内の争闘に人間ドラマを読み取り<小説:死ぬこととみつけたり>に結実した。
縄田氏によれば、此の反転した明るさは隆氏が好きだったという中也の詩:「寒い夜の自画像」にあるフレーズ【陽気で坦々として而(しか)も己を売らない】から来ている。
 <さすればランボーの位置づけは? それは「死(葉隠)」と「生(中也)」の真ん中に位置する「地獄」そのものであろう、と私は解釈した>。
事実、隆氏は海からの眺めを愛したゆえ熱海十国峠に設けた自分の墓石の表に「隆慶一郎」と彫らせ、裏面には「坦々」と彫り込ませた。

 海が好きだったという隆氏が、脚本家に転身したあと仕事場を十国峠に設けた背景と「水」の結びつきは何か? 縄田氏は<小説:死ぬこととみつけたり>に突如姿を現す
”補陀落渡海(ふだらくとかい)”モチーフにヒントが有ると指摘する。即ち、通常は死にゆく者が目指す浄土仏教における極楽西方浄土へ、(死者ではなく)生者が入水してゆく
補陀落渡海イメージに隆氏が込めた「死す者」と「生ける者」の役割反転である。歴史では敗者たる死者が勝者である生者に一矢報いるべく、呪詛を唱えつつ魔生を得る。
こういったプロットに隆氏が投影したもの、それは【死に場所を失った世代の怒り】ともいうべきではないかと。

 縄田氏はこれに繋がる興味深いエピソードを紹介している。それは、隆氏の長女・羽生真奈のエッセイ『歌う舟人~父隆慶一郎のこと~』にある逸話。其のまま引用する。
 ******ある冬、軽井沢にある父の別荘でのこと。キツツキのような鳥が家の外壁に穴をあけたが、外壁と内壁の間に入り込んで動けなくなってしまった。
    1日・2日と次第に弱ってゆく。そのとき隆慶一郎が『死に場所があるだけいいか・・』ポツンと言ったという******
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★☆★ 4人それぞれ波乱万丈の生き様と戦後人生を振り返ってきた。ここで同じ時代小説で人気を博した3人<山本周五郎・池波正太郎・藤沢周平>と見比べてみよう。
 山本氏は1902年生まれだが、視力検査不合格で兵役を免れた。藤沢市は1927年生まれなので召集前。池波氏は1923年生まれで召集は受けたが、戦場経験も兵舎暮らしも
 なく、国内各地の軍需工場や教習所を盥回しにされ終戦を迎えている。つまり、此の3氏は山田風太郎と同じ不戦派だ。同じ頃を生き乍ら、此の違いは無視できまい。

  時折り私が目にする映画やTVドラマで3氏の描く世界。それは人殺しの剣に生きる孤独でニヒルな男の内面世界や死生観ではなく、町民・百姓・岡っ引きなどが
 侍と絡む江戸暮らしにおける人情話だ。そこに<生き残ってしまった者の含羞の裏返し><自虐の構図>或は【死に場所を失った世代の怒り】を貴方は観るか? 
  
 私は感じない。縄田氏の本書は、戦後ますます大衆娯楽読み物と扱われた時代小説に潜む戦争体験有無と創作の意外で重要な関連性に目を向けてくれた。   < 了 >
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【書評152-5】   時 代 小 説 の 戦 後 史    ~ 柴田錬三郎から隆慶一郎まで ~   縄田 一男 著    新潮選書   2021年12月 初版 

2022-04-28 19:16:00 | 書評
 3人目は山田風太郎について。【書評152-2】で触れたが、山田氏は本書で著者が取り上げた4人の中で唯一、兵役も戦場も体験せぬまま終戦を迎えた。それは山田氏が
<列外の者>のレッテルを自分自身に生涯貼り、<社会から疎外された存在>と斜に構えた感覚で創作活動に向かわしめる。 縄田氏は徴兵検査不合格で戦争の傍観者にされた事に加え、父を5歳で母を14歳で亡くした生い立ちも、その疎外感に影を落としていると観ている。然も旧制高校の受験を2度しくじり、品川の沖電気工場に動員されながら受験勉強に励み、昭和22年「東京医学専門学校」にようやく潜り込む。このモタツキも人生街道における<列外の者>を強め、「死に損ないの負い目」に重なる劣等感となっただろう。 

 「死に損ないの負い目」は此の4人に限らず、戦後を死なずに生き延びた国民全員が感じただろうが、山田ほど複雑な劣等感に苛まれた男は少なかったのではないか。
医学校を卒業したが自分は医者に向いてないと見切り、貧乏生活を続けるなか、生計の足しにと書いた≪達磨峠の事件≫で江戸川乱歩に認められ、推理小説、次にミステリー小説へと舞台を広げるうち、忍術ならぬ”忍法”を編み出した。・・なぜミステリーから時代小説に転じたか? 柴田・五味が先鞭を付けた時代小説ブームの影響は否定できまい。

 山田の時代小説の裏に漂う負い目と劣等感は、斬り合いに「死」をみるニヒリズムや武家暮らしの残酷さを滲ませる柴田や五味の剣豪小説と違い、忍びの者が荒唐無稽な
<変身願望><タイムスリップ><魔界><エログロ>を交え、歴史上の正史事件までパロディ化してしまう。そのハチャメチャな展開が柴田でも五味でもない独自の境地を
時代小説に創造せしめた。然し、此のハチャメチャ世界こそ、何事にも傍観者の視線で通すしかなかった山田の人生がもたらしたものである。
 
 軍国少年ながら戦場にゆけず「不戦派」の後ろめたさを抱えこんだまま戦後を生きた山田。それを伝えるのは『戦中不戦派日記』だが、私は『人間臨終図巻』にこそ、
後ろめたさへの答えとして山田が追い求め続けた問い;”~如何に人間は死ぬべきか~”が結晶していると思う。古今東西の著名な923人の死にざま、辞世の言葉、或は身内の言葉を拾い”死に方”を飽くなく探求した。それは柴田でも五味でもない、山田なりの「死に損ないの負い目」にこだわる姿勢に他ならない。         < つづく >
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