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松長有慶先生著『空海』を読んで

2022年07月15日 11時13分20秒 | 仏教書探訪
【六大新報令和四年七月五日号掲載】
 松長有慶先生著『空海』を読んで



松長有慶先生の最新刊・岩波新書『空海』を拝読させていただいた。岩波新書として、三十一年前に発刊された『密教』、八年前の『高野山』に続く三部作の三作目である。

読み始めてしばらくすると、さてこの本は何の本を読んでいるのかと不思議な感覚をおぼえた。それは、「あとがき」にもあるように、本書は弘法大師空海の生涯について歴史的に叙述されたものではなく、その生涯にわたる特徴的な思想を十の主題に分け、大師の全体像を著書、詩文、書簡類も合わせて総合的に把握せんと試みられた著作だからであろうか。

あるいは一般読者にも理解できるように、それぞれのテーマの説き始めが古代インド、ないしインド文化についてであったり、サンスクリット語の語彙や釈尊からはじまるからであろうか。それぞれに先生の幅広い見識が示され、仏教や密教の基本的な考え方から、大師の著作の本質的な意味に至るまで多岐にわたりわかりやすく解説しつつ論を展開されている。

十章に及ぶ主題は、まさに、十方から大師に光を当て新たなる大師像を多面的に現代に浮き上がらせているようだ。そしてそれは、「あとがき」にもあるように 間違いなく近代科学文明の危機を突破する糸口としての思想的役割があるはずであると思われた。

第一章は「果てしない宇宙と有限世界」と題して、大師の思想と生涯の活動の基底に瑜伽(=禅定・瞑想)が存在すると説く。若き日の大師が室戸の崎で真言を念誦して瞑想に励んでいたとき、明けの明星の鋭い光を全身に浴びた異次元体験から説き始められ、日常の現実世界から宇宙的規模で広がる無限の世界に入る唯一の手段は瞑想を措いてないとされる。それは、仏教でいう禅定のことであり、一般読者にも理解できるように三学、止観、四念処、マインドフルネス、そしてインド密教にまで話が膨らみつつわかりやすく解説される。私たちもその瑜伽を人生の根底に置くことが必要だと諭されているように思われた。

第二章は「自然観」と題して、大師は現実世界そのものである大自然の中に仏の教えを聞き取ることを教えていると説く。インド密教の伝統である瑜伽を山林において実践せんとする大師は、平安初期の律令体制下に新来の密教を定着させるため都において活動される一方、山林に入り瑜伽観法に耽ることを常に模索されていた。そして弘仁の末頃からは、俗事を避け深山に籠り、修禅に専念することを求められたという。それを『性霊集』の詩文や『高野雑筆集』の書簡を紹介しつつ丁寧に読み解いていかれる。

第三章は「対立と融合」と題して、その自然と人間、カオスとコスモス、聖と俗というような対立する概念も、本来融合し一体であるとする考え方について説く。仏と人について大師が解明した即身成仏思想について『即身義』の二頌八句を解説され、大師は、対立する存在ももともと大宇宙の一つの真理の両面に他ならず、仏も人も、物と心ももともと一つなのだと主張したという。現代の環境問題について考えるとき、生きとし生ける者の成仏を願い、一切のものは仏の三摩耶形と捉える大師に学び、植物や小動物、山や土の苦痛を感じとれる感性をもてと先生は諭されている。

第四章は「自と他」と題して、自と他の密教的な関係性について説く。日常生活を成立させるために欠かせない自他の関係について、代表的な五つの関係性を挙げて説明され、同化や排除ではなく、個体Aと個体BがBの個性を保持しつつAがBを包摂して一体化する密教的なあり方を解説される。大師が『三教指帰』に示すように、儒・道・仏の三教は最終的に一致すると捉えるその関係性も、また『十住心論』において、第九住心までの各段階も第十住心の秘密荘厳心から見ればすべて密教に外ならないとする関係も、ともに包摂的な関係と捉える。相手の宗教的信条、価値観、社会観が異なっても、異質な面を見て排除するのではなく、こちらからは欠点と見えるものの中に逆にかけがえのない長所を見つける目を育てることが大切であると諭される。

第五章は「読み替え」と題して、大師の著作について、いたるところに施された文字と文章と思想の読み替えについて述べられる。それらについて古くから、文書の写し間違え、語学能力への疑念などがあったというが、一見不合理な記述の中に、独特の見解や密教眼からなされた真実の読み取り、解釈が含まれているとされる。これも瑜伽観法の体験から来る自らの見解への確信によるものと言えまいか。

第六章は「仏陀の説法」と題して、釈尊による初転法輪から説きはじめられ、大師の仏身論について説く。顕教の三身説から、その中の法身を四種に開いた密教の四身説などについて丁寧に解説される。そして、大師は法身のうち自性身と自受用身は時空を超えて説法し続けているとされ、私たちはいつでもどこでもそれを受け取れるという。しかしそれはそう簡単なことではない。無限の宇宙からの「声なき声」を受け取るためには、宇宙から発信されるものを受信できるよう瑜伽の行を積む必要がある。大師はこうした五感でしか捉えきれない感覚文化を巧みに把握する装置を全身に備えていたに違いなく、そうして隠されている永遠の真実なるものを日本に移植し定着させようとしたのだと説かれる。

第七章は「教育理念」と題して、綜芸種智院の開創から筆を起こされ、大師の思想の核心について述べられる。二〇一〇年、先生が全日仏会長時代に「世界経済フォーラム」年次総会に招請され、その時に準備された講演要旨の日本語版が全文掲載されている。その内容が現代社会に対する大師の教育論になっていたとされるが、そこには現代社会の危機に対し有効と思われる提言が三つあげられている。①生きとし生けるものが相互に関連し、もとより一体として存在していること。②地球上に存在する各々の文化は影響を与えつつ独自の価値を持っていること。この二つは、グローバル化によって価値観が単一化されつつある今の世界にあっては正に不可欠の視点であると思われた。また③現代社会に生きていること自体が地球環境の破壊に関与しているという意識から社会のために何が出来るのか、環境保存のためにどのように寄与できるかを考える事態が到来していると指摘されている。

第八章は「国家と民衆」と題して、大師の国家との関わりについて説く。ともすると大師は歴代天皇に親近し国家に奉仕した封建的な人であったと評価されるが、『性霊集』の上表文などを引いて、あくまで天皇とは私的文化交流に過ぎず政治関係の話はなかったとされる。また四恩説について解説され、本来大師の考えられる四恩は中国や日本で古くから認識されていた生きとし生けるもの全体を漠然と指すものだという。そして、大師はよりスケールの大きな宇宙的な規模での目に見えぬ恩恵を享受して生かされていると考えられていたであろうとされ、それに対する密教的恩返しは無限に継続する利他行によってつぐなうことではないかと説かれる。

第九章は「生死観」と題して、人の生死について、大師はどのようなお考えをお持ちであったかを『性霊集補闕抄』から噠嚫文や願文を参照して説く。病や死をもたらすのは、その人の過去の業によって引き起こす鬼神の仕業とされながらも、古来仏教の説く無常を覚ることによって死を越える、あるいは真言密教の教義を深く説き訴え成仏を祈られたのだという。 

第十章は「入定信仰」と題して、入定とは何かその意味について、それから入定留身説の宗教的伝承の意味について説かれる。そして、今なお高野山の奥の院に生きて御身を留め人々の救済に尽力されているとされるのはなぜか。それは、その根底にある非合理な表現によってしか真実の意味を伝えることの出来ない宗教的表現なのだと論じ、その主な理由に二つあるとされる。その内容に、これこそ正に大師の大師たる所以と納得した次第であるが、それは実際に読んでお確かめ願いたい。

以上、一章一章、まことに濃く深い内容が凝縮している。まさに六十数年に亘る先生の丹精を込めた研究の結晶とも言えようか。来年には、弘法大師御生誕千二百五十年の記念すべき年を迎える。この機にあたり、改めて大師の思想と足跡について現代的な意義を学び直す格好のテキストとなるに違いない。是非手にとってじっくりと味わいつつお読み下さることをお勧めしたい。


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