静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

 ~ゆく年 くる年~  ≪ 1 年 の 区 切 り に 想 う  ≫   私 が 考 え る ふ た つ の 事

2020-12-31 08:57:20 | トーク・ネットTalk Net
 毎年大晦日の午後11:45から流される、NHK総合TV番組タイトルに『 往くとし/来るとし 』がある。 これは道行く庶民に街頭でインタヴューする構成だ。
今年が貴方にとって どういう年だったか? 来年はどういう年であって欲しい? 何か個人的な努力目標や希望・抱負は有るか? ・・こう尋ねるパターンであろう、今夜も。
コロナウイルス感染の終息を願う点では誰も同じだが、感染さえ終われば社会が良くなるわけじゃない。 生活が以前に戻る事自体は、前進でも何でもないからだ。良い方に何が変わるか?

この風習に絡め、毎年、私が大晦日に抱く感慨と想いは次の二つについてだ。  皆さんは、如何だろう?
(A) 今年亡くなった物故者(公人)の評価  ← 好き嫌い+社会への貢献度
  1. 長生きして欲しかった人物は誰? ・・研究者・学者、作家、芸能人・俳優、芸術家とふり返る。 じゃ、政治家で誰か居るか? 中曽根氏? うむ、意見の割れるところか。 
  2. 公の場から早く退場して欲しかった人(おっと! 存命の人も含めよう)は誰?・・・ジャンル問わず、リストアップするのが馬鹿馬鹿しくなるほどたくさん居るのでは? 

(B) 1990年から続く”停滞の30年”を脱するには、日本社会はどう変わらないといけないのか? ← どうすれば変われるのか? 
  停滞と私が言うのは国際競争力の衰退及び国家経済だけではない。もっと深刻な停滞は、時代と世界の変化に対応できる柔軟性を政治家も国民も持てないまま、社会が変われず、昔を懐かしがる
  だけの心理だ。臆病で慎重。ドラスティックな変革を嫌う心情。論理追求を厭い、道理が引っ込み、目先の得失に流される。この習性が<戦略構想力><長い目で見た政策立案>を阻んでいる。

  国家ヴィジョンが無いと政治家が批判されるけれども、そんな政治家を国会に送り出したのは誰だ?? そう、我々国民だ。選ぶ我々に眼力が無いからヴィジョンを描ける人が育たないのだ。
   でも暴力革命は駄目だし、中国みたく独裁者に任せる仕組みも許せない。ならば、選挙で政治家たちをそちらへ仕向けるしか出来る事は無い。ちょうど2021年は衆議院選挙の行われる年だ。

いくら個人的に好きで、世襲の義理や実利があっても、自治体議員選挙ではないのだ。本当に国家のヴィジョン造りに役立てる人材かどうか? 後援会支援活動を離れ、考えてみようではないか?
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≪ わ た し の 2020 年 ≫    来 年 の 展 望 ?    ま だ 暗 い ト ン ネ ル を 出 ら れ な い 

2020-12-30 09:37:56 | トーク・ネットTalk Net
 読者の皆さんにとり、2020年はどういう1年だったろう? 私は今年を回顧するにあたり、まずは暦をめくり、今年を大きく分割してみた。

【1~3月】  ・年末~1月初旬、在米の長男と九州を周遊。高校生の途中で日本を離れ、もう25年余。本州の主要都市しか知らず、日本がどういう国土か知りたいと。2016年の北海道周遊に次ぐ。
       ・2/24日、ドナルド・キーン氏死去。エズラ・ボーゲル氏みたいに外から日本を評価するのでじゃなく、日本文化の内側から日本人に語り掛け、遂には帰化するほど愛してくれた。
       ・3月後半から外出自粛呼びかけ強まり、合奏練習見合わせで音楽など文化活動は停止へ。 
       ・3/29日、コメディアン・志村けん コロナウイルスで死去。女優/岡江久美子(4/23死去)と併せ、国民大衆にコロナウイルスの恐怖を植え付ける決定打となった。

【4~10月】 ・運動不足を予見し、1日から家内と早朝散歩を開始。一人ではサボりがちで長続きしないが、励まし合うと案外続けられるものだ、と日を追って納得。
       ・4/8日、コロナウイルス感染緊急事態宣言の発令。日本人の自制心を頼りに、法的強制措置は意図的に盛り込まない特措法の効果や如何に?? それは現状が雄弁に語っている。
       ・6/29日、居間のエアコン寿命が切れたらしく漏水&機能不良に。すわ!猛暑来襲の前に・・と買い替え取付が間に合い、記録更新続きの酷暑をなんとか乗り切れた。
       ・8/27日、重なるもので、ノート型パソコンの液晶画面が雨降り状態に。目に優しいデスクトップ型に買い替え。期待通り、眼精疲労が見違えるほど減った。
       ・10月に入り、コロナ第2波の収まりか、との気運で政府が行動規制を緩めた。世間は活動再開へ。5月の定演が流れた弦楽合奏団は無念の想い強く、練習を半年ぶりに再開した。

【11~12月】・10月末から京都下京区の民泊に逗留、知友と会ったり、奈良も含め国博や大和文華館での展示や未踏の名跡&紅葉を楽しむ。幸い、コロナ第3波流行の直前で難を逃れた。
       ・11月後半から≪ Go To ~≫キャンペーンでの移動拡大が災いし、コロナ感染第3波の招来に。『小出し・様子見・戦略欠如』3拍子揃う政府の無能ぶりが天下白日に晒された!
       ・12/21日、生まれて初の交通事故で被害者に。右大腿部打撲挫傷&血種は全治4週間の加療を要すと。通院で済む程度で収まったのは、不幸中の幸いか。あとは後遺症のモニター。

こうして振り返ると、恐らく皆さんと同様、明るく楽しい記憶として残った日々は余りにも少なかった。コロナ感染は地球上どの国にも平等に降りかかった天災だが、防御施策皆無の日本は人災であった。
高度経済成長終焉から停滞のまま30年。なのに、未だあの成功体験に日本人は縋りつき『日本人は優秀だ。日本の医療体制は最高だ』と虚しい神話を歌い続けたが、哀しいカナリヤでしかなかった。
SARSを他山の石と学ばず、人材育成含む防疫対策はゼロ。医療/教育面でITの活用は極貧過ぎて緊急事態に対応不能。休業補償&失業保険支出増大へ国税を投入せず、票田の観光業界への支援金ばかり。
 野党含む政治家の無力・無反省が若年層の被害者意識と政治不信/参画意識の低下を更に招く気がしてならない。 その先に待つのは、国粋デマゴーグに扇動される危険な国家主義・全体主義である。

 英米両国でワクチン接種を開始。仮に副作用が許容範囲に収まる結果が出ても、日本での接種はどんなにノー天気な希望的観測でも、優先対象者全員に行き渡るのに6~9ケ月かかるのではないか?
若年層に回るのは2021年後半から年末とすれば、日本全土でいわゆる集団免疫が生成される実質的感染終息宣言は Very Best で来年遅く、であろう。

 無論、私の素人予測が外れて正常化が早まるのを心から祈るけれども、まだまだ当面は社会も個人も忍耐を強いられる。精神疾患・自殺者・凶悪犯罪・失業者などの増加を覚悟せねばならない。
  幾ら焦ってわめこうが、経済活動も人心も低迷が続くだろう。  掛け値なしに、日本人は庶民も政治家も全員、一人ひとりが真価を問われる、文字通り未曽有宇の年になる。。 
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書評 【119】    打ちのめされるような すごい本     米原 万理  著       2006年10月 単行本    2009年5月 文庫化:いずれも文藝春秋社

2020-12-29 09:27:58 | 書評
 米原さんの著作は過去2度にわたり本コラムで取り上げた。 書評【0】「他諺(たげん)の空似」(2014.05.21.)及び【32】「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(2014.11.15.)。
書評には挙げなかったが「ガセネッタ&シモネッタ」(2000年刊)は言葉通り、抱腹絶倒して楽しませてもらった。 本書は、1995~2005年までに様々な媒体に載せた書評、及び「私の読書日記」
(週刊文春)を合わせたもの。卵巣癌で亡くなる2006年の前年に発行。 頁を開いて直ぐわかるが、彼女の読書量&ペースは並みの水準じゃない。通訳を生業にする暮らしは出張等に振り回される
多忙なモノだろうに、どうすれば此の驚異的な読書をこなせたのか? 視力2.0を頼りにしてたようだが、それだけではあるまい。

 彼女の才能を高く買っていた(丸谷才一・井上ひさし)の両人が<解説>と称して賛辞、いや弔辞を寄せている。 その丸谷氏・井上氏ともに、世を去ってしまったが、彼女の書いたものに
触れるたび、本当に惜しい人が早や死にしたなと私は慨嘆してしまう。 才女薄命! ポートレイト写真を知らないが、機関銃連射の如き文章と、溢れる思索エネルギーからすると、パワフルなガタイに
とんでもない頭脳を乗っけた女性であったろうと想像してしまう。

『帰国子女』という言葉も無かった60年代に少女期を東欧で送り、特異な人生を歩んだ。その辺りは自伝でもある「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」を読まれたい。欧米やアジアではない文化圏で
異文化体験そのものを送った米原さんは、ゴルバチョフ、エリッィンから指名されるほど優秀なロシア語通訳の人生を送っただけの人にはならなかった。
 属国扱いされ抑圧される一方の東欧諸国を肌で感じて育ち、そのソ連を近くから眺めた彼女が、長じて帰国した日本は”アメリカの属領”だと見抜く。これまた、外から外国も母国も同じ距離で冷静に
見抜ける眼力を養った米原さんならではの変わらぬ視点となった。此の視点は上に挙げたエッセイに色濃く現れるが、「読書日記」と題した書評においても鋭く火花を散らしている。
どうしてもロシア、或はソ連時代の話題にちなむ書評が多くを占めるが、彼女の存在なくば、ロシア文学研究家達の専門論文や狭いエッセイしか世に遺らなかったと思えば、極めて貴重ではないか。

 2000年前後の政権移動や政党間のドタバタを経て小泉内閣になった頃にかけて、日ソ首脳交渉の通訳を務めた米原さんがオブラートに包みながら批評する小泉、鈴木(宗)らの姿は貴重だ。
それは彼女が癌に悩まされ始める頃でもあるが、本当に惜しい人を失った。 つくづく、残念でならない。
 世紀が替わり20年経ったが、アメリカの属領状態はそのまま。 未だにまともな政党政治が出来ない日本。 若し彼女が生きていたら、どういう言葉を発しているだろう???
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書評【118】    拝 啓 天 皇 陛 下 様    棟田 博 著      1962年 講談社初版          

2020-12-27 09:45:37 | 書評
 此の作品は1962年(講談社)にて発表、1963年4月に映画が公開された後の1974年、光人社≪ 棟田博・兵隊小説文庫第6巻 ≫に。映画では【山田正助】役に渥美清、【私/棟本】役は長門裕之、
そのほか錚々たる配役陣を得て、興行は成功している。続編も作られたほどで、70代以上の方なら映画を観た人も少なくないだろう。

 著者は1929年の入営前に早稲田大学中退後、郷里の岡山県津山市にもどり地元の短歌同人サークルに属した文学青年であった。大学まで進んだ者への特権扱いを辞退し、一兵卒で入隊した
兵営暮らしの2年間は外地へ派遣されることなく除隊したが、二度目の応召で山東省へ。1938年5月「台児荘の戦闘」で負傷、帰還後の内務を経て1939年除隊。長谷川伸の指導を仰ぎ、除隊前後に
まとめた最初の作品が『分隊長の手記』で、雑誌(大衆文藝)に発表されるや当時のベストセラーになったという。
 この成功でプロ作家と見做されたのか、太平洋戦争中は陸軍の従軍作家としてジャワ&ビルマを回り、かの悪名高い<インパール作戦>も同行。 自身の軍隊体験を素材とする一連の作品は後に
「兵隊小説」と括られるが、戦後最初のヒット作が『サイパンから来た列車』(1955年)。次のヒットが此の『拝啓~』で、再びベストセラーに。

 著者の棟田氏は1909(明治42)年生まれというから私の父より4年早く生まれている。氏と違い、父は1933年の入営後、広東からハノイ、海南島へ出征、除隊後は郷里で林野庁に職を得た。
幸い、太平洋戦争開戦前に台湾総督府に転勤したので二度目の従軍は無かった。だが、公務員だったため国民党進駐軍への業務引継ぎや在留邦人送還処理で身体を壊し、自身は遅い引き揚げとなった。 
 まったく、毎日新聞連載『世代の昭和史』で保坂正康氏が指摘するように、何年に生まれ、1945年に何歳であったかの僅かな差で、当時を生きた男女の人生航路はガラッと違った。
其の原則は、何時の時代も普遍とはいえ、国家存亡を賭けた戦争を挟む時期は、何時にもまして劇的な違いを招く。 例えば、三島由紀夫(1925年生)がもう5年早く生まれていたら? 
と考えてみよう。 市ヶ谷で自刃する三島由紀夫は無かったかもしれないし、私人/平岡公威(ひらおかきみたけ)としてどういう人生を歩んだか?  No One Can Tell It.

 さて、本作で感心したのは事実上の主役である【山田正助】の設定だ。孤児として学校も通えず辛酸を舐めたので、辛い時間しかなかった娑婆を出られ、タダ飯にありつく軍隊に入れたことを
無上の幸せとし、山田は嬉々としてシゴキにも耐え、戦地派遣を志願する。前線兵士は貧窮に苛まれた男や、しがない底辺の男達ばかりという此の設定が、何よりも痛烈な社会風刺であり、読者に
大日本帝国の実態を突きつける。戦前は『分隊長の手記』しか書けなかったが、敗戦後ようやく『拝啓天皇陛下様』を書けたのだと思うと、天皇の戦争責任追及意識と、戦前国家の否定が
60年代前半までは残っていた事が浮かびあがる。

 タイトル『拝啓天皇陛下様』は、山田が朝鮮に赴任した中隊長を慕い、派遣志願を昭和天皇に直訴しようと、タドタドしい平仮名で宛名を書く場面から取られた。小学校も行けず無学を馬鹿にされる
山田を見かねた中隊長が、娑婆で教員をしていた初年兵に命じ、兵営の中で字を覚えさせたというストーリーが伏線だ。恐らく【山田正助】の原型となる人物が棟田氏の周囲に居たのかもしれない。
兵舎内生活だけでなく棟田氏の描写は細密且つ具体的であり、山田の人物描写もリアルなので、全くの架空創作とは思えないのだ。 若しほとんどが創作なら、作家としての才能には脱帽しかない。
 天皇制及び帝国軍隊に凝縮された戦前までの日本と言うクニの歩み、本書は惨めな一兵士の生きざまを通して、婉曲にそれを否定する。

 内務班での陰惨な人間関係から旧軍を描いた野間宏(1915年生)の『真空地帯』、ビルマでの捕虜生活から大日本帝国を描いた会田雄次(1916年生)の『アーロン収容所』などと比べる時、
3人とも同じく大学まで進んだ学歴ながら、本書で著者が保つ視線は最も低い。そこが『分隊長の手記』ではどうなのか?  次に読もうと手配したので、愉しみにしている。   < 了 > 
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≪ なぜ、論理+合理性追求を貴ぶ筈のヨーロッパ人は 王制打倒した国民国家の成立後も 今なお 一神教を捨てられないのか? ≫   (神)に縋る人は 本当に救われてるのか?

2020-12-24 21:33:37 | トーク・ネットTalk Net
 先日の書評【116】<ルネッサンスとは何であったのか>の最後で、ルターの宗教改革とマキャベリの「神による人間性改善・救い」を巡る考え方の違いに私は触れた。それは個人の自立と「神」を
抱く生き方の間で避けられない問でもある。反宗教改革の嵐が揺れ動くなか、王制と市民権利意識の戦いは仏革命で転機を迎え、王制と教会権力が仕切る仕組みを離れ、今に繋がる統治形態に結び付いた。

  然し、王制を捨てた国ですら、教会権力は心の統治者として現在まで多くの国で存続し続ける。それは何故なのか?

嘗て、多神教に立つローマ帝国がパレスティナの土俗宗教に過ぎず、しかも多神教がもつ寛容さをもたない、極めて排他的なユダヤ教及びキリスト教を最初は弾圧しながら、遂に国教として追認したのは、
教徒の増大を利用すれば帝国統治の再編・強化に便利だ、が動機であったからとギボン「ローマ帝国衰亡史」では観ている。
 広大な帝国の支配が弱体化して動揺した民心にキリスト教が巧みに付け込んだからだ、それを無視できなくなり利用に踏み切ったとの解説だ。『王様も頼りないから、強そうな絶対者にすがりたい』
此の素朴な気持ちこそが、あらゆる一神教のつけ入る土壌であり、その解説は妥当かもしれない。

 ルネサンスで生まれた、ダヴィンチに代表される”事実を追求する精神、偏見や迷信を馴打ち破る精神”が科学技術の発展をもたらし、18世紀の産業革命をもたらす基盤となった歴史が有りながら、
なぜ抽象的で排他的な「神」の措定を「非合理的で無用の長物」と多くのヨーロッパ人は切って捨てられなかったのだろうか??? 無論それは他の地域、例えばアメリカ人も同じだ。
「神」を抱こうが抱かまいが、地上の混乱と不安定は関係なく続き、ヒトの争いは無くならない。寧ろ争ってるのは一神教信者同士であり、そこに抽象的な絶対者が、どう役に立つているのか?

一神教は理屈無しの信心を前提にするので、科学的分析や疑問の対象とすることを拒否する。 これほど科学精神を発展させてきた明晰な人々が 此の矛盾を 何故ばかばかしく思わないのか?

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