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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

備後國分寺だより 第55号(令和2年4月5日発行)

2020年04月01日 08時52分47秒 | 備後國分寺だより
令和2年4月号(B5・16ページ・年三回発行)



◯薬師如来の真言は、なぜ「オンコロコロ・・・」なのか

これは長年解けない難問でした。薬師如来の真言は意味不明であり、なぜ仏様の前でこの真言を唱え拝むのか、理解できなかったからです。

まず、お薬師様の真言とされる「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」のいろいろな訳し方を見てみましょう。
「仏様よ、早く人々の願いを成就したまえ」
「帰依し奉る、病魔を除きたまえ払いたまえ、センダリやマトーギの福の神を動かしたまえ、薬師仏よ」
「速疾に速疾に暴悪の相を有せるものよ、降伏(ごうぶく)の相に住せる象王よ、わが心病を除きたまえ、成就あらしめよ」
などなど。

ところで、藥師真言には以下のように三種類のものがあります。
小咒「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」
( oṃ huru huru caṇḍāli mātaṅgi svāhā)
中咒「オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャ サンボリギャテイ ソワカ」
(oṃ bhaiṣajye bhaiṣajye bhaiṣajya samudgate svāhā)
大咒「ノウボウ バギャバテイ バイセイジャ クロバイチョリヤ ハラバ アランジャヤ タタギャタヤ アラカテイ サンミャクサンボダヤ タニャタ オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャサンボリギャテイ ソワカ」
(namo bhagavate bhaiṣajyaguru vaiḍūryaprabharājāya tathāgatāya arhate samyaksambuddhāya tadyathā oṃ bhaiṣajye bhaiṣajye mahābhaiṣajya -samudgate svāhā)

それでは、さっそく小咒の意味を『真言事典』(平河出版刊八田幸雄著)を参考にして、ひもといてまいりましょう。訳としては、「帰命、普き諸仏に。オーム、フルフル(欣快なるかな)、チャンダリ・マータンギ鬼女よ、スヴァーハー。」とあります。

これは解説に、不空(ふくう)訳『仏頂尊勝(ぶつちようそんしよう)
陀羅尼念珠儀軌法(だらにねんじゆぎきほう)』の無能勝(むのうしよう)真言では、nama samanta -buddhānāmuを冠す、とあることから、冒頭に「帰命普き諸仏に」と挿入されているようです。

はじめに、オンとは、古来インド宗教で聖なる音とされ、仏教では帰命、供養、称賛を表すとされています。コロコロとは、歓喜の間投詞で喜ばしきことよとか、速疾に、と訳されます。

では、センダリ(正しくはチャンダリ)とは何でしょうか。caṇḍāliは『梵和大辞典』(山喜房仏書林)に、旃陀羅(せんだら)家女(けのおんな)とあり、caṇḍālaには、社会の最下層の人(シュードラの男とブラフマナの女との間に生まれた混血種姓にして一般に蔑視し嫌悪せられる)、漢訳では、屠種(としゆ)、下賤種(げせんしゆ)、執暴悪人などとあります。現代ヒンディー語でチャンダーラと言えば、不可触(ふかしよくせんみん)の一種姓を指します。

また、マトウギ(マータンギ)は、mātangaを大辞典で引けば、象、または象たる主な最上の者とはあるが、最下級の種姓の人[caṇḍāla]ともあって、漢訳にはやはり下賤種、旃陀羅摩登伽(せんだらまとうが)種とあり、チャンダリとマータンギはインド社会の中で最も虐げられた下層の人々(女性)を指すと考えられます。

なお、スヴァーハーとは、svāhāを大辞典で引けば、幸あれ、祝福あれと訳すようですが、現代ヒンディー語では、供儀の際に発する言葉であり、(神に)捧げ奉ると訳します。

もとより調べをしてみればこのような意味合いとなることを存じていたので、冒頭にあげたように訳されている意味合いにどうしたらなるのか、いかなる解釈を付けるべきか解らなかったのです。

しかし今朝(1/26)本尊薬師如来の供養法を修法していて、ふとこれらの疑念が一瞬にして溶解したのでした。その時、頭にひらめいたのは、これは薬師如来の心の底から起こってくる願い、誓願であって、社会の最下層の人々、虐げられて痛ましいチャンダリマータンギの人々こそ速やかに救われて欲しい、その人たちが救われるならば、すべての者たちもより良くあるはずである、そしてすべてものたちの悩み苦しみがなくなり、生きとし生けるものたちが幸せであって欲しいというお薬師様の願いを最も短い言葉で表現したものに違いないと思ったのです。

やや専門的な話になって恐縮ですが、真言宗の諸尊を供養し拝む修法の中で、入我我入観(にゆうががにゆうかん)という仏と一体となる瞑想にひたった後、本尊の真言を数珠を爪繰りながら唱える正念誦(しようねんじゆ)という祈念をするのですが、その際唱える真言はどちらが相応しいのか。つまり、小咒か中咒かという問題があります。

中院流という高野山の流派では小咒であり、國分寺が先代まで修法してきた三宝院流では中咒となるのです。そのため、これまで私も中咒を唱えていたのですが、次第にしっくりこないものを感じていました。本尊と一体不二となりながら中咒では不具合を起こすと言えばお解りがいただけるでしょうか。そして今朝、入我我入観から正念誦にうつる時、お薬師様の願いはと心を向けた瞬間に小咒の意味するものが了解されたのでした。

中咒は大咒をつづめたものに他ならないので、大咒の意味を確認してみますと、『真言事典』の大咒の訳には、「帰命し奉る、世尊薬師瑠璃光如来、阿羅漢、等正覚に。オーム、医薬尊よ、医薬尊よ、医薬来生尊よ。スヴァーハー」とあります。

つまり、これでは、自分と別の対象として、薬師如来に向けて唱えることになるのです。ですから、入我我入観の後に唱える正念誦は中咒よりも小咒が適当なのではないかと思うのです。本尊薬師如来と一つに、その願いをともに口に唱え念じることが肝要ではないかと思います。

このように思っておりましたら、ある方から、「いやいやセンダリマトウギは、そういう意味ではあるけれども、転じて仏教を外護する役割をもつようになったんですよ」とご意見をいただきました。

勿論そのようなことも存じてはおりましたが、だからこそ冒頭にも記した、この真言の訳し方の事例の中にあったように「センダリやマトウギの福の神」にもなるし、「降伏の相に住せる象王」という表現にもなるのです。が、はたしてそのような解釈でよいのであろうかと考えて、長年思案し続けてきたのでした。

ところで、田久保周誉先生の『梵字(ぼんじ)悉曇(しつたん)』(平河出版社)二一五頁には、「唵(おん) 喜ばしきことよ。旃蛇利(せんだり)・摩登祗(まとうぎ)女神は(守護したまえり)」と訳された上で、?マークが付されています。

解説には、「この真言は『薬師如来観行儀軌法(かんぎようぎきほう)』等に見える薬師如来の小呪である。呼嚧呼嚧(ころころ)は歓喜の間投詞である。戦駄利(せんだり)(旃蛇梨正しくはcaṇḍāli)は古代インド社会階級のうち、最下層に属する卑族旃陀羅の女性名詞、摩蹬祗はその別名であり、悪徳者と見做されていたが、仏の教化(きようけ)によって衆生の守護者に転じたと伝えられる女神である。・・・この真言に薬師如来の尊名がなく、鬼女神の名のみを挙げてあるのは、薬師如来の生死の煩悩を除く本願力を、鬼女神擁護の伝説に喩説したものであろう。」とあります。

このように、仏の教化によってチャンダリ・マータンギ鬼女が衆生の守護者に転じたとあるのですが、だからといって、なぜ教化せしめた側がその者の名前をわざわざ真言の中に、それも、その者の名前だけを入れ込まねばならないのかが問われねばなりません。

そもそもこの真言の出典が『薬師如来観行儀軌法』などとありますように、密教儀軌に由来します。密教的要素が多分に含まれるとされる『薬師本願功徳経』など薬師経は、五世紀中頃中国で漢訳されていますが、近年中央アジアなどで発見された薬師経写本も五世紀頃までさかのぼることができるといいます。

そして、それよりも一世紀ほど早い三世紀末成立とされる、雑密経典に『摩(ま)登伽経(とうがきよう)』があります。これが田久保先生も記される卑族旃陀羅教化の出典であろうかと思われます。

『大正新修大蔵経(だいぞうきよう)』に収録された経典までたどれないので、それからの引用である『佛弟子傳』五一二頁(山邊修学著無我山房刊)よりその内容を要約しますと、

「お釈迦様の侍者であったアーナンダが旃陀羅種のマータンギの娘から水を飲ませてもらったことに起因して、その娘がアーナンダに恋慕の情を募らせます。そして、その母親とされる呪師によって、牛糞を塗って壇を築き護摩を焚いて呪を唱えながら蓮華を百八枚投じる呪術がなされると、アーナンダがこころ迷乱してその家に誘導されていってしまいます。すると、天眼をもってそのことを知られた、お釈迦様が『戒の池、清らにして衆生の煩悩を洗ふ。智者この池に入らば無明(むみよう)の闇消えむ。まこと此の流れに入りし我ならば禍を弟子は逃れむ。』と偈文を唱えてアーナンダを救ったということです。

しかし、その後も、娘のアーナンダに対する恋慕は止むこと無く、町に出たアーナンダの歩く後ろに付き従い祇園精舎にまで足を踏み入れると、それを知ったアーナンダは恥ずかしさ浅ましさを感じ、そのことをお釈迦様に申し上げました。

すると、お釈迦様は娘に、アーナンダの妻になるには出家せねばならぬと語り、父母にもたしかめさせてから髪を剃り出家せしめたのでした。そして、『娘よ、色欲は火のように自分を焼き、人を焼く。愚痴の凡夫は、灯に寄る蛾のように炎の中に身を投げんとする。智者はこれと違い色欲を遠ざけて静かな楽しみを味わう。・・・』などと様々に教化されました。すると、白衣が色に染まるように娘の心の垢が去って清涼の池に蘇り、遂に悟りを開いて比丘尼となったということです。」

こうした話が仏典にもあり、またこれより後には、呪術をつかさどる力あるものとして伝承されたためか、ヒンドゥー教ではいつの時代からか、チャンダリマータンギは女神としての尊格を与えられるのです。そして、最下層の人々が礼拝していたとされるマータンギー女神となり、穢れを嫌わぬ禁忌のない音楽芸術をつかさどる神としてダス・マハーヴィディヤー(十人の偉大な知識の女神)の一尊としても尊崇されているということです。

しかしだからといって、薬師如来の真言に、その女神の名が用いられたとするのはいかがなものでしょうか。ましてや、その神としての力を念じて、その力によって人々の病魔を除き給え、心病を除き給えと念じるというのは、仏教徒として余りにも残念な解釈とは言えないでしょうか。教化した仏が教え諭した者の名前を唱えて、そのヒンドゥーの女神の呪力によって人々の願いを叶えるなどという解釈はあり得ないことであろうと私は考えます。

私がこのように解するのは薬師如来はお釈迦様と本来同体と考えるからです。『密教辞典』六八〇頁(法蔵館刊佐和隆研編)薬師如来の項に「医王善逝(ぜんぜい)などの名は本来は釈迦牟尼の別称で、世間の良医に喩えて釈迦が迷悟の因果を明確にして有情の悩苦を化益(けやく)する意であるが、釈迦の救済活動面を具体的に表現した如来である。世間・出世間に通じる妙薬を与える。」とあります。

つまり、薬師如来というよりも医王、もしくは薬師仏としての原初に返って、お薬師様を捉えてはいかがであろうかと思うのです。そう考えるならば、両部曼荼羅に薬師如来が不在なのもこれで了解できます。薬師如来が十二の大願をもって如来となったという大乗経典にある説は、後世の人々にとっての願いをこの如来に託しつくられたものでありましょう。

では、「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」をあらためていかに解釈すべきかと考えるならば、「オーン、フルフルと速疾に、社会の中で最下層のセンダリ・マトウギたちに、幸あらんことを、(そしてすべての命あるものたちが苦悩なく幸福であらんことを)」としてはいかがでしょうか。さらに、この意味から、お薬師様の誓願として、次のように意訳したいと思います。「すみやかに最下層にある者たちが救われ、すべての生きとし生けるものたちがもろともに痛みなく、悩みなく、苦しみなく、しあわせであらんことを」

お釈迦様は何の躊躇もなく、まさに世間では卑しく蔑まれていた旃陀羅種のマータンギの娘を教化されました。その教化せんとされた願い、四姓(カーストなどの階級)の別なく、すべてのものたちがよくあらんとされる心、心病による苦は癒やされ、安楽なることを願う、すべての衆生に利益を与えんとされる医王であるお釈迦様の心、それこそがお薬師様であります。

その心に随喜して、私たちもともにこの誓願を念じさせていただくのだと思い、すべてのものたちに思いを拡げ、その中にはお唱えする私たちも当然含まれているのですから、ともにこのすべての生きとし生けるものがよくあれと、この真言を唱えることで、自分自身の願いも叶うと思いお唱えしたいと思うのです。

お薬師様の広大な慈悲の心に包まれ一体となって、その願いをともに念じ、「オンコロコロ…」とお唱えしたいと思います。(全)


◯【六大新報令和元年七月十五日号掲載】松長有慶先生著
『訳注(やくちゆう) 即身成仏義(そくしんじようぶつぎ)』を読んで

松長先生の最近刊となる『訳注 即身成仏義』(春秋社刊)を拝読させていただいた。そもそも筆者が初めて『即身成仏義』(以下『即身義』と略す)を読んだのは、栂尾祥雲先生の『現代語の十巻章と解説』(高野山出版社刊)においてであり、専修学院に学んでいた頃であるから三十年も前のことである。誠に申し訳ないことではあるが、それ以来まともに『即身義』と対峙することもなかったのである。が、この度改めて松長先生の解りやすく、されど伝統的な解釈に忠実に懇切丁寧に説かれた本書を読んで、新たに様々なことを学ばせていただいた。

まず巻頭の「『即身義』の全体像」において、『即身義』は当時の天台の学匠や南都の碩学(せきがく)、知識人に、即身成仏という画期的な教えの根拠を示すものとある。それは単に成仏する時間の問題だけでなしに、人と仏、物と心というような二元的な存在の本来的同一、さらに山川星辰など非情も仏に他ならないことが説かれるとされる。

『即身義』の著作年代については、即身成仏という表現は弘仁の初期に書かれた『辯顕密二教論(べんけんみつにきようろん)』中に、密教の四カ条の特色の一つとして登場するが、まだ即身成仏思想の構想は熟しておらず、その後の大師の著作などから思想形成の過程が語られ、弘仁六年以降遅くとも、高野山に金剛峯寺が建立され、東寺を下賜(かし)される弘仁の末頃までに『即身義』は出来上がっていたと推定せられる。

そして、即身成仏、特に即身という語を説くための三種のキーワードについて解説されており、六大については、現実世界を構成する要素ではなく、五大としての物質的なものと識大としての精神的なものとの総合体であり、物と心は元々同体として存在するとされる。

四曼については、特に法曼荼羅とは行者が金剛微細智(みさいち)の境地に入り体験する音や響き、声、光、根源的なコトバを表すものであり、羯磨(かつま)曼荼羅は活動智を表現するため本来は五仏以外女尊形で描かれるべきものであることが紹介される。

三密加持については、加持とは行者と仏との入我我入であり、三密加持とは身口意の三密それぞれが一体化した状態であり、仏・衆生・自然これら三者の三密も一体化し、融合していることをいうのであるという。

そして本編に入るが、各段ごとに、はじめに【要旨】が説かれ、次に【現代表現】としてやさしい言葉で現代語訳が示され、【読み下し文】と【原漢文】が続き、難解な用語は【用語釈】として、平安時代から戦後にいたる三十四もの注釈書や著作の解釈に斟酌(しんしやく)した丁寧な解説が附されている。【要旨】と【現代表現】をまずは読んで、【読み下し文】や【用語釈】を参照すれば、難解な大師の著作が不思議なほど容易に了解できる。

大師は、二頌八句(にじゆはつく)を創作し即身成仏という四字を讃嘆し説明していかれるが、先の頌において、六大とは、物と心を総合し一体化しており、それはあらゆる存在の本源たる大日如来に外ならないのであり、そこから仏も衆生も万物自然をも生み出し、互いに融合し結びついているという。四曼は、その真理のありかたを四つの形で象徴的に表現したものである。

そして三密加持はその働きを身と語と心と捉え、仏と衆生の三密は本来ともに入り混じり互いに支え合っているので、仏と人との三密の関係をよく心得て三密瑜伽の行法を修すれば速やかに大悉地を得ることが出来るとするのである。さらにこの六大四曼三密は相互に一体化しておりそれを無碍という言葉でまとめられる。そして後の頌においては、人、動植物、環境社会が本体、形相、作用において仏に他ならないことを成仏という語で説明されていく。

この度、本書を読んで、『即身義』に不読段があることを知った。灌頂を受けていない者には説かない決まりがあるという。その段は、即身成仏を確信して、尚私たちはいかに生きるべきかを教えてくれているように思える。それは、理趣経系統の儀軌である『五秘密軌』を引用したくだりであり、受者が阿闍梨から三摩耶戒を授かり、金剛薩埵の五秘密瑜伽の教えを早朝・正午・夕方・夜半に日常生活の振る舞いの中で絶えず思念し実践すれば現世で初地を得るとあって、

続いて「五秘密の修法を修することによって、覚りとか生死に染まらず、執着せず、果てしなく輪廻を繰り返す生涯の中に身を置きながら、広く衆生の利益と安楽に努め、自身を百億の身に分けて、輪廻に苦しめられている生き物たちの中に入りこんで、彼らを導き、最終的には金剛薩埵の位に到達させる。」(P140)とある。正に『理趣経』百字偈に説く勝れた智慧ある菩薩としての生き方そのものであり、『高野山萬燈會願文(まんどうえがんもん)』にある大師の誓願にも適うものであろう。なぜなら、その誓願をかなえるべく実働すべきは私たちなのであろうから。

釈尊はその生涯において、弟子たちの多くを阿羅漢果という最高の悟りをさとらせた。がそれが故に、解脱して死後再生せず、死とともに慈悲行を諦めざるを得なかった。解脱することが目的ではなく、何度も輪廻しつつ菩薩行に挺身することこそが大乗菩薩としての理想であることをここに示してくれていると言えよう。

『即身義』によって大師は、現代に生きる僧侶である私たちに何を訴えかけておられるのか。大師の思いを私たちの心にそのまま繋げて下さるのが本書である。本書は、今年九十歳になられる松長先生が真言僧侶関係者に向けて宗祖大師の著作を現代に生きかえらせようと渾身の力を振るって、そこに先生の持つすべてを注ぎ込まんとなされた労作である。多くを学ぶことが出来よう。是非御一読願いたい。(全)


◯【六大新報令和二年二月二五日号掲載】
『アジア的融和共生思想の可能性』第一章 保坂俊司先生執筆
「梵天勧請(ぼんてんかんじよう)思想と神仏習合」に学ぶ

昨年十二月二十日刊行の中央大学政策文化総合研究所研究叢書(そうしよ)の一冊である。編著者の中央大学国際情報学部教授の保坂俊司先生は、これまでにも世界レベルの論文をいくつも世に問うてこられた。インドのヒンドゥー教とイスラム教が融合したシク教と大乗仏教との相似に関する研究、大乗仏教興起発展に関する西域から来たる異民族多民族統治のイデオロギーとしての思想展開論、インド世界から仏教がなぜ亡んだかということについてイスラム資料を渉猟されて仏教徒が非暴力を貫くが故に改宗していったとの推論、またイスラム教の宗派の中にあってインドに伝わるスーフィーという神秘主義者たちの思想による穏健なイスラム教徒の存在に注目すべきであるとする論文など、枚挙に遑ない。

そしてこの度は、本書第一章「梵天勧請思想と神仏習合」において、これまで保坂先生ご自身が、インドにおいて仏教が衰滅したのはなぜかと探求されてイスラム教側の資料である『チャチュ・ナーマ』に着目されて到達された推論には実は完全にはご納得が得られていなかった部分があり、その後も思索され続けたことにより、仏教の根幹ともいえる他宗教にない最も独特なる思想を見つけられ、それこそが仏教を広く世界宗教に押し上げたのであり、かつ、逆に衰滅にいたらせることになったのだと結論される。

その仏教の根本たる独特なる教えとは、そもそもの仏教の発端ともいえる「梵天勧請」にあるのではないかと言うのである。梵天勧請とは、ご存知の通り、お釈迦様成道後に、この悟りは深淵にして欲望燃えさかる世間の者たちには理解し得ないであろうから説くまいとされたお釈迦様の前に、インド世界の最高神である梵天が舞い降りて、このままでは世間は滅びてしまう、この世の中には欲薄く心清き者もあり、その者たちに教え諭すならばきっと最高の悟りを得られる者もあろうから法を説いてくれるようにと説得を受ける。そして、ならばもう一度この世の中を見てみようと天眼通によって世間の者たちを眺めてみるに、確かに心清き者たちの存在があることを知り、お釈迦様は法を説くことを決心したというエピソードである。

私自身は、この教えは、お釈迦様に対してインドの当時の宗教世界の最高神自らが教えを乞う、つまりは神々の立場よりもお釈迦様の悟りは上位にあり、その存在はより崇高なものであることを示す教えとして受け取ってきた。しかし、先生は、その教えはそれだけにとどまらず、他者からの働きかけが不可欠であるという仏教の性格、特に他宗教との融和融合共生を示すものであり、これこそが他の宗教にない、最も仏教的なる、独特なるものなのだとその意味を説いていかれる。

かつて『インド仏教はなぜ亡んだのか』(二〇〇三年北樹出版刊)において推論された、当時の仏教徒らが不殺生非暴力の教えを大切にするが故にイスラム教徒に改宗していって、それがためにインドにおいて仏教が亡んだのであれば、同様にジャイナ教という非暴力を説く教えも亡んでいなければならないが、未だに少数ながらジャイナ教は今日迄存在し続けている。その矛盾を解く鍵として、この梵天勧請があるのではないかと着目されたのであった。

先生は、この話はお釈迦様自らが早い段階から弟子たちに説いたのではないかと推量されている。パーリ経典中の「サンユッタ・ニカーヤ」、漢訳経典の「増一阿含(ぞういつあごん)」に収録されている『梵天の勧請』に経典としてまとめられていくのは、もちろんお釈迦様没後のことではあるが、お釈迦様自らこうしたエピソードを語り伝えてきていたのであり、それは他宗との共存協和共生のために必要不可欠なものであった。そして、これこそが仏教の伝統ともいえる、他を受け入れ自らを変容してでも融和して一体となって繁栄する相利共栄の思想になったといわれるのである。

当時バラモン教が主流だったインド世界にあって、仏教勢力が世間の中で一定の位置を得て、托鉢し、また昼食に招待されつつ社会の中に留まるためには、こうした教えに基づく融和共生の立場はとても大切なものであったのだと思われる。初期経典を読んでみれば当時のバラモンらがこぞってお釈迦様に疑問をぶつけ、討論しては論破され、教え諭されて信者になったり弟子となり出家をしている。

大乗仏教も、先生の他の著書(『国家と宗教』二〇〇六年光文社新書)にて学ばせていただいたことではあるが、西域からやってきた異民族による王朝の多民族を統治するイデオロギーとして、誰をも分け隔てなく受け入れる原理として自らを絶対視しない互いに他を尊重する教えとして空を説いた。そして、西域の文化を取り入れ誰もが菩薩であるとの平等思想を説き、民衆のために聖典の読誦や仏像ストゥーパを信仰し礼拝することを行とする現実的な教えを説いていくことで繁栄した。

そして、イスラム教徒のインド侵攻に際しても、もちろん当時のヒンドゥー教徒からの圧力に対抗する意味合いもあってのことではあるが、イスラム教徒との融和共生を模索するが故に、改宗と見られる様な立場となりながらも不殺生非暴力の教えを守ることになる。しかし、そこには仏教徒としての矜持として、仏教の教えをその中で活かし誇示する行動も記録されているという。八、九世紀の中央アジアでの事例として、改宗したかつての仏教徒一族がブッダ伝をアラビア語に訳したり、メッカのカーバ神殿の儀礼に仏教的な儀礼を導入したらしいといわれていると記される。

そしてこの梵天勧請という思想構造は、私たち日本人にとっての「神仏習合」に他ならないのだと解りやすく説いていかれる。梵天勧請とは、仏教側に他宗教が教えを乞い、それによって相手を救済していくという構造にある。百済からもたらされた仏教が蘇我氏によって進んで取り入れられはしていたが、用明天皇によって帰依を受けることによって初めて公認された宗教となったのであり、神道の最高なる主宰者としての天皇が帰依することによって法が説かれ、神社に仏が祀られ、寺院に神が祀られてともに発展繁栄していく。この神仏習合の形態は正に梵天勧請と同じ構造と言えるのだという。これは比較宗教学を専門とされつつも日本仏教文化に精通された保坂先生の慧眼による一学説となるものであると言えよう。

そして、日本において江戸時代まで国教の立場にあった仏教が今日の様な位置に貶められた切っ掛けとなった明治の神道国教化に基づく仏教排斥も、正にインド仏教が亡んだように、自分の中に他の宗教と融和し共生するが故にその内包した他者によって内部から破壊されると大変もろく衰亡に繋がる一事例に他ならないと説明されている。

最後に、先生は、こうした仏教の特質は、今日の宗教間の確執によって抗争する国際情勢にあって、「異なる他者を受け入れ、自己犠牲を厭わず、平和裏に共生関係を持とうとする仏教の教えは再評価する意義があるのではないか」といわれる。これは正に仏教の他にない最も大切なアピールポイントであって、だからこそ今世界的に仏教の瞑想が普及し得たとも言えようか。先生も近年欧米でもてはやされる「マインドフルネス」と喧伝(けんでん)される仏教瞑想が普及することで仏教の平和思想への共感が急速に高まっているといわれていると指摘される。単にビジネスに活用するスキルとしての瞑想ではなく、根本の仏教思想にまで彼らの関心が及び、これからの世界を平和に導く原動力となることを先生共々に願いたい。今回こうした最先端の仏教論文を読ませていただき、仏教の仏教たるゆえんを新たに知ることができましたことに感謝申し上げます。

最後にはなるが、皆様には、是非この中央大学の研究叢書『アジア的融和共生思想の可能性』(中央大学出版部)を直接手に取り、先生方の論文からさらに多くのことを学んで欲しいと思う。(全)


月刊「佼成」令和元年五~八月号
「つれづれ仏教歳時記」 掲載

 
五月
国連ウェーサクの日
 五月の満月の日に、南方の仏教国では、お釈迦様の誕生とさとりと入滅を同時にお祝いする盛大なお祭りを催します。
 新暦の五月頃にあたる、インド暦の二月・ウェーサク月の満月の日にお釈迦様は誕生し、三十五歳の同じ日におさとりになられ、八十歳の同じ日に入滅したとされているからです。
 実はこの五月の満月の日は、一九九九年十二月国連総会にて、「国連ウェーサクの日」として、世界中の仏教徒にとり、もっとも聖なる日であると認められました。そして、この日に仏教徒が集い、祝うことを国連がサポートすると決議しました。
 これにより、毎年この日には、国連本部や地域事務所において、各国の仏教徒が集い相互理解を深め、世界の融和の為に会合が開かれています。
 お釈迦様は生まれると、すぐに七歩歩いて、「私は世界の第一人者、最年長者、最勝者である。これは最後の生まれであり、二度と生存はない」と、このように語ったと「希有未曾有経(けうみぞうきよう)」にあります。
 これは、さとりを確信されて生まれたお釈迦様が、さとりこそ人類にとって最も価値あることであると宣言したものといえます。さとりを開かれて説かれた教えは、世界中の人々にとって有益な教えであることも意味しています。特に、分け隔てのない友情と非暴力、共感と寛容を説く平和へのメッセージは、人類の平和共存のために不可欠な教えと言えましょう。
 今年の国連ウェーサクの日は五月十九日です。私たちもともにお祝いしたいと思います。

六月
四国遍路の話
 三十年程前のことになりますが、五月から六月にかけて四国を歩いて巡礼したことがあります。四国八十八箇所は、弘法大師ゆかりの霊場とされますが、それより古くからあった四国の難所・辺路(へぢ)を遍く巡るところから遍路ともいわれます。
 ビニール紐で編んだ草鞋(わらじ)を履き、衣を着て頭陀(ずだ)袋(ぶくろ)を下げ、網代傘(あじろがさ)と錫杖(しやくじよう)をもち、東京港から夜行フェリーで四国に入りました。一番札所霊山寺(りようぜんじ)から歩き始め、夜は寝袋に入り、雨の日は遍路宿や宿坊に泊まりました。
 次の札所まで、まだかまだかと思って歩くときにはその道のりは遠く、ただ一歩一歩、ひたすら足下を見て歩いていると、気がつくと札所の前に来ていたということが何度もありました。
 道端で佇むお婆さんから百円玉をのせたミカンをいただいたり、食堂でお会いした方が車で次の札所にお連れ下さり、そのまま善根宿(ぜんこんやど)をお接待いただいたこともありました。こうして、お接待して下さる四国の方々のやさしい心に支えられ、八十八番大窪寺(おおくぼじ)まで千四百キロの道のりを三十九日で結願することができたのでした。
 夕刻札打ちを終えてベンチに腰掛けていましたら、隣に座るご夫婦に話しかけられ、小松島のフェリー乗り場まで送って下さいました。そして、フェリーで和歌山港へ。その後も車のお接待をして下さる方が現れ、その日の晩遅くには高野山にお礼参りできたのでした。
 誠に不思議なご縁とご利益(りやく)がある四国遍路。是非一度お参りされてみてはいかがでしょうか。

七月
七月はお盆月
 推古天皇十四年(六〇六)七月十五日に、わが国で初めてお盆の行事として、僧侶に食事を施す斎会(さいえ)が行われています。
 この七月十五日は、僧侶が雨期の三ヶ月間遊行(ゆぎよう)せず、精舎(しようじや)の中で修養に勤める安居(あんご)の最終日にあたります。「仏説盂蘭盆経(ぶつせつうらぼんきよう)」には、この日安居を終えた沢山の清浄なる僧侶に食べ物などを供養した、その功徳によって、死後長く餓鬼の苦しみの中にいた目連尊者(もくれんそんじや)の母が救われたとあります。
 私たちのご先祖様の中に、同じように餓鬼道に苦しむ人が万が一にもあってはならぬと、毎年この時期にご先祖各霊をお迎えして供養の誠を尽くすようになったのでしょう。今日のようにお盆の行事として一般に広まったのは、江戸時代から。明治時代の改暦以降、東京や南関東などでは新暦の七月十三日から十五日に、その他の地方では一月(ひとつき)遅れの八月に行われています。
 東京のお寺にいる頃は、七月十三日に持仏堂(じぶつどう)の位牌を精霊棚(しようりようだな)に移して、ホオズキや素麺などを供え、盆提灯を出し、夕方玄関先で麻幹(おがら)を焚いて先師尊霊(せんじそんりよう)方をお迎えしていました。
 ところによっては、精霊棚ではなく、床の間に位牌を並べて、その各々の前に素麺を御供えしたり、また、暗くなってから提灯の火をたよりにお墓からご先祖様をお迎えしたりと、地域によって風習が違うようです。
 いずれにせよ、お盆は、ご先祖様方があっての私たちであることを改めて思い起こさせてくれる、ありがたい日本の仏教行事といえましょう。

八月
夏の夜の万灯会
 ここ國分寺では、毎年八月二十一日、夏の風物詩・万灯会(まんどうえ)が開かれます。
 日が落ちるころ、参道両側の石灯籠や本堂の軒に釣るした、たくさんの提灯(ちようちん)が点灯されます。提灯の下には、献灯申し込み各家の「先祖代々各霊菩提の為」と書いた短冊が取り付けられています。
 そして、晩の七時半から、本堂では結衆寺院方(けつしゆうじいんがた)による法会(ほうえ)が始まります。読経の中、参拝者一人一人、本堂東南角の縁に設えた施餓鬼壇(せがきだん)に進み、焼香のあと、水の子(洗米にナス、キュウリを采の目に切って混ぜたもの)を蓮の葉に供え、水を掛けて餓鬼に施します。最も身近にいて、人間界から功徳が廻向(えこう)されるのを待っているといわれる、餓鬼たちに向けて供養するのです。
 そもそも万灯会は、天平十六年(七四四)奈良平城京朱雀路(すざくじ)と金鐘寺(こんしゆじ)(後の東大寺)に一万杯の燃灯供養を行ったのが、わが国での最初とか。罪障を懺悔(さんげ)して、四恩(しおん)(父母・国王・衆生・三宝)に報いるために一万の灯明を献じる法会であります。
 私たちは誰もが、四恩のおかげで、人として命を与えられ成長し平穏に暮らしています。ですが、日頃そのことに思いいたらずに過ごしているのではないでしょうか。そこで、改めてその恩恵に思いをいたし、四恩をはじめ、生きとし生けるものに感謝の心を捧げるのです。
 お釈迦様の教えは、よく暗闇を照らす灯火に譬(たとえ)られます。私たちも、たくさんの灯明が法の導きとなって世の中を明るく照らし、生きとし生けるものが幸せであるよう祈りたいと思います。(全)


当山中興快範上人書『國分寺中興基録』 を読む⑤
『國分寺中興基録』快範書(五百籏頭(いおきべ)孝行氏解読)

「一、同長弐間 幅一尺五寸厚さ弐寸五分弐枚
   壱枚付拾匁五分宛 弐拾壱匁
           御物(ぎよぶつ)の上すがるはふ(縋破風(すがるはふ))
 一、同長三間半七寸角壱本
   弐拾三匁           御物のけた(桁)
一、同長壱間半五寸角弐本
   壱本付四匁弐分宛八匁四分   脇旦入用
 一、同長弐間半三寸に七寸の丁拾壱本 
   壱丁付九匁四分宛百三匁四分  本間のぬき(貫)
 一、同長弐間半弐寸五分に六寸の五分の丁六丁 
   壱丁付七匁三分宛四拾三匁八分     同断
 一、同長弐間三寸に七寸の丁拾六丁
   壱丁付六匁九分宛百七拾九匁四分    同断
 一、同長弐間三寸に七寸の丁拾六本 
   壱丁付五匁三分ツヽ(宛(つつ))八拾四匁八分  同断
 一、同長弐間弐寸五分に九寸の丁六丁 
   壱丁付六匁七分宛四拾目弐分  内陣廻り敷井
 一、同長弐間弐寸五分に三寸わり物百拾本 
   壱本付弐匁五分宛弐百七拾五匁
               けしゃうたる木(化粧垂木)
 一、同長弐間弐寸四分に弐寸七分五拾六本 
   壱本付弐匁壱分五り宛百八匁弐分  天井ふち(縁)
 一、同長壱間半弐寸五分に六寸五分わり物三丁 
   壱丁付四匁ツヽ拾弐匁     御物前入用
 一、同長壱間半三寸に七寸の丁六丁 
   壱丁付五匁六分宛三拾壱匁弐分 はふの前包入用 
                  同とびのお共に
 一、同長八尺四寸の丁弐枚 
   壱枚付五匁六分宛拾壱匁弐分  下陣地廻り
 一、同長壱間あつみ壱寸三歩板八間半 
   壱間付九匁宛七拾六匁五分   椽板(縁板)
 一、長壱間五歩板七間
   壱間に付き四匁宛弐拾八匁   床の上はり同
                けこみの板(蹴込板(けこみいた))共に
乄(しめて) 弐貫七百壱匁五厘     上方材木
       貫 万事板共に
  右は御作事屋御比官宮崎庄右衛門 同阿坂五右衛門
  作事や小頭小林太郎右衛門三人請相(うけあい)にて鞆材木屋の内  
  播磨屋理兵衛請取(うけとり)上方より下す福山より牛車弐百七拾
  五匁にて国分寺迠引(までひく)
   外に
 一、百八拾目(匁) 伊与(伊予)枌(そぎ)(枌板(そぎいた)・そいだ薄い木の
                    板、屋根を葺くのに用いる) 
                        弐百四拾束代   
 一、九拾八匁       檜木ふしなし  二丁 代
   合 弐貫九百七拾九匁五り
 一、五百七拾三匁 長弐間木 地山松木 弐百三拾七本
内百拾五本東中条村にて、くみ立足代木
   外は大屋ね 野けた(野桁) 野たる木(野棰木) う立(うだち、梲、卯建)共に 
 一、六拾四匁 長三間   引物三本代
 一、百五匁  長弐間   尾引(大引き、尾引き)
              同えんねた(根太(ねだ))共に拾六本
 一、三百六拾四匁五り 釘諸事鉄物代かち(鍛冶(かじ))五兵衛へ
            同六兵衛へ
 一、弐百七拾五匁     牛車代   長右衛門に渡す
 一、四百三拾目四分 たりかわら(瓦)代 久右衛門に渡す
 一、七拾三匁八分五り   作事こや竹
       本堂こまい竹(木舞・小舞)
       屋根土居ふせ竹共
 一、弐百六拾壱匁七分   木洩ふち方作領共に
 一、三拾六匁五分     こや入用のなわ
              本堂こまひ入用
              屋ねふせ竹まきなわ
 一、八匁         大なわ とう□き
              えりなわに成る
 一、拾八匁        かいるまた 木代 作領ふち方
 一、百六拾目       石代 石切 すえ前
        同かつら石 つき石共
 一、三拾壱匁       山野山木代
              日用銀同木の番礼銀共
 一、六匁八分       同平野山木切ふち方
       日用同木預け所礼銀共に
 一、弐拾壱匁       本堂壁もみすさ 
              同土仕半兵衛日用共に
 一、六百三拾壱匁九分   四歩板
              五歩板
           八歩板
            山野山松板代   
              同日用銀共に     つづく


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