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挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ 旧優生保護法判決が問う 今後への教訓 ≫   違憲立法への初期対処の不備/不作為 + ”選民思想”が抜けない人口政策

2019-05-29 09:12:01 | 時評
 旧優生保護法仙台地裁判決 救済否定、当事者置き去りに https://mainichi.jp/articles/20190528/k00/00m/040/234000c?fm=mnm
 昨日の判決内容を報じる様々な報道/論評の集約から得られる教訓とは何か?  其の教訓を如何に活かしてゆくかを考えたい。 私は3点あると思う。
(1)司法による「違憲立法審査」:その有効性への疑問
   旧優生保護法は、1948(昭和23)年の成立で、廃止されたのは1996(平成8)年。実に48年間に亘り有効な法律として存在した。 
   日本国憲法の施行が1947(昭和22)年5月3日だから、新憲法施行後にも拘わらず当時の国会で成立した。
    当時、此の法律に違憲性を問う議論が有ったのか、どうか?
   加えて、1996年の廃止までの50年弱もの間、違憲性を訴えた人々は居ただろうに、何故そんなに長い時間がかかったのか?
  『違憲立法審査権』とは絵に描いた餅だった?  内閣法制局の中立性が有名無実なら、訴訟を待つのではなく、最高裁は常に違憲審査を行うべきでは?


(2)賠償請求訴求年限(20年)と違憲法令による被害の救済
   今回の仙台地裁判決で問題視された20年という訴求年限の規定。これは(1)に述べた事とも関連するが、一般的に被害を被った人は国家や組織との
   力関係に於いては圧倒的に劣勢だ。社会を動かし、ひいては司法を動かすまでに望まぬ年月を費やしてしまう。これを杓子定規に攻めるのではなく、
   違憲立法による被害救済には年限規定を適用しない、という検討が必要ではないか?
    例えば、水俣訴訟等の公害被害者への救済補償は20年どころではない後からでも国家賠償が行われた。国策に沿った産業政策だったとはいえ、
   一企業の主たる責任であった公害汚染でさえ、訴求年限は適用されなかったではないか? 違憲立法が与えた被害と公害の何が違うのだ? 


(3)旧優生保護法成立の歴史的背景から学ぶ「人口政策への教訓」 
   成立した昭和23年は、<ベビーブーム>の真っただ中であるだけでなく、其の背景には、旧植民地からの膨大な引揚げ者帰国が食糧難の深刻化を
   危機的状況に追い込んでいた頃だ。当時の為政者、国会議員の意識に「少しでも人口膨張は食い止めたい」との気持ちが強かったに違いあるまい。
    事態の推移は否定できないが、だからと言って、その背景を違憲立法を許した免罪符にしてはならない。
    
   何故ならば、≪国家的緊急事態だから許される≫・・この思考方法は現在の入管法改正にも如実に顕われており、労働人口減少という緊急事態を一時的に凌ぐ
   視点からしか人口政策を捉えない点で、旧優生保護法立案者と全く変わらないからだ。 
    此の狭い視野には「多様性を認める共生」概念のカケラすら見られない。それは、”民の多様性を嫌う集団主義”にも通じる危険な流れなのだ。

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≪ 雇用慣習とキャリア形成 ≫   『終身雇用の終り』を幅広い真の人材活性化に どう結びつけるか?

2019-05-27 09:30:42 | トーク・ネットTalk Net
★ 逃げ切り勝利?財界人から相次ぐ「終身雇用は限界」発言を読む 若い世代ほど、実は期待     
       https://mainichi.jp/articles/20190526/k00/00m/020/009000c?fm=mnm
・ <ツイッターでは多くの批判が財界トップたちに向けられた。
  ”全員男性、大卒以上で転職経験無し、サラリーマン経営者という終身雇用究極の勝ち組”・・・・ ”団塊世代の逃げ切り勝利”――。>
 ⇒ 此の種の批判、特に40~50代以前の世代からの批判には、様々な時代背景の違いからくる怨嗟や羨望が混じっている。だが、そのような生まれた時期の
  違いに起因する運命の差は、どの世代/いつの時代にもあったもので、それを恨んでも何も始まらないことに気づく者だけが多分生き残るだろう。

☆ <転職者に目立つのはミドル・シニア世代だ。労働者全体に占める転職者の割合を見ると、若年層(15~34歳)と中高齢層(35歳以上)の比率は10年に
  5対5だったのが、18年には4対6となった(総務省「労働力調査」)。
  「即戦力の優秀な人材を獲得するため、企業は待遇のいい中途採用を増やしている」と、リクルートワークス研究所の坂本貴志アナリストは指摘する。
  「ビジネスのスピードが加速度的に上がっており、変化に対応するため、自社にいない専門的な人材を外部から採用する必要性に迫られています」>
労働者はどうしたらいいのか】
* 人事コンサルタントの秋山輝之氏は「これからの労働者は、三つのことを考え続けなければならない」と指摘する。
 「一つはビジネススキル。社会で必要とされるスキルは何なのか、自らアンテナを張り、成長を心がけなければなりません」
 「二つ目は万が一の場合の備え。病気などで働けなくなっても企業は支えてくれない。家庭や地域社会でのきずなを保ち、副業など多様な収入源を持つこと」
 「三つ目は今あるシステムを疑うこと。住宅ローンや公的年金など、まだ日本には終身雇用を前提とした仕組みが多い。前の世代がそうだったから自分たちも
  大丈夫だと考えるのは危険です」

* 秋山氏の掲げる3ポイントに異論はない。  だが、私はこれまでも繰り返し強調してきた事を改めて挙げておく。
 スキル評価での転職は、どうしても一定の経験年数や特殊な環境に恵まれた少数の人に限られる。従い、ミドルやシニア世代の転職が即戦力市場として活発には
 なっても、若い世代での転職が置き去りになる可能性が日本では高い。それでは真の意味での人材活性化には至らない。。。
   そこを変えるには、主要工業国では日本だけが実行していない以下の3つの仕組みを創るほかない。

(1)業務評価記述(JD=Job Description)を可能な限り全ての職種に展開する。
(2)JDを面接時から基本文書として雇用者側も面接者側もシェアし、採用から報酬評価・賞罰まで一貫して準拠される体系にする。
(3)大学と役所&企業は会計年度に合わせる採用慣習を止め、通年採用に完全転換する。JDの整備は、この通年採用を円滑に進める一助にもなる。
    これを更に補助するには、大学の春・秋・二期入学も重要だ。無論、外国人留学生だけではなく、日本人にも等しく適用する。


  さあ、経団連は(1)~(3)を実行するところまで腹を括っているのか???
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≪ 平成30年における”現実認識力”の劣化 = 現実直視せぬ弱さ⇔曖昧表現で逃げを打つ言葉遣い ≫  そんな国民に明日はない

2019-05-26 11:38:31 | 時評
★ 少子化と放漫財政 平成日本の認識力劣化=藻谷浩介・日本総合研究所主席研究員https://mainichi.jp/articles/20190526/ddm/002/070/034000c?fm=mnm
 藻谷氏は、引用した文章の前段で国際収支や貿易収支の変化の具体的数値を引き、”なんとなく良くない””良くなってはいない”雰囲気の実例を挙げ、
 現実の数字や実態を自分の手/眼で確かめもせず、空気やムードで世の中全体がボヤーっと語ることの危険を説いている。詳しくは本文を読んで欲しいが、
 私が特に共感するのは、以下の部分だ。
・ <もとより日本の本当の問題は、国際競争ではなく、歯止めなき少子化と放漫財政だ。国の膨大な借金を正当化するインチキ「理論」の流行は、絶望的な
  現実から目を背けたい気分の反映だろう。>
・ <だがそれらだけではない。空気に付和雷同し事実を自分の目と手で確認しないという習慣が、政財官学界の中枢から市井の庶民の世界まで、上下左右に
  蔓延したことこそ、平成年間に進んだ真に憂慮すべき日本の劣化ではなかっただろうか。>

 ⇒ 藻谷氏の『平成年間に進んだ真に憂慮すべき日本の劣化』=これは此のコラムで私が幾度か口にした<日本の、日本人の質の低下>実感と同じ感覚だ。
  私の実感は2001年初頭に米国生活から帰国した直後に感じたものだが、あれから18年経過した現在、いよいよ私の憂慮は強まっている。

    藻谷氏も同じ感覚を抱いていたとは!  これは悲しい一致であり、少しも嬉しくない。

* 私が上で『質の低下』と表現した中身とは、藻谷氏が指摘する(現実直視を避け、ありのままを見つめ、ありのままを直截な言葉にしようとしない行動)
  の習慣化だ。 別の言い方をすれば、それは政官/実業界で際立つ『ごまかし・はぐらかし』の言い回しや『忖度』『KY(空気を読む)』の肯定が典型的な例だ。
  
  また、若い世代を中心に浸透した『~とか、~みたいな』『ですよね?』式の語法も底流は同じである。言い切る為には調べたり、考えたりせねばならないが、
  其のプロセスをサボる、論を戦わせるのを恐れる曖昧語法の風習は、知的退廃を同時に招いてしまった。 これも真に憂慮すべき劣化ではないか?

◆ 日本国が抱えている本質的な課題として藻谷氏は「歯止めなき少子化」「放漫財政放置」の二つを挙げたが、此の二つは氏が言う「空気に付和雷同し事実を
  自分の目と手で確認しないという習慣」のもたらした当然の帰結に過ぎない。  ← 此の習慣は何も政治家だけではない。 国民も等しく続けてきた悪習だ
  
  「少子化」による労働人口の減少を一時しのぎの労働者導入で「ごまかし」、頑なに移民との共生を避ける姿勢。そして、国債発行で国家会計の帳尻合わせを
  「ごまかし」、借金などというが実は問題ない・・と「はぐらかす」政治家。それもこれも、現実直視を正直に訴えれば選挙で負けるから、唯それだけなのだ!
     もちろん、そういう習慣に気づかず、或は変えようともせず「何とかなるだろう」式のケセラセラを続ける”国民自身の自己責任”が 最も重い。
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≪ ”お墓”のカタチ様々 vs 自然回帰の潮流 vs 環境保護 ≫   火葬による骨(ホネ)への拘りは自然保護と今後も両立するか?

2019-05-25 08:17:04 | トーク・ネットTalk Net
▲ 【毎日・土記】人体をコンポストに=青野由利 (専門編集委員) https://mainichi.jp/articles/20190525/ddm/002/070/094000c?fm=mnm
・ <墓じまい、無縁墓、合葬墓、散骨--。お墓のあり方の変化を示す言葉をこのところよく見聞きする。
  背景にあるのは、少子化、過疎化、非婚化、単身世帯の増加など。そうした変化は日本に特有の問題かと思っていたら、今週、あっと驚くニュースを欧米
  メディアが伝えていた。
  <米国では通常、遺体を保存処理してひつぎに入れ埋葬するか、火葬にするかのいずれか。コンポスト化はそのどちらでもない第3の方法として登場したと。>
・ <米ワシントン州が全米で初めて、「遺体をコンポスト(堆肥(たいひ))にすること」を合法化し、知事が法律に署名したというのだ。
  施行は来年5月。>
   提唱者として紹介されているのは、シアトルで「リコンポーズ」という会社を設立したカトリーナ・スペードさん。祖母の時代には「火葬にする」と言ったら
 驚かれたが、その後、埋葬スペースの不足や簡便さなどから火葬が増加した。スペードさんもそれが環境にとってよい方法だと思っていたが、よく考えると、
 二酸化炭素の増加につながる。本来、土に返るはずの有機物も失われる。

* <コンテナに入れて藁や木材チップなどで覆うと、4週間ほどで分解され、堆肥となり、土となるという。この土を持ち帰れば、花も樹木も果物も育てられる。
  確かに、生物が循環する自然の摂理にかなった方法かもしれない。土に返り、新たな生命を育てると思えば、受け入れられやすいとも考えられる。
  一方で、反発する人がいるのもわかる>。

 ⇒ インド原始仏教哲学でお馴染みの<いのちの循環>理念に近いもので、環境保護の角度からここに辿り着くのが如何にもアメリカ人だと感じる。
  さて、『反撥する人』の心の中を読み取るのは容易でない。が、私の想像では、地中でも溶けて消え去ることがほぼ無い≪骨≫は、いわば生き残った者にとり、
  【かたみ・偲ぶよすが】の役割ゆえ、いくら生命循環するとはいえ、散骨や宇宙葬など同様、視界から消えてしまう埋葬法への抵抗感なのだろう。

* <では、日本だったら? スペードさんにメールでたずねると「日本の文化にもふさわしいのでは? もちろん、人々の感じ方次第だけど」。
  宗教や文化だけでなく、科学や環境の観点からもお墓を考える。そんなきっかけになるかもしれない。>(青野氏)
   ⇒ 神道に顕著な自然霊への信仰心が底流にある日本文化に生きる現代人が、カタチ有る≪骨≫への拘りから離れられるか?  興味深いところだ。
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≪ 文藝出版における印税(=ロイヤリティ)概念と作家支援 ≫   幻冬舎事件にみる『知の貧困』

2019-05-24 11:09:08 | トーク・ネットTalk Net
★ 見城幻冬舎社長「部数さらし」「社員一同」で謝罪した背景 https://mainichi.jp/articles/20190523/k00/00m/040/229000fm=mnm
・ <(実売部数を見城社長に公開された)津原泰水さんは「毎日新聞の取材に「私の名前も入れて全面的な謝罪をしてくれた。社長が企業を背負ってSNSで
  発信するならば、その影響力を鑑みる必要があるということを示した件だったと思う」と話した。>

 ⇒ 津原氏は謝罪を受け入れたうえで、SNSの影響力の大きさが現代社会に与える功罪両面に触れている。それは確かに大事なポイントだが、もうひとつ、
  次のコメントが出版界全般が面している危機的状況を深く突いている。
・ <専修大の植村八潮教授(出版学)によると、社会科学など専門書の出版社は実売部数に応じて著作権使用料(印税)を筆者に支払うのに対し、文芸系の
  出版社は実売部数ではなく、発行部数に応じて支払う。そのため、作家には実売部数は伝えないことが多いという。>

 * なぜ、伝えない慣習になっているのか?
・ <背景には出版社と作家の相互扶助的な関係がある。植村教授は「大正・昭和期に出版業界が成立して以降、著述業のみで生計を立てる作家はそんなに多く
  なかった。その中で、売れない作家でも出版社が支え続けて大成するなど、互いの信頼関係が生まれ、現在まで続いている」と話す。>


 ★☆ 下線を施した部分、ここが、出版界にとっては広く”文化を育てる”役割と嘗ては自認してきた使命感であり誇りでもあった筈だ。それを自らの手で
    損なう愚昧さ、いやはや情けない!!   皆さん、そう思いませんか?

 
  見城氏は若き日「講談社」で名編集長と名を馳せ、幾多の作家を世に送り出してた人物だ。此の過ちは<傲慢>や<怠慢>と
   いった抽象的なミスではない。   齢70に近づき、知的老耄に堕ちたならば、出版ビジネスから去るべきだ。
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