静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

裁判員制度で急性ストレス障害(ASD):  福島地裁「苦役禁じる憲法に違反」しないと  訴え退ける

2014-09-30 15:08:32 | 時評
 http://mainichi.jp/select/news/20140930k0000e040187000c.html   各紙で報じられた件だが、判決の概要は①「裁判員制度自体は合憲」で②「原告の経験とASD症状の因果関係は認める」が③「裁判途中でも辞退することは配慮されていた」うえ④「裁判員は職業としての公務員ではない」ため⑤「国家公務員災害補償法の対象にはならない」と、福島地裁は賠償請求を棄却した。

 ①の合憲については民主主義の要である<三権分立精神の高揚>のためにも、私は異議がない。問題は、③でいう配慮がどこまで原告本人に選任時及び裁判途中で正確に伝えられたのか? 或は、無言の圧力(空気?)のようなものの支配がなかったのか? という点であろう。
 そのあたりがどう法律で規定されているのか確かめるため、私はネットで <刑事裁判に関する法律(平成十六年五月二十八日法律第六十三号)最終改正:平成一九年一一月三〇日法律第一二四号>に目を通した。  http://www.saibanin.courts.go.jp/vcms_lf/02.pdf
  読まれたらわかるが、裁判途中での辞退申し出を具体的に記述した条文は見当たらない。福島地裁が判決文にあげた③でいう「配慮されていた」というのは、(A)文書で説明のうえ裁判員に手渡されたのか?(B)裁判開始前の説明時にでも<口頭>で行われたのか、或は文書でもらいながらも(C)被告は頑張ってしまい、ASDを発病してしまったのか? ・・・(B)(C)のケースなら、如何にも日本的風土のもたらした悲劇である。

 私自身に選任された経験はなく、身近に経験者も居ないので、これ以上の推論はできない。在米時、部下が陪審員に選ばれたので有給取得申請したのを何人も扱った。だが、残念ながら、今回のような精神的苦痛を覚えた場合の処理について詳しく部下に聞くことは無かった。・・・・あったのかも知れないが、不明だ。今思えば、惜しいことをした。
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関西の旅  # - 2  < 大山崎町 界隈 >

2014-09-30 10:30:56 | 旅行
 2日目の朝は摂津と山城の國境、天王山に登った。標高は200m余りだが、淀川を山が挟む地形なので傾斜が思いのほか厳しい。然も、登山道が降雨には川となってしまうらしく石でゴロゴロ。とてもハイキング気分どころではなく、登山靴でなければ足が堪えるなと思っていたら、案の定、足がヘロヘロになっただけでなく革靴の底が外れてしまった。そんなハプニングはあったが、山頂手前の<旗立松展望台>からは北東に明智・羽柴両軍の古戦場《 写真:左 》が見え、西南には大阪平野《 写真:右 》が一望でき、戦略的要衝であることがわかりやすい。折しもNHK大河ドラマで重要な場面の舞台でもあり、好天に恵まれたのを感謝した。
                    
  山を降りて「大山崎山荘美術館」へ 《 写真:左 》。この建物は、ニッカウヰスキー創業を支援した実業家の山荘が紆余曲折の末に荒廃したため、京都府/大山崎町の要請もありアサヒビールが買い上げ、美術館としてスタートした。安藤忠雄氏の設計による地中展示場にある何枚かの睡蓮<モネ>を売りにしているようだが、率直に言って視力が衰えたモネ最晩年の作ではないかと疑いたくなるほどに色調も筆致もぼやけており、壮年時代に描かれた作品を観た者には、まるで老醜を直視させられたかの気分だ。 皮肉なことに、山荘の内装・外装とも素晴らしい木材が惜しげなく使われ、建築の美に寧ろ感銘を受けてしまった。明治・大正期にはまだまだ立派な巨木がふんだんに有り、大工の匠も多かったからこそこれほど贅を尽くすことも可能だったのだな、と改めて時の移ろいに想いを致した。
  美術館のあとはサントリーのウヰスキー工場見学へ。発酵工程では麦汁から出る匂いに接し、嘗てミュンヘン市街で嗅いだのと似てはいるが少し違うなどと独りごつ。貯蔵倉庫では経年ごとに樽の中のウヰスキーの色と分量が変化するのを観る 《 写真:右 》。 
                     
そしてテイスティングへ。 これが残念ながら、質量ともに期待外れのサーヴィスであった。   有料なのに、むむむ・・・。
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関西の旅; #-1   ” 晴れ男 摂津の秋空に癒される "     

2014-09-29 09:53:40 | 旅行
 関西の旧友を訪ねた短い旅。初日は先ず清荒神(阪急・宝塚線)清澄寺境内にある富岡鉄斎美術館へ。参道のゆるい坂を1Km余り登ると清澄寺が威厳を備えた風格で現れる。境内は広いといえないが、こざっぱりとした伽藍配置であり、紅葉時には借景の裏山がさぞ見事だろうな、とすぐにイメージが湧いた。美術館は境内の奥まった場所に建っている。
                      
 鉄斎は天保年間に生まれ、大正末期までの長寿に恵まれた文人画家。書も画も同一の筆墨による表現であるとの伝統的考えにたつ「書画同源」を忠実に実践した人こそが<文人>と称されるに相応しい、この手本となったのが鉄斎である。書の拙劣な私には絶望的な壁で、習っている水墨の師匠に接するたび、打ちのめされている。今回は端無くもそれを再確認することになった。
                      
  午後は万博記念公園にある国立民族学博物館へ。梅棹忠夫さんを仰ぎ見た世代の者にとり<民博>は是非とも訪ねたい場所。余裕に満ちたスペースを活かした展示は期待通り見事なもので、足が棒になるほど館内は広い。折からの秋晴れに「太陽の塔」が映え、1970年の初夏、万博会場建設の真っ最中に学生アルバイトで建設現場に来ていた頃を思い出した。林立したパヴィリオン跡は綺麗な芝生で覆われ、樹木も高く育っている。
  日本庭園の方から拡声器で何やら聞こえてきたので耳をそばだてると<神田川>や<この広い野原いっぱい>を唄っている。「いまどき、誰だろうな?」と。帰宅後、家内から南こうせつが同時代仲間の森山良子らフォーク歌手と共に野外コンサートを開いていたと聞く。 奇しくも、70年代の幕開けと日本の隆盛を象徴した万博会場の青空に、40年余りの時を越え、私の青春が共鳴していた。
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忘れてよ! 忘れたい李香蘭      < 死去の報にホッとしたのは 江沢民元国家主席? >

2014-09-25 10:20:03 | 時評
 今月7日死去した李香蘭(旧姓:山口、本名大鷹淑子さん)死去にまつわる逸話である。毎日朝刊<木語>; http://mainichi.jp/shimen/news/20140925ddm003070035000c.html
  <日本人、山口淑子が中国人歌手、李香蘭として上海でデビューした頃のことだ。当時の中国の地図を頭に描いてみる。中国は、西の「抗日」政権と、東の「親日」政権に分裂していた。「親日」政権であっても、日本軍に占領された中国人が親日になるはずはない。「夜来香(イエライシャン)」がヒットした1944年ごろは、日中戦争の末期。身の安全のために親日のふりをした。そんな時代の象徴が李香蘭だった>。

 <日本が戦争に敗れると、蒋介石の「抗日」軍が東にもどってきた。それ以来、「親日」という言葉は「漢奸(かんかん)(売国奴)」と同じ意味になった。「抗日」をしなかった「親日」は売国奴として断罪された。李香蘭が日本人と知らずに「夜来香」のレコードを買った人は肝を冷やした。どうすればいいのか。李香蘭も、「親日」政権の時代があったことも、みんなで忘れるにしかず。 だが、記憶は消えても記録は消えない。いまだに冷や冷やしている人がいるとすれば、元国家主席の江沢民氏だろう>。・・・・ここからが、俄然面白い。    <江氏は李香蘭が人気歌手になった、あの時代に南京の大学に入った。「親日」南京国民政府の作った南京中央大学だ。戦後、閉鎖されて南京大学に統合されたが、南京大学図書館が中央大学の学生名簿を保管していた。江氏は、南京時代の過去を忘れたい。となると、全中国人が忘れなければならない。「親日」南京政権の宣伝部副部長は江氏の実父だというドッキリ論文を書いた歴史研究者は、国家政権転覆扇動罪で懲役10年の刑になった>。   さもありなむ、である。

 <木語子>は云う <中国の指導者のなかで江氏がもっとも激しい反日の言説をとる。理由はこのあたりにある>と。 ふむふむ、成るほどね。
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国語世論調査:「世間ずれ」+「チンする」    < 慣用語句の誤解進行と外来語おきかえ >

2014-09-25 09:55:38 | 時評
 「名詞+スル」の増大と定着は、<れる・られる>の混乱と同様、多忙を極める現代では不可避の≪言語における時間節約衝動≫の一環というしかあるまい。これは、言葉の教育の改善では手におえない。 余談になるが、よく言われる<成る文化/スル文化>の見地からすると、「場所を表す名詞+になります」の多用と「動作を表す名詞+スル」の浸透は、これまた面白い好対照だ。
    他方、6つの慣用句の誤用/誤解は明らかに多忙さゆえではない。6つとは「他山の石・世間ずれ・煮詰まる・天地無用・やぶさかでない・まんじりともせず」だが、誤解以前に <意味がわからない>の回答が若い世代に多く出た慣用句があるのは世相の変化もあり、使用頻度の減少を云々できないだろう。
  唯、自分が青少年の頃、こういった慣用句をどのように教えられ・覚えたか振り返ると、親・或いは先生に「世間(と/に)ずれる/すれる、なのか?」「やぶさか」「まんじり」とは何か?と尋ねた記憶がある。辞書を引いたこともあったかもしれない。例えば「まんじり」とは「まじまじ」の音便であるとわかると、元の<ありあり、はっきり>を表す副詞まじまじが<視線をそらさずに見つめる>意味は現在まで残しつつ、<まばたきするさま>→<眠れないさま>に変化したのだと、ここまでは誰でも追いかけることができる。すると「まんじりともせず」を<じっと動かないで>などと誤解は生まれない。もうひとつ、(ずれる)は漢字なら(擦れる)、(やぶさか)は(吝さか)と書くと補助すれば誤解の回避にもなろう。慣用句に限らず、通用している語句を使う以上は、ルビを振ってでも感じで意味の理解を助ける手間を惜しんではいけない。TV画面を見ていると殊更に思うのだ。
  私が言葉に興味を持ち続けた子供だったからといえばそこまでだが、そういうガイダンスを与える親・周囲の老人なり教師なりが昔に比べ少なくなっているのだろう。「やぶさか」も、古語辞典に当たれば<形容動詞:けち・しみったれ>と出てくるので其の否定形が<仕方なくする>ではおかしい、と誰でも気づく筈。だが、言葉のいわれ・古い用法・語源などを辞書で丁寧にあたる習慣が家庭/学校/社会で指導されない場合、誰でも幼い頃には旺盛だった言葉への興味を失わせてしまう。 そうだとすれば、これらの変化すべてを、単純に時代趨勢だけで片付けるわけにはいかない気がする。
                         
 さて、外来語の日本語文脈中への折込だが、年齢層別の理解度/使用頻度などの差はいつの世も残ることなので、公共サービス部門は可能な限り日本語での言い換え、または併記を心がけるしかない。唯、言葉として外来語の受容が日本語の場合、カタカナの発音に依存していることの功罪両面をも示している。
 即ち、意味の対訳よりは、日本語の発音構造・音節類型・抑揚パターンなどにすんなりハマる<云い易い>外来語かどうか、という音韻上の観点が少なからず影響しているであろうと私は想像する。例えば<コンセンサス><プライオリティー><イノベーション>などは<キャンセル><メリット>のような2拍に収まらず長く感じられるので<云いにくい>となり、敬遠される。敬遠して使わないから意味も覚えられない、という循環ではないか? では「優先順位」だって長いじゃないかという声が聞こえるが、表意文字である漢字ゆえ、優先(ゆうせん)は音と意味が早くから記憶に刷り込まれただけ、といえないか?   ≪音と意味の結びつき≫の観点から外来語の処遇は考えたいと思う。
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