正確には思い出せないほど前、たぶん帰国して間もない頃かもしれない。イ・ムジチ合奏団とローマ合奏団の演奏を聴く機会があった。残念ながら、其の時の印象は昔のLP盤や後のCD盤で
聞き惚れた好感とはかけ離れ、鼻白む記憶が遺った。今回のヴェネツィア室内合奏団の演奏はCD1枚が手元にあるだけなので、正直、イ・ムジチやローマほど先入観は無かった。
それが幸いしたのか、かれらの演奏水準が純粋に高かったのか、同じ時期での比較ではないため何とも言えないが、とにかく至福の時を味わわせてもらった。
プログラム構成は、ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲が4曲、同じくヴィヴァルディのチェロ協奏曲(RV.424)、そして、バッハ作曲・クラヴィエの為の曲をヴァイオリン2本用に編曲し<2台のヴァイオリンの為のプレリュード>と名付けられた作品、加えてタルティーニのヴァイオリン協奏曲(D.45)、この合計7曲であった。そしてアンコール4曲の大サービスが付いたので、聴衆の拍手は1曲ごとの拍手に加え、あたかも満席かと思うほどの大きさで鳴りやまず。目視でざっと500名程に見えたが、驚くほどの音量で男女交えたブラボーの叫びと共に割れんばかりの拍手音が長く続いたことを申し添えたい。聴衆の大半は年配者と見受けたが、年を感じさせない聴衆の興奮がビンビン伝わったのも珍しい体験であった。
さて、強く印象に残った演奏を曲順にいうと、まず、タルティーニのヴァイオリン協奏曲ニ短調Ⅾ.45だ。此の曲を私は初めて聴いたのだが、憂いに満ちた曲想がソロだけでなく、
弦楽合奏の旋律・和声にも終始溢れ、ヴィヴァルディの奏でる底抜けに蒼く明るい地中海イメージではない。
タルティーニが生きた時期(1692-1770)をヴィヴァルディ(1678-1741)に比べると、生まれたのもヴェネツィアのような大都会ではないうえ、家庭環境や成人後の境遇はヴィヴァルディほど順調ではない。 同世代の名ヴァイオリニスト・ヴェラチーニ(1690-1768)が順風満帆な育ちとキャリア(晩年は別として)だったのと比べても苦労したようだ。
此のヴァイオリン協奏曲に限らず、「悪魔のトリル」はいうに及ばず、ヴァイオリンソナタにおいても、その曲想に流れる哀愁は彼の人生を想像すると判る気がする。
ソロを務めたジュリアーノ・フォンタネッラの音色はまさにタルティーニ向きと言おうか、キラキラ感を消し、涙を思わず催させるかの如きくぐもりと、哀しみに貫かれていた。
文字通り会場が静まり返ったのである。 私の拙い筆力で感動が伝わるか怪しいけれども、どうか私の言わんとするところを想像戴きたい。
次の感動はヴィヴァルディのチェロ協奏曲(RV.424)だ。曲が秘める奥深さもさりながら、ソロのダヴィデ・アマディオが示した表現力の幅と、嘗てみたこともない技巧に、
私は掛け値なしに言葉を失った。 驚異的な速さで指板上を駆け巡る左手。縦横無尽な曲想を紡ぐ右手のボウイング。 テンポが速すぎるのでは?とも思わせる程の激情で駆け抜ける。
意外だが、上に述べたヴィヴァルディの<底抜けに蒼く明るい地中海イメージ>は全然姿を現さない。 タルティーニとは別の陰翳があり、これまた新しい発見だった。
最後に、アンコールの一つで演奏されたヴィヴァルディのヴィオラコンチェルト。モーツアルトやブラームスなどに比べても遜色ないほどヴィオラの特性を引き出した曲ではないか、
と感じた。弦楽合奏ではいつも地味で目立たないヴィオラだが、改めてヴィオラのしみじみとした良さに浸れたのもまた至福のひとときであった。 < 了 >
聞き惚れた好感とはかけ離れ、鼻白む記憶が遺った。今回のヴェネツィア室内合奏団の演奏はCD1枚が手元にあるだけなので、正直、イ・ムジチやローマほど先入観は無かった。
それが幸いしたのか、かれらの演奏水準が純粋に高かったのか、同じ時期での比較ではないため何とも言えないが、とにかく至福の時を味わわせてもらった。
プログラム構成は、ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲が4曲、同じくヴィヴァルディのチェロ協奏曲(RV.424)、そして、バッハ作曲・クラヴィエの為の曲をヴァイオリン2本用に編曲し<2台のヴァイオリンの為のプレリュード>と名付けられた作品、加えてタルティーニのヴァイオリン協奏曲(D.45)、この合計7曲であった。そしてアンコール4曲の大サービスが付いたので、聴衆の拍手は1曲ごとの拍手に加え、あたかも満席かと思うほどの大きさで鳴りやまず。目視でざっと500名程に見えたが、驚くほどの音量で男女交えたブラボーの叫びと共に割れんばかりの拍手音が長く続いたことを申し添えたい。聴衆の大半は年配者と見受けたが、年を感じさせない聴衆の興奮がビンビン伝わったのも珍しい体験であった。
さて、強く印象に残った演奏を曲順にいうと、まず、タルティーニのヴァイオリン協奏曲ニ短調Ⅾ.45だ。此の曲を私は初めて聴いたのだが、憂いに満ちた曲想がソロだけでなく、
弦楽合奏の旋律・和声にも終始溢れ、ヴィヴァルディの奏でる底抜けに蒼く明るい地中海イメージではない。
タルティーニが生きた時期(1692-1770)をヴィヴァルディ(1678-1741)に比べると、生まれたのもヴェネツィアのような大都会ではないうえ、家庭環境や成人後の境遇はヴィヴァルディほど順調ではない。 同世代の名ヴァイオリニスト・ヴェラチーニ(1690-1768)が順風満帆な育ちとキャリア(晩年は別として)だったのと比べても苦労したようだ。
此のヴァイオリン協奏曲に限らず、「悪魔のトリル」はいうに及ばず、ヴァイオリンソナタにおいても、その曲想に流れる哀愁は彼の人生を想像すると判る気がする。
ソロを務めたジュリアーノ・フォンタネッラの音色はまさにタルティーニ向きと言おうか、キラキラ感を消し、涙を思わず催させるかの如きくぐもりと、哀しみに貫かれていた。
文字通り会場が静まり返ったのである。 私の拙い筆力で感動が伝わるか怪しいけれども、どうか私の言わんとするところを想像戴きたい。
次の感動はヴィヴァルディのチェロ協奏曲(RV.424)だ。曲が秘める奥深さもさりながら、ソロのダヴィデ・アマディオが示した表現力の幅と、嘗てみたこともない技巧に、
私は掛け値なしに言葉を失った。 驚異的な速さで指板上を駆け巡る左手。縦横無尽な曲想を紡ぐ右手のボウイング。 テンポが速すぎるのでは?とも思わせる程の激情で駆け抜ける。
意外だが、上に述べたヴィヴァルディの<底抜けに蒼く明るい地中海イメージ>は全然姿を現さない。 タルティーニとは別の陰翳があり、これまた新しい発見だった。
最後に、アンコールの一つで演奏されたヴィヴァルディのヴィオラコンチェルト。モーツアルトやブラームスなどに比べても遜色ないほどヴィオラの特性を引き出した曲ではないか、
と感じた。弦楽合奏ではいつも地味で目立たないヴィオラだが、改めてヴィオラのしみじみとした良さに浸れたのもまた至福のひとときであった。 < 了 >
もし、覚えていらっしゃるならば、この日「ヴィヴァルディの世界」の詳細なプログラムを教えていただけないでしょうか?